興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

認知のゆがみ その11 「こころのフィルター」(Mental Filter)

2014-03-05 | プチ臨床心理学

 よくアメリカ人の会話にでてくる、フォークサイコロジーで、ガラスのコップに入った水の話があります。ガラスのコップに、水が半分入っているのですが、これを見て、ある人は「水はまだ半分残ってる」(Half full)と認識し、別のある人は、「もう半分しか残ってない」(Half empty)と認識します。車のガソリンもそうですね。メーターが半分になっていたとき、燃料はHalf fullなのか、Half emptyなのか。そのふたりの人は、物理的にはまったく同じものを観察しているのに、まったく別のものを投影しているわけです。これで、Half fullと見た人は楽観的で、Half emptyと見た人は、悲観的、などという心理テストですが、今回扱う認知のゆがみ、「こころのフィルター」は、この"Half empty"の最たるもので、この傾向が強いと、人は深刻な不安や、鬱感情を経験します。

 これは厳密にはSelective abstraction(選択的抽出)と呼ばれるもので、この認知のパターンにはまっているとき、人は物事の悪い面ばかりに意識がいってしまい、その良い面が、「こころのフィルター」によって除外(Filter out)されて認識できなくなっています。別の言い方をすると、ものごと全体の中から、その悪い面ばかりを「選択的に抽出」している状態です。

 たとえば、軽度のうつ病に掛かっている18歳の翠さんが、お友達の萌美さんの紹介で、康夫さんとデートすることになりました。翠さんと康夫さんは意気投合し、楽しい時間を過ごしたのですが、その日の終わりに康夫くんと別れた帰路から、翠さんは、ふたりでスターバックスに入った時に康夫さんにした質問で、ふたりが一瞬気まずくなってしまったことで頭がいっぱいになってしまい、止まりません。「ああ、私馬鹿だなあ。なんであんなこと聞いちゃったんだろう。空気読めない奴って思われただろうなあ。常識ない人って思われたかもしれない。嫌われたな。悲しいなあ。もっと康夫くんと一緒に時間過ごしたかったのに。ああ、駄目だなあ私」、と、一人反省会が止まりません。一方で、康夫くんのほうは、「すごく楽しかったなあ。翠さんは面白くてかわいいなあ。彼女ともっといろいろなところに行って、もっと知りたいなあ」、と思っています。それで翠さんは、数時間後に康夫さんから来た次のデートの提案と今日のデートのとてもポジティブな感想に、とても驚いてしまいました。

 この日、翠さんは、康夫さんと本当に楽しい時がたくさんあったのですが、「こころのフィルター」によって、それらはすべて意識から除外されてしまい、意識にあるのは、スターバックスであった一瞬の気まずさで、そのことばかり考えてしまっていたのでした。このような境地にいると、無意識に、悪いものをさらに探そうとします。「私ちょっとしゃべり過ぎたかな」、とか、「もっと相手の話をきちんと聞けばよかった」とか、「早く歩きすぎたかな」とか、「別の服着ていけばよかったかな」、とか、「あんな写真見せなければよかった」、など、探そうと思えば際限がありません。このとき翠さんは、康夫さんの、終始楽しそうな様子や、笑いが絶えなかったこと、話が合って、ほとんどの間会話が絶えなかったこと、いくつも共通の趣味があったことなどを忘れてしまっています。

 さて、この脱出方法は、やはり、まずは立ち止まって、自分が「心のフィルター」を通して物事のネガティブなものばかり見てはいないだろうか、また、同時に、ものごとの良い面を見落としまくってはいないだろうか、考えてみることです。一枚の紙を用意して、真ん中に線を引っ張って、そのものごとの良い面と悪い面を書き出していくのもいいかもしれません。まず、「すべてが悪い」ものごとというのは、そうそうありません。ものごとのポジティブな部分ばかり見て、現実的なネガティブな要素を無視するのは別の意味で大きな問題ですが(脚注1)、要はそのバランスです。ネガティブに偏ってるなあと思ったら、その潜在的なポジティブについて考えてみるのが大切です。


 

(脚注1)これを精神分析学では、Hypomanic(軽躁)といいます。これは、一般にいう双極性障害の軽躁とは異なる精神分析学の専門用語で、無意識に働いている防衛機制を指します。ある種のひとは、何かあって、鬱に陥りそうになると、「鬱に対するディフェンス」として、一種の爽快感を経験します。このとき、その人は、ものごとの良い面ばかりに目が行き、現実的な問題点を見落としがちになります。現実的な問題点を認識することで鬱になるのが怖いからです。映画『風立ちぬ』の主人公にはこの防衛機制が働いていましたが(理想化の世界)、終盤にかけて、そのディフェンスの崩壊が起きました。彼が最初に見ていた夢と、終盤で見た夢は、同じ夢の中であるのに、全く異なった世界でした。この大きな隔たりの理由もここにあります。この映画の感想については別の記事で書いてみたいと思います。



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