スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

江戸城外堀巡り PARTⅡーその4

2019-04-13 06:53:02 | 旅 ~東京

工部大学校阯碑。霞ヶ関コモンゲートの一帯、すなわち江戸時代

虎ノ門内延岡藩邸を中心とした地域は日本の工業発祥の地だ。

明治6年(1873年)工業分野における日本人の人材育成を

目的として工学校(工業寮内に設置)が開校し、明治10年(1877年)には

工学寮が工部大学校と改称された。同校は明治19年(1886年)に

帝国大学と合併してその工科大学となった。

現在の東京大学工学部の前身だ。

霞ヶ関三丁目の旧文部科学省、会計検査院庁舎跡地に、

官庁整備にPFIを導入する先駆的事例の市街地再開発事業

通称「霞ヶ関コモンゲート」広場「霞テラス」が2007年10月の完成した。

2棟の高層ビル(東館・西館)と商業施設の「アネックス」と

中央合同庁舎第7号館の別棟に当たる旧文部省庁舎の4棟の

建物からなる。東館と旧文部省庁舎には文部科学省、文化庁、

会計検査院が入居。西館には金融庁、帝人、大和住銀投信投資顧問

愛知大学、霞山会館などの民間施設が入居している。

三井ビル前のこの石垣は大変重要な価値がある。

外堀の内側の石垣が地表から露出している。

この石垣の上に江戸城外堀唯一の櫓があった。

この付近の千代田・港の区境は、区画の中を一見中途半端に

横切っているが、これは外堀の外縁部の跡が基準となっているためだ。

ガイドさんの持っている絵は、京極家が丸亀藩主だった時に

領内にあった金刀比羅宮から勧請して上屋敷内に建立した金刀比羅宮。

溜池交差点の中に溜池の由来が書かれた石碑がある。

江戸時代初期に外堀に堰を設けて貯水池にし

上水の水源としても利用された場所だ。明治時代に水量が減って

川のようになり、昭和初期に暗渠化されて姿を消した。

この溜池は慶長11年(1606年)に浅野幸長が設けたもので

堰から流れ落ちる水の音から「赤坂どんどん」と呼ばれていた。

首相官邸表門の裏側から撮ったもの。

(2017-8-3付ブログ 首相官邸参照)

官邸前の池の畔に外堀の石垣石が並べられている。

大分前、ビートルズが来日して宿泊したその当時のヒルトンホテル。

その後キャピタル東急に変わったが、現在建替えられて、

すっかり近代的ビルに生まれ変わった。周辺も全く変わってしまった為

昔の面影を思い出すとっかかりすら見つからない。

山王日枝神社の裏参道の立派な石造の大鳥居。本殿は小高い

山の上にあり、そこに行くのに厳しい階段を上がっていかなければならない。

その為、この参道には神社には珍しい立派なエスカレーーターが

設置されてある。階段も裏参道とはいえ、広々していて立派だ。

山王日枝神社の境内の案内図。当神社は太田道灌が江戸城を

築いたときに川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である

川越日枝神社を勧請したのに始まると言われている。

この地は江戸城から裏鬼門に位置している。

旧国宝だった本殿、神門。宝暦の大火の後、この地に落ち着き

多くの国宝建造物を所有していたが、第2次大戦で全て焼失した。

ここでは江戸三大祭の一つ、山王祭が行なわれている。

本殿の裏手にある山王稲荷神社、八坂神社、猿田彦神社。

ここの狛犬は結構有名らしい。

こちらが表参道の山王男坂。見た感じはどちらかというと

こちらが裏参道で前述した外堀通りに面した裏参道が表の鳥居に見えてしまう。

こちらの鳥居は稲荷参道。山王日枝神社の鳥居は一般的な鳥居の上に

山が乗っている形に成っていて個性的だ。