興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

人間が年を重ねるごとに涙もろくなる訳

2006-09-05 | プチ精神分析学/精神力動学
ある方からの質問、『人間は、年を重ねるとどうして涙もろくなるのか』
に対する回答です。


これは、多かれ少なかれ、誰にでも経験あることだと思います。自分も滅多なことでは泣かない人間だったのだけれど、近年その傾向が変わりつつあります。どうして涙もろくなるか・・・大変面白いことですよね。いろいろ考えてみました。知り合いの臨床心理学者にも聞いてみました。いろいろなことがあるけれど、彼の見解でとても面白いと思ったのは、『ナルシズム(自己愛)の減少』という解釈です。

人間、若いときはだれでも強いナルシズムを持っていて、多くの場合、その自己愛は強すぎる傾向にあります。ナルシズムとは、自己へ向けられた愛、また、自己へ向けられた関心なので、(自分がどんなに嫌いな人でも、ナルシズムは持っています。実際、あらゆる精神病理は、何らかの形でナルシズムに問題が生じたときに起こります。ナルシズムについてはそのうちに機会ができたら書こうと思っています)ナルシズムが強いと、他人に興味を持ったり、共感するのが難しくなります。

実際に、『自己愛性人格障害』というこころの病理の最大の問題点は、その共感性の欠如と誇大した自我にあります。

そういうわけで、ナルシズムが強いと、他人に共感したり、同情したり、他人に興味を持ったり、他人を認めたり、そういうことが難しくなります。

でも、様々な人生経験によって、人間のナルシズムはよりよい形と大きさへと、修正されていきます。

涙もろくなるのは、つまり、ナルシズムの成熟(減少)により、他人に共感する能力が高まったから、ということがひとつに言えるかもしれませんね。

また、若いときは、ナルシズムゆえに、強がって見せるから、泣かないわけだけど、人は成熟すると、強がる必要もなくなってくるわけで、その結果、自分の気持ちにも素直になれるわけです。

「帰属と価値観」モデルによる偏見についての考察

2006-09-04 | プチ認知心理学

"Attribution-Value Model of Prejudice"-「帰属と価値観」モデルによる偏見における考察




ご存知のように、差別や偏見やステレオタイプや烙印は、世の中のいたるところで見られる。しかも、その事象は実に多岐に渡っていて、人種・民族、社会階級、ジェンダー、性的志向、宗教・spirituality、年齢、身体・精神障害によるものなど、様々だ。

差別や偏見の分析のためのモデル(理論)は様々で、私が前に書いた、In-Group/Out-Groupによるものや、違いに対する嫌悪(人間は自分と似たものに親しみを覚え、違うものに抵抗を示す)、限られた資源やリソースにおける競争、などいろいろあるけれど、これらは主に、人種差別やジェンダーの問題においての研究に用いられてきた。わが国でも、在日韓国人や、海外からの出稼ぎ労働者に対する差別と偏見など、これに該当する。

しかし、従来のモデルではいまいち説得力に欠ける差別や偏見はたくさん存在する。

たとえば、肥満に対する偏見。ホームレスに対する偏見。HIV-positiveの人に対する偏見。アルコールや薬物依存における偏見。摂食障害に対する偏見。離婚に対する偏見。貧困に対する偏見。Sexual Minorities (Gay, Lesbian, Bi-sexual, Transgender, GLBT)に対する偏見。ある特定の精神障害(ボーダーラインなどの人格障害)における偏見。Spouse Abuse (配偶者やパートナーによる家庭内暴力)の被害者の女性に対する偏見。ニート(Not in Enployment, Education, or Training, NEET)と呼ばれる人たちに対する偏見。中絶をする女性に対する偏見。性暴力の被害者に対する偏見・・・と、例を挙げてみると切りがない。

これを読んでいる方の中には、上記のうちの「ある人たちに対しては共感できるけど、この人たちは偏見持たれたって仕方ないんじゃない」、と思われる方もいるかもしれない。それはごく普通の反応だと思う。


上に挙げてみたのは、わが国でも特に偏見の多い事象だと思う。私の周りの、基本的にとても共感的な人たちも、「それは偏見じゃないよ。この人たちが悪いんじゃないの?」というひとも少なくないと思う。でも、どうして男女における差別は許されなくて、HIV-Positiveの人たちは非難されてしかるべきなのだろう。どうしてゲイの人は差別されていいのだろう?どうして旦那やボーイフレンドから暴力を受けた女性が責められる? ホームレスは差別を受けてしかるべきなのか。


前置きが長くなったけど、「帰属と価値観」モデルとは、つまりこういうことだ。あるグループが、1)文化的にネガティブな特徴を持っていたり、ネガティブな出来事を経験していたりして(文化的価値観)、2)その責任がその人たちにある、または、それらはコントロール可能で、避けようと思えば避けられる、もしくは、脱出しようと思えば脱出可能(帰属) とみなされた時、そのグループに属する人たちは差別と偏見を受けやすくなる。1)か 2)のどちらかでも、差別や偏見は予測できるが、この1)と 2)が同時に存在するとき、そこには相乗効果がある。つまり、差別や偏見の発生は、1)と 2)の相乗効果で、より明確に予測可能になる。*2

