勉強不足痛感の当方・・何と去年図書館でヒョンナことから
手に取って、これは良い、不勉強を取り戻すのにとても良い
教科書となる『正論』を今後は親しもうと的を絞って読むこ
とを決めた。細かい字を敬遠する今になって・・よーしやって
みよう。今回は買い求め自分に叱咤激励して真剣に立ち向かう。
母・美江子の16歳~21歳の間、父・奥野捨次郎が台湾第二
の都市、高雄に、滋賀県長浜市川崎町出身の【吉井長平】
氏が『吉井百貨店』建設するという事で、その親戚筋に当
たる奥野捨次郎が建築責任者として担当した。奥野家の五
名が百貨店の店員として日本から応援に出向いたのでした。
話の始まりはそこから発します。日清戦争で我が国が勝利
して我が国が台湾統治(50年間)をし始めた時の話を今回
の早坂 隆氏が書き綴っているので、日本が如何にして日本
領台湾を造り上げて行くかが良く理解出来る投稿であるの
で、真っ先に私はこの特集に飛びついたのでした。
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※奥野捨次郎は建築業営み、母つるとの間に7人の子を授かり
私の母は女4人の3番目、女、民子・長女、ヤス江・二女、
美江子・三女、信子・四女、男、寿太郎・長男、貞三・二男
朔郎・三男、二男三男は20才代で戦死、父母と女赤字の5人
は台湾で百貨店の手伝いを・・・参考長女民子のご主人石川
喜代二氏で、台湾、屏東市吉井百貨店の責任者でありました。
※長男・奥野貞三24(昭和9年)二男・朔郎26(昭和22年)逝去、==合掌==
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書き出だしは、李登輝元総統の言葉から、彼は台湾民主化の
父として広く尊敬を集めた。日本と台湾が共に歩んできた歴
史に常に優しい眼差しを向け、「日本人よもっと自信を持ち
なさい」と励まし続けた。日本人はこの激励の言葉を忘却し
てはならない。史実に基づきながら認識を深めることが重要
と筆者は、幾つかの逸話を紹介しつつ、先達の志や生き様に
思いを馳せ、教訓を深く学んでほしい。と言っている。
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〇 六氏先生の献身性
明治28年4月、下関条約により台湾は清国から日本に割譲された。
清国側は台湾を「化外の地・難治の地」と評し、「文化が及ばず、
治め難い土地」の意味、しかし、日本は台湾の近代化に正面から
取り組んだ。重視したのは教育の普及であった。文部官僚の伊沢
修二は、台湾北部に「芝山巌学堂」という学校を設立、台湾人対象
の最初の学校である。それまで台湾を統治したオランダや清国は、
「愚民化政策」が基本だったが、日本の統治方法は真逆の形態を取
ったのだ。現地人はその真意を理解せずに反対勢力の暴動が発生した。
しかし、頑として屈することなく台湾の教育水準の向上に命を賭けて
いることを住民たちは理解し深い感銘を受けた。「死して余栄あり
実に死に甲斐あり」と授業を継続した。しかし、迎えた明治29年元旦
新年のあいさつに向かう途中6名と用務員・小林清吉らは約100名の抗
日ゲリラに襲撃され惨殺されたのだ。楫取道明38歳、関口長太郎37、
中島長吉25、桂金太郎27、井原順之助23、平井数馬17、であった。
自身が一時帰国中に起きた惨劇に悲憤慷慨した伊沢はすぐ台湾に戻って
改めて教育事情の推進に邁進した。さらに、6名の遺志を継ごうと多く
の日本人教育者が危険を顧みず新たに台湾へと渡った。日本の近代化が
成功した最大の要因は教育を重んじたことにあったのである。事件勃発
三ケ月後、芝山巌学堂は授業を再開した。六名の追悼慰霊碑建立、碑文
の揮毫は首相の伊藤博文であった。松下村塾出身である。
以降、日本の教育政策は台湾の人々に広く受け入れられ、小学校から大学
まて多く設置されたのであります。台北に帝国大学開学は昭和3年、大阪
や名古屋より早い設置であり、台湾の優秀な若者が日本の大学で学んだ。
李登輝元総裁は京都帝国大学で学び、日台間の教育分野の共栄の端緒に
は多くの人々の情熱や勇気、そして犠牲があったのである。
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以下 〇 八田興一の功績 〇 飛虎将軍の自己犠牲
〇 二・二八事件下で示された正義と勇気
〇 継承される日本人の心 ・・・続編へとさせて頂きます。
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【歩きメモ】
12036歩・8.8km・33g・2159kcal
日記風川柳
「死語なりき 勤勉誠 誠実は」
「公正も 責任感も 何処行った」
「辞書に消え 自己犠牲 毅然もか」
「放棄した 全て教育 朽ち腐敗」
―1年前今日のブログ記事ー
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