★日本人について
チョンキンマンションのボスの言葉。
「日本人は真面目で朝から晩までよく働く。
香港人も働き者だが、
彼らは儲けが少ないことに怒り、
日本人は真面目に働かないことに怒る。
アジア人の中で一番ほがらかだけれども、
心の中では怒っていて、
ある日突然我慢の限界が来て
パニックを起こす。
彼らは、働いて真面目であることが
金儲けよりも人生の楽しみよりも
大事であるかのように語る。」
・・・そうだよね。
そういうところ、あるよねー!
公立中学校って、
まさにそういう価値観で
貫かれている所だと思う。
「儲け」を「学力」に変えると、
まんま、そんな感じ。
たとえばピアノの先生だったら、こう言う。
「別に練習時間が短くても、
先生の言うとおり練習しなくても
構わないんだよ。
自分で考えた練習方法でもいい。
練習せずにできるなら、
練習しなくてもいい。
これを、先生が納得できる水準で
弾けたらOK。それだけ。」
とても分かりやすい基準です。
子どもにも納得できる論理。
それならば!と
子どもは好き勝手やるのですが、
あれこれやった後で、
結局、先生の言う通りにすると
一番上達が早い、
先生、すげー!
ってことに気付くんですけどね。
でも、学校の先生は逆。
考えずに従え、です。
そして、結果(学力)よりも
「先生に従順かどうか」
「真面目に取り組んでいるかどうか」に
評価の重きを置きます。
少なくとも息子の行っている
公立中学では、そうなっている。
で、公立高校の入試では、
内申点の配分が大きいですからね。
私立という逃げ道のない土地柄、
生徒は、この価値観に
逆らえない仕組みになっているのです。
・・・こういう教育が、
ますます
「真面目であることが至上命題」
みたいな日本人を
作り出すんじゃないかしら。
まぁ、そうであっても、なお、
可能な限り好き勝手やって
平気ではみ出しちゃう、
息子のような子ども達もいますけどね。
私は、そういう子が好きです(^▽^)
★ジェネラリストなアングラ経済従事者
対して、アングラ経済の現場を生き抜く
在香港タンザニア人の
スタンダードはというと…
努力して自分自身の可能性に賭ける代わりに、
あるいは価値観や資質の似通った
同質的な人間と深く関わり
互酬性、応答の義務にきちんと応える代わりに、
なるべく多くの能力や資質、善悪の基準、
人間性の異なる相手と緩やかにつながり、
他者の多様性が生み出す「偶発的な応答」
の可能性に賭ける。
どんな仕事でもそれなりにこなす
ジェネラリストであると同時に、
どんな人間ともそれなりに渡り合える
ジェネラリストになって、
不確実な世界を生き抜くのである。
いやー、こう言われるとね、
やっぱり私は日本人だな、と思う。
努力して自分の可能性に賭ける人は
文句なしに素晴らしいと思うし、
互酬性、応答の義務にきちんと応えるのは
大人なら当然だと思うし。
なんだけど、
「そうでない人」のことを
「ダメな人」と決めつけるのではなく、
「違う価値観で生きている人」
「それはそれで強みがある生き方だ」
と考えられるようになりたい、と
チョンキンマンションの住人たちの
生き方を読んで
思うようになりました。
努力すべし、
人とは過不足無くきちんとした
付き合いを心がけるべし、という
日本でスタンダードな価値観で
生きていく場合、
一番ひっかかるのが
「人間の幅の狭さ」「視野の狭さ」です。
付き合う人間は
自分と似た経済状況にあり、
自分と似た生まれ育ちで
自分と似た経歴を持ち、
自分と似た考え方を持つ
ごく限られた人達。
入ってくる情報は
自分に興味のある分野の
自分にフィットする考え方の
ごく限られた記事を取捨選択している。
人間関係や世の中のあれこれに
ストレスを感じたら、
自分を柔軟にするのではなく、
人間関係や情報をカットする方向で
対処して(いわゆる「断捨離」ですね)、
自分にとって「心地良い」世界を
作り上げてしまう。
ゆるやかな「ひきこもり」みたいな…?