別の言い方をすると、あなたが、たとえば、ニートと呼ばれる人たちに偏見を持っていたとする。それは、わが国の文化的な価値観において、「就職もしてないし、学校にも行ってないし、職業などの訓練を受けているわけでもない」というのはすごくネガティブな響きがある。
(1.ネガティブな文化的価値観-negative cultural value)

しかも、あなたはこう思うかも知れない。「この人たちは大体が怠け者なんだよ。やる気がないんだよ。なんで働かないの?学校行かないの? みんながんばってんだよ。君達もがんばろうよ」。つまり、「ニートはその気になれば働けるのに、怠慢で働かない。ニートなんて止めたければいつだって止められるじゃん。自分達が選んでニートやってるんでしょ」という考えが根底にある。(2.責任の帰属-attribution of responsibility)

このように、私たちは、ある人が、何かネガティブな特徴をもっていたり、ネガティブな体験をしていて、その責任がその本人にある(回避可能、コントロール可能)、と思ったときに、その人に対して偏見を抱いたり、侮蔑的になったりする。
 
ある女性が、さまざまな事情から、やむなく中絶を決意するとする。でも、その女性に対して、「何で避妊しないのよ」。「なんでコンドーム使わなかったの」「何で後先考えないでセックスするの」「相手を選びなさいよ」などの思いがけない非難の声が飛んできたり、この女性が後ろ指刺されたり、白い目で見られたりすることはしばしばある。この女性を非難する人達は、まず、「人工妊娠中絶はいけない」という、価値観があり、また、「この女性は避妊だって出来たはずなのに選んでそうしなかった」という、責任の帰属が存在する。

肥満における差別と偏見も同様な構図がある。まず、肥満はわが国においてとてもネガティブなものとされている。あまりにも多くの人が、実際以上に、「人の体重はその人の努力次第でいくらでも減少可能だ」と思っている。この2つが結びつくと、そのひとへの差別や偏見の発生が容易に予測できる。


このようにして、「帰属と価値観」モデルは、社会における様々な差別と偏見の構造理解に有効だ。では、このモデルをつかって、自分達に存在する差別意識をどのように減らすことができるだろうか。

まず、私たちは、「責任の帰属」という前提自体を疑ってみる必要があると思う。たとえば、上の例で、その中絶を選んだ女性は、本当に妊娠を回避できる立場にあったのだろうか。その人の置かれていた状況、人間関係、精神状態、いろいろな複雑なバックグラウンドがあるかもしれない。たとえば、もしその人の妊娠が性暴力の結果だったらどうだろう。この世の中、人間が自分の意思でコントロールできることは、私たちが思っているよりもずっとずっと少ない。

ホームレスや、貧困に生きる人達は、怠け者なのだろうか。選んでそうしているのだろうか。その気になれば貧困から脱出できるのか。もちろんなかには、少数、選んでそうしているひともいるかもしれない。でも、少なくとも圧倒的大多数は、そうではないと思う。

肥満においても同じことが言える。まず、世の中には、遺伝的に太りやすい人と、いくら食べても太りにくい人がいる。太りやすい人は、気をつけていたって太る。それに、健康体重というのは、そもそも個人差がある。さらに、病気や身体障害で太る人や、薬の副作用で太る人も多い。これらは決して制御可能じゃないと私は思う。

と、このように、そもそもの「コントロール可能性」について疑ってみるのは大切だと思う。 

文化的価値観についても同じことが言える。人間は生まれたときから特定の文化にさらされていて、大人になるころには、完全にその文化を内在化している。それはごく自然なことだ。私たちは文化的価値観に従って生きている。それは社会の秩序において絶対に必要だろう。でも、すべての面において文化的な水準が正しいとは限らない。同性愛における文化的なネガティブなイメージについて考えてみるのもいいかもしれない。

****************

*1 C.S.Crandallらの、この文献は、6カ国における主にアンケート形式のリサーチによるもので、個人主義の国として、アメリカ、オーストラリア、ポーランド、集団主義の国として、トルコ、インド、ベネズエラが対象となっている。ちなみに、個人主義(Individualism)とは、個人の目的と集団の目的に葛藤が生じたときに、個人のゴールを優先させるもので、西洋に良く見られる。集団主義(collectivism)とは、わが国のように、個人の目的より、集団の調和や場の空気の方を優先させる傾向だ。

彼らのリサーチでは、このモデルは、集団主義社会よりも、個人主義の社会における偏見の考察により当てはまるとされている。わが国日本がこのリサーチに用いられなかったのは、僕が思うに、現代の日本社会は、日本の伝統的な集団主義と、西洋の影響の強いここ数十年の個人主義的なポップカルチャーが微妙な具合に入り混じった極めて複雑なものとなっているからだと思う。日本における差別と偏見にこのモデルがよく当てはまるのは、日本の近代文化によるものかもしれない。

