びわ湖・勝手気ままな日々!

温故知新!大切ですね、次代に生きる方々の知恵と活力となります。令和時代を健康で楽しみましょう。

リクエストに応えて!私に鞭打ってくれた人々-1

2019年05月03日 | 1歩前へ踏み出す!

=よみがえる青春=

先ず1から順番かリクエストの項目か?全18テーマある為、気長にお付き合い下さい。
追記(全20テーマに増えました。2022/03/13sundy)

1 陸上競技中距離800㍍京都高校記録保持者の日高君と菱田一男顧問

 大学新卒23才で、颯爽と南禅寺の石川五右衛門が絶景かな!の山門を右側に眺めながら、法然浄土宗立東山学園の校門を入る。当時、京都の高校界でスポーツの最も盛んで活躍していた高校として印象強い。 私は、陸上競技の面白さが大学の学年を重ねる毎にふくらんで来たこともあり、まだ、もう少し現役として活動したかったことが、この東山高等学校をいち早く選んだ理由である。大学ゼミの山岡誠一指導教授からの奨めもあり、加えて、京都府、京都市の教員採用予定無しと言うことも理由としてあげられるであろう。

 その教員採用試験の件では、東山学園内定を頂いていた中で、他の大学同級生の手前もあり、兵庫県と、試験日の異なる北海道を受験もしたのです。兵庫県は合格をもらい、早速、日本海側の村岡高校からと、西脇高校から是非来て欲しいと連絡かありました。気持ちは東山学園にお世話になることをほぼ決定していたので、丁寧にお断りをさせて頂きました。そしたら、今度は揖保川流域の山崎高校から連絡があり戸惑いを隠せませんでしたが、結局、兵庫県関係は、すべて丁重にお断りさせて頂いたのです。 一方の北海道は、最終面接まで進み、面接官が、あなた、京都を居てられなく離れる何らかの理由があるのですか?と質問され、咄嗟に私は陸上競技が専門で、スケート競技もトラックを走るので共通点があると思いまして、・・・次ぎに面接官が、勤務するなら、何処の支庁がお望みですか?と聞かれ、これも事前の知識不十分でありましたので、千歳支庁でお願いします。と唯一知っている名前を言うはめになったのです。面接官は、それはどうしてですかと聞き直おされ、飛行場があるので故郷へ帰るのに都合がよいので、と言ったのでした。 ・・このタイミングで不合格!! ちょっと失礼な事でしたね!! 今では反省してます。北海道の受験は、上田純一と言う北海道出身の同級生の関係で、ここも、試しに受験したと言うことになります。
 
 さておき、私の東山学園勤務のスタートと言えば、結局、菱田一男と言う京都陸上界では強者と言われている大監督がおられる事もあり、学校事情で創部されるサッカー部の監督を担当する事になったのです。これは大変な事になったわけです。 なんと珍しくサッカー部がそれまで無かったのであります。数十名のサッカー希望者を引き連れて、南禅寺裏山での体力トレーニングに励んだことが蘇ります。既存の各クラブの活動場所から考えると、肩身の狭い思いと、実力不明で活動場所を求めてジプシーの有様、無謀にも近くの高校との練習試合で、ご多分に漏れず、こてんぱんに打ちの目され、さらに基礎トレの重要性を説き、部員の決意を組み立てる事に力を注いだ。

 そんな状態で一年を経過した頃、陸上部監督の菱田先生が脳溢血で倒れられたのです。一時、回復されたのですが、気骨者の先生は絶対安静から脱出されて、再び、倒れられ帰らぬ人となられたわけであります。これまた、学校事情で私が、当時、京都でも近畿でも実力を誇る東山高校陸上競技部の顧問と言うことになったのであります。 いよいよ、念願の陸上競技に邁進没頭出来る環境を菱田先生の命と引き替えに、私どもに転がり込んできたと言っても過言ではないわけで、この後、6年間と言う指導者生活の基礎となる生活が展開される。この東山高校職員として学んだ数々が、府立高校へ移ってからの活躍の他ならぬ原点となることは、本人も理解できず、振り返ってあらためて味わう事が出来る。

 菱田先生の ”人となり ” 日高健二3年生、当時、京都高校陸上界では実力ナンバーワン、確か高校に入ってから陸上競技に取り組んだと聞き及んでいる選手、菱田先生元気な折り、私がサッカー部の顧問であたふたしている昼休み、日高選手が菱田先生を訪ねて監督との練習打合せにきたときの会話・・・菱田先生の言「ワシは陸上競技の事はようわからん!」日高よ!「其処におられる吉田先生は陸上専門で、最新の理論をよーく知っておられるから」「ワシ菱田よりも、吉田先生に指導を受けよ!」と、日高、思考錯乱!!まわりの先生方も、何事が起こったのか理解できず!!
 学校事情でサッカー部顧問、ところが菱田先生はてっきり、自分とバトンタッチする新任者吉田、菱田先生は学校の決定などお構いなく自分の思う通り事を進める。私の知らないところで、数々の摩擦と軋轢があったと、聞いてうすうす分かりだしていた。従って菱田先生に対してさらに説得と言うより。私への圧力に変わって出だしていて、私自身も困惑していた。そんなことがあって後に菱田先生は倒れられたのである。菱田先生の指導法は想像通り 傍若無人、剛腕な手法、に対して、新任私は、指導と言うより自分がまだ走りたい、適切で指導的な整理も出来ていないし、また、しようとも思っていなかった。ので、当然大混乱が起こった。元気な頃の菱田先生は、練習場に姿を見せられるだけで、グラウンドの空気が一変するようなそれは厳しい存在であった言う。日高はじめ実力のある数々の部員達は、私を受け入れようとせずにいるのは、経過からみても容易に理解できるとおもう。従って、私としても1年目サッカー部顧問もまんざら嫌なことでは無かったのも正直な話し、サッカー部を引き連れてグラウンド以外で、基礎トレーニングと称して裏山を走り回るのも分かってもらえるかと思います。

 そうこうしている間に、1年経過して、日高学年は卒業、次の年は正式に顧問となる。その年何と近畿高校全国最終予選会で幾多の強豪を押さえて総合優勝を果たす。これは、菱田先生の弔い合戦である。これまで何度もチャンスはあったにもかかわらず叶わなかった学校対抗総合優勝が我が東山高校に転がりこんだのだ! 学校関係者は菱田君がいなくても勝てるんだ。いや、居ない方が勝てるんだと考えたのも正直なところでは無いかと思う! 私の思いは、それは違い、菱田先生のこれまでの強力な指導があったから勝てたのであり、事実そうであった。近畿から全国大会へ 群馬県前橋市会場、何と東山陸上1600㍍リレーその年の全国高校ランキングナンバーワンと言う輝かしい年、実は大会で、決勝でアンカーに渡るときにバトンを落とし、最下位8位と涙した。バトン受け渡し時は格闘である。予想もしなかった。優勝は広島基町高校、我がチームと接触は地元群馬の利根商業高校、忘れもしない。以後の大きな教訓となる。
急にインキン・タムシの話し、民宿に十数名、選手の後に風呂を使ったことから、私は初めての経験、インキン・タムシをもらう事となった。数年の闘いの末完治したが、苦い経験としてある。東山陸上はその後、岡山大会で小島一生選手が1500障碍で日本高校記録で全国優勝を実現した。その時には、私は府立東宇治高校の1600㍍リレーで近畿大会で東山高校を下して全国大会出場を決めた。皮肉なことである。

 

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