でも、それは結局、
自分の周りに壁をつくり、
中に入れる人間や情報を制限することで
自分の弱さをカバーしようとする
「逃げ」に他ならないんですよね。
私もその傾向は大いにある。
自覚しています。
「逃げ」が必要なほど
心身が疲弊している訳でもないのに
小さな安穏とした世界に逃げてしまうのは
ただの怠惰・・・。
うっ。
だからこそ、
上記のようなジェネラリストの「強さ」には
憧れを持ちます。
もちろん、
自分の子どもには、
努力して自分自身の可能性に賭けてほしいし、
同質的な人間との
きちんとした義務の応酬に
応える習慣を身につけてほしい。
そのうえで、更に、
彼らのような
「どんな人間ともそれなりに渡り合える
ジェネラリスト」
としての柔軟性まで持ち合わせたら、
それはそれは
素晴らしく頼もしいんじゃない?!
と思ったりもする。
…欲張りかな?(笑)
まさに学校は、「手がからない生徒が良い子」
うちの附属中学では、先生の前でわざとゴミを拾う、副教科(図工など)は親が代わりにやる、といった具合です。
これについては、もうスルーでいいな、と思いますが(将来には関係ない)、友人との付き合い方については、悩むところです。
私が意識せず、昔から「価値観」の同じ人と付き合ってきたようで、息子にも「合わない人とは合わない。無理して付き合おうとするとエネルギーの割には実入りがよくないから、あう人と交流する方がコスパよし」みたいなことを感じてしまいます。
まさに‼️日本人⁉️
ですが、一方で。
多様化する日本。
ジェネラリストとして、どんな人とでも無難に、どんなことも(仕事も)そこそここなせることも大切かも、とも感じます。
少し前に読んだ本に。
母親は、「子供に、すべてのことを標準的にやりとげて欲しい、と思っている。そして、その中のひとつくらい人より抜きん出てもらえれば」という人が最近増えている、とありましたが、私もそうかも~💧と反省しました💦
ひとつひとつ、とても共感できます。
私は公立小中学校出身で、その間に3回の転校を経験したので、多様性を学ぶチャンスは多かったはずなのに、「いろんな人とそこそこに付き合う」のではなく、多様性を無視して自分を貫く方向で解決してしまいました(笑)
もっと人と関わるタイプだったら、いろいろなことを学べたはずなのにな、と今になって思ったりもします。
仰る通り、これからは、「日本人」以外の人とも付き合う機会が増えるはず。
受験を経て進学するにつれ、同級生は均質になっていきますが、息子にはオープンな性格を生かして、経験的に学んでほしいな、と思います。
「全てのことを標準的に・・・」の件、分かります、分かります!
親は欲張りですよね。
自分は、「そんなこと言われたって無理」と思うし、実際、出来なかったのに(笑)
息子に「もっと頑張りなさい」と言いたくなったときは、自分のダメダメな中学時代を思い出すように心がけています(^-^;
言葉足らずな返信をしてしまったので、補足させてください。
友達との距離の取り方、親として悩ましいところですよね!
(自分の経験から)雑多な環境にいれば自然と多様性が身につく訳ではないのは分かるけど、かといって、あまりに同質な狭い世界にひきこもるのもどうかと思うし……
合わない相手からはストレスを溜める前に逃げてほしいけれど、でも一方で、多様な相手とも「そこそこ」付き合える柔軟性は持ってほしい……
これも親の欲なのかな?(^▽^;
でも、実際、そうなんですよね。
要はバランスですよね!
学校や社会で揉まれながら、その子なりのバランスを見つけてゆくんだろうな、と思います。
見守るしかないのでしょうねー。
どれが正解⭕‼️というわけではないし、それぞれ人のタイプにもよって、合う、合わない、はありますし。
息子という存在がやってきて、また違った方向から思考することができて、大変なこともありますが、楽しいですよね❤️