*2 このモデルにおいて、責任の本人への帰属が偏見につながるのは、個人の自己責任が重んじられる個人主義の国のほうが、集団主義社会に比べておこりやすいとされている。逆にいうと、典型的な集団主義社会では、個人の責任が、直接偏見へと繋がらないことが多い。

(2014年6月3日編集)


Othering -他人化すること-

2006-09-04 | プチ社会心理学

近年のアメリカの社会科学の分野では、Other (他人)という名詞が動詞として使われるようになってきている。

これは、"Othering"という概念で、差別、偏見、ステレオタイプにおける理論に使われる(Otherはここでは便宜的に「他人化する」と訳しておく)。

差別と偏見のメカニズムにおいて、In-Group/Out-group Dynamism という理論があって、これは、「人間は自分が属しているグループ内の人達を、強い個性を持った一人一人と見るのに対し、自分達のグループの外にいる人はみんな同じに見える」という人間の認知の傾向について言っている。

学生時代、たとえば、中学や高校で、一つのクラス内はいろいろなグループに分かれる。自分が属していたグループのことを今でも鮮明に記憶している人も多いと思う。

ちょっと思い浮かべて頂きたい。あなたはどこにいただろう。あなたのグループにはいろいろな個性を持った人がいたと思う。個性派ぞろいで楽しい学校生活だったかもしれない。さて、他のグループっていくつかあったと思う。どうだろう、なんかどちらかというとみんな同じように見えなかっただろうか。

たとえば、バスケ部で固まっているグループがあったとする。彼らは、自分達のグループはみんな個性的だと認識し、お互いを「個人」としてみるけれど、自分達の所属していない、鉄道部とか写真部の人達の作ってるグループ(つまりバスケ部の立場からすると外のグループ)の人達が、みんな同じに見えたりする。「秋葉系」として、ほとんど無意識に一括りにしがちである。

これがIn-Group/Out-Group Dynamismの一つの例だ。実際には、鉄道研究部や写真部の人達だって彼らと同じくらい、もしくはそれ以上、一人一人個性的なはずなのだけれど、その個性は、一つの、大雑把な、「秋葉系」というカテゴリーで終わってしまう。このような、一般化の仕過ぎを「ステレオタイプ」というのだけれど、こういうことはどこででも起こり得るものだ。

人間の脳は、あらゆるものを分類・一般化して整理しておいて、その分類を、日常生活で出会うあらゆる情報のすばやい処理に使うのだけれど、ステレオタイプは、一般化が行き過ぎた形だと言われている。

このIn-Group/Out-Group Dynamismの最大の問題点は何かというと、この認知の過程で、人間はどこかへ所属していたいという本能があるのだけれど、その自分が所属するグループがよいものと信じたいので、そのために、他のグループを自分達より劣るものとしてみる傾向だ。

In-Groupのメンバーは、自分と何か同じ性質を共有している仲間としているのに対し、外のグループは、取るに足らない群集と見なしがちだ。これがOtheringの過程である。

他人化された人は、みんな同じに見える。個性が見られない。これをステレオタイプ呼ぶ。言うまでもないことだけど、このステレオタイプはたいていネガティブなもので、偏見へとつながってゆく。精神障害をもったひとを、「メンヘラ-」と一括りにする人が多いのもこの良い例だ。

この理論はもともと、アメリカの白人とそれ以外の民族や人種においてのものだった。アメリカ白人は、自分達のお互いの違いにはものすごく自覚があり、お互いの「個人」の「個性」をみとめて生活しているのだけれど、黒人とか、アジア人とか、ヒスパニックといったグループに属する人がみんな同じに見えてしまったりする。韓国人と日本人と中国人とタイ人は我々日本人から見れば全然違うけれど、彼らからはその違いが分かりにくく、「アジア人」でひとくくりになる。

逆に、日本にアメリカ人やイラン人や中国人がいたら、我々はとりあえず「外国人」と一括りにしたりする。それで、「アメリカ人はこうだ、イラン人はこうだ、中国人はこう」といった具合に、典型的な行動パターンや容姿で単純化してしまう。「日本人」というIn-Groupの外にいるOut-Groupの人達は皆同じようにみえる。

さて、話が大きくなってきたけれど、こういうことって私たちの日常生活でかなりよくあると思う。たとえば会社でも、仲のいい人達のグループってあるけれど、その外部の人がやたらと共通点の多い似たり寄ったりの人に見えたりする。ここに、他人化が起こっている。どうでもいい人。関係ない人。個性のない人。つまらない人。知らない人。

でも、このIn-Group/Out-Group Dynamismの構造の中で暮らしていたら、グループを出たところでの、深い人間関係や、新しい発見のチャンスを逃し続けることになる。自分のグループの外にいる人はみんな同じに見えるけど、「それは認知の問題だ」と自覚して、グループを超えた人との交流をしてみると、面白いことあるかもしれない。

マザーテレサが言っていたように、人間一人対一人の関係はとても大切だ。