芭蕉と対話
西行「北面の武士」芭蕉も武士だった。
西行「北面の武士」芭蕉も武士だった。
井原西鶴、近松門左衛門と並んで、元禄3文豪に数えられる
(西鶴は2歳年上、近松は9歳年下)。
松尾家は準武士待遇の農民。もし松尾芭蕉がいなかったら日本語は違った発展を遂げていた?
芭蕉の生きた江戸時代まで文学と言えば京都の王朝文化が一千年育んできた雅なもの。
多くのルールや、厳格な言葉遣いに縛られていた。しかし芭蕉はそれらを破壊。
「鶯(うぐいす)や餅に糞(ふん)する縁の先」と、「糞」までを詠み込んでみせる。
身近な風景や何気ない庶民の営みにも美が宿り、感動があることを表現した。
日本人の感性に影響を与えた芭蕉の改革に迫る。
「おくのほそ道」の旅の体験から、不易(ふえき)流行の理念を確立
不易流行 意味
▽「不易」はいつまでも変わらないこと。
「流行」は時代々々に応じて変化すること。
西行「北面の武士」
本名佐藤義清(のりきよ)。
生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人。
『新古今和歌集』には最多の94首が入選している。
宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。
祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、
幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となる。
西行は御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」
(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいた。
北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価された。
武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人だった。
さらには、鞠(まり)を落とさずに蹴り続ける、公家&武士社会を代表するスポーツ「蹴鞠(けまり)」の名手でもあった。
「北面」の採用にはルックスも重視されており、西行は容姿端麗だったと伝えられている。
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