仕事中にお邪魔しました。来られる訪問者は
どなたも、長女の仕事ぶりや対応に喜んでおられる
言葉が感じられました。テキパキと歯切れ良い仕事ぶりに
私も嬉しい気持ちになりました。収穫野菜の差し入れの為
の訪問でした。失礼するときに玄関右側の掲示板に彼女の
いつもの手作りの広報誌を撮ってBlogーupすることの了解を得た。
さらに植え込み内に記念碑があったので尋ねましたら・・
滋賀県の公選による初代の知事・服部岩吉氏の功績を讃えるものでした。
滋賀県庁舎前にある服部岩吉顕彰碑兼「滋賀県民の歌」歌碑
服部 岩吉 はっとり いわきち
生年月日 1885年11月20日 出生地 滋賀県栗太郡金勝村
没年月日 1965年11月24日(80歳没) 死没地 滋賀県大津市
所属政党 立憲政友会 日本自由党
生涯
滋賀県栗太郡金勝村(現在の栗東市)の酒造業の家に生まれる。膳所中学校卒業後は家業に従事していたが、28歳の時に金勝村の依頼で同村の助役となり、その後村会議員を経て金勝村村長に就任して5期務める。更に県会議員を2期務めた後に1932年の第18回衆議院議員総選挙滋賀県全県区に立憲政友会から立候補して当選、1942年の第21回総選挙には立候補しなかったものの、次の第22回総選挙では日本自由党から当選を果たし、通算4期務めた。1947年、滋賀県知事が公選となると、服部は厚生政務次官であったが衆議院議員を辞任して立候補して当選を果たした。
当選後の服部は要職に側近を登用したことで非難を受けたが、その一方で“ガン吉”と呼ばれるほどの一徹ぶりと優れた政治力によって支持を受けた。特に農林省が滋賀県に対して過大な食糧供出を迫っていると主張して独自の統計調査を実施して正確なデータを提示して農林省に方針修正を認めさせた「服部調査」は良く知られている。また、滋賀県立農業短期大学の創立にも尽くした。
だが、服部が3期目を目指していた1954年の県知事選挙において、政権与党であった自由党の分裂によってかつての同僚であった森幸太郎元農林大臣が日本民主党の支援を受けて立候補、選挙戦の結果、森が当選して服部の3選は阻まれた。1965年大津市の自宅で死去した。
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【歩きメモ】
9303歩・7.2km・1h28m・64g・1967kcal
日記風川柳
「親ならば 元気で勤め 安堵する」「先人の 記念碑吟味 偉大なる」
「野洲産まれ なりくらマクワ 記録無く」「高価なり 呆れる事に 流されて」
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