こんにちは。今回は、人間誰もが多かれ少なかれ経験する感情、嫉妬について考えてみたいと思います。
嫉妬とは、人間にとってとても自然な感情ですが、同時に、誰にとっても不快な感情でもあります。しかし、現在人間が自然に抱くあらゆる基本感情がそうであるように、この厄介な感情も、進化心理学的に、人間のサバイバルや子孫を残すことにおいて不可欠な感情であるといわれています。つまり、人間の歴史において、嫉妬を感じることをできた祖先は、嫉妬を感じなかった祖先に比べて、子孫を残すことに有利であったため、嫉妬を感じなかった祖先の遺伝子は淘汰され、嫉妬を感じる祖先の遺伝子が現代人に引き継がれている、という話です。
それではなぜ嫉妬を抱くことが大事だったのかということですが、この質問に答えるには、人はどういうときに嫉妬を感じるのか理解することが大切です。嫉妬とは、基本的に、私たちの生活における、特別な人の愛情が、自分にではなくて他の誰かに向いている、と認知されたときに起きる感情です。たとえば、あなたの恋人が、他の誰かに好意を寄せているのを感じたら、あなたは自然に嫉妬を感じます。これは我々の先祖たちの間にも起きていた感情で、自分の配偶者が他の異性に興味を抱き出したときに、それを認知して嫉妬を感じたひとは、何らかの行動を取って、配偶者の軌道修正を図りました。しかしそういうことに鈍いひとは、その危機感を感じられなかったため、異性が自分から離れていくのに気づけずにうまく子供を作れなかった、子孫を残せなかった、ということです。
さて、ここまでで大事なポイントは、1)嫉妬は人間にとって自然な感情である。2)嫉妬とは、人間の生存にとって必要な感情で、我々の愛着の対象が、別の誰かに愛情を向けている、他の誰かのところにいこうとしている、というシグナルに基づく感情である。ということで、さらに、3)非常に不快で強い感情であるため、この感情取り除こうと、人は何らかの適応行動にでる、ということです。
しかし、問題は、こうしたシグナル的な感情は敏感に働くようになっているので、キッチンの煙探知機のように、誤反応も多いことです。どうして敏感になっているのかといえば、キッチンの煙探知機が、実際の火の気ではない少量の煙に反応してしまう不便さと、実際の火の気があるのに反応しない鈍感さと、どちらの方が深刻な問題かについて考えてみると、なぜこの感情がときに不便なまでに敏感にできているのかもお分かりになるでしょう。
とはいえ、我々の祖先が生きていた時代と比べて、現代社会は非常に複雑であり、文化もずっと多様で、我々の置かれている人間関係もずっと複雑です。そうしたなかで、嫉妬心が過剰なひとは不適応を起こしがちで、これは敏感過ぎる煙探知機がうるさくて仕方ないため取り外されて捨てられてしまうのとも似ています。皮肉なもので、愛するものの注意が他にむいてしまっている「可能性」を探知する嫉妬が、その人を愛情の対象に対して過剰で不適切な行動に駆り立てて、その結果対象は嫌気がさしてその人から離れてしまい、実際に愛情を失ってしまう、というケースは少なくありません。
ここで大切なのは、嫉妬とはどういうときに経験するのかを自覚した上で、自分の認知が現実に基づいたものであるのか、落ち着いて検討してみることだと思います。恋人や配偶者、仲の良い友人など、大切な人が、自分ではなくて他の誰かに興味を示し、自分から離れていくような気がしたときに、本当にそうなのか、よく考えてみるのが大切です。大体において、それは一時的でごく自然なことで、つまり、その大切なひとは、あなたと同様に、社会のなかでいろいろな人との人間関係があり、いろいろな人に注意を向けて生きているので、ある状況で、その人が他の誰かに注意を向けるのは当たり前のことなのです。とはいえ、火のないところに煙は立たぬというように、何の理由もないところで人は嫉妬心を感じないもので、「どうして今この瞬間に自分は嫉妬を感じているのか」立ち止まって考えてみると、今の自分とその人の人間関係についての洞察が得られたり、誤解や認知の歪みに気づいたり、自分が何を求めていて、何が欲しいのかにおいて気づきが得られたりして、不適応に陥らずに、その感情の根本を解決することも可能です。こういう意味でも、「ネガティブな感情」である嫉妬心は、あなたがより健全で幸せになるにはどうすればいいのか示唆してくれる、とても有意義な感情であるともいえそうです。
「焼きもち焼くとも手を焼くな」という古い諺もありますし、
源氏物語に登場する姫君達は嫉妬の果てに「うらみ」や「ねたみ」の感情が抑えきれずに生霊になって現れるなど、j実におぞましい行為に走らせたりします。
古来から人間は嫉妬心に振り回されたり、うまく昇華すれば素晴らしい表現者や芸術家や発明者になったり、人間に一生ついてまわる、「嫉妬心」は実に興味深い感情だと思います。
お久しぶりです。今年のLAは寒いですね。
嫉妬心、まさに諸刃の剣のような感情ですね。
人の創造性、共感性、生産性などに繋がる感情であると同時に、傷害事件、殺人、自殺、破壊的な人間関係などにも繋がる感情で、我々人間が生涯に渡って付き合っていかなければならない感情ですね。嫉妬とは、忌むべきものでも避けるべきものでもなく、その基本感情といかにうまく付き合っていくかが幸福の鍵だと思います。
もしも愛する相手についての、心の機微を追える程に、正確に詳細に情報を得られるとするならば、果たして嫉妬心が消えてなくなるかと言えば、恐らく決して消えるどころか、益々微に入り細に入り、憶測が憶測を呼び、自分の確固たる自信の根拠の希薄なる現実に苛まれ、際限なく深まりを極めることになると、僕は思うのです。
つまりは、嫉妬心は相手に対してではなく、自分への否定的な側面を、ただ隠蔽せんとして湧き立つ、自己否定の反射的表現に過ぎないのではないかと思います。
それ故、好きな相手を愛するということと、その人の、独立した一個の人間としての幸福を希求することを整合させるのは、唯々自分自身への克己心と向上心によるほかはないのかも知れませんね。
この記事は、進化心理学的な見解で、つまり、人間の性質の普遍的な面にフォーカスした理論ですが、実際にはそこには大きな個人差があります。
恋愛が深まることで、その関係性に、相手に、深い信頼関係を築けて嫉妬心がずっと柔らぐ人もいれば、関係が深まることで、さらに束縛的になる人もいます。
この差は主に、その個人の、幼少期の親との関係で築かれた愛着スタイル(Attachment styles)などによって決定されるもので、安定した愛着スタイルを持つ人は、相手と信頼関係を築けるけれど、不安定な愛着スタイルの人は、その不安定性が複雑であればあるほど、そこに難しさを経験します。
つまり、私の考察では、ひとの嫉妬心には、健全な嫉妬心と、不健全な、つまり、不適応的な嫉妬心が存在し、その違いは、生物学的というよりも、環境的なものによって左右される、というところです。
ただ、難しい親子関係で育って、嫉妬心に苦しむ人が、あなたのいうように自分と向き合ってうまくやっていくのは、とても意味があることで、素晴らしいことだと思います。
嫉妬心を消すことはできなくても、それとうまくやっていく方法は存在し、そこに人間性の偉大さがあるように思うのです。