少し前の話ですが。
高校国語、こんなことになっているんですね。
現国から文学が排除され、
会議の記録やら何かの規約やらメールやら、
実用的な文章を読み書きする能力の涵養を
目指すらしいです。
随分前に「そうなるかも」というニュースを
チラッと読んだ気はするけど、
本当にそうなっちゃったんだ。
知らなかった。
「文学国語」も別枠であるらしいけど…
選択制なのかな。
私にとって、
国語の教科書や試験の長文問題は、
自分から手に取ることは無いであろう作品に触れる
良いチャンスでした。
問題そっちのけで引きこまれて読み、
後々、その作家の本を手にする
きっかけとなったり。
三島由紀夫も白洲正子も河合隼雄も
出会いは模試だったなあ。
試験問題でなければ
絶対に早々に投げ出したであろう
難解な批評(小林秀雄とか!)にノックアウトされ、
頭の良い人ってのは
これが理解できるのか…!
と呆然としたのも良い思い出(笑)
どれだけ身についたかはともかく、
教科書や試験で
幅広く文学作品に触れるのは楽しかったし、
私のなけなしの教養の一部となっていると思う。
そういうのが、無くなっちゃうの?
その代わり、味も素っ気も無い
実用的な文章の書き方を学ぶの?
残念過ぎる。
いや、規約もビジネスメールも
実社会では大事だけどさ…。
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一方で、フランスの大学入試の
こういう事情を垣間見ますとね、
ああ、こういう教育を受けた人達には
絶対に敵わないだろうな、
と思ってしまいます。
(以下、上記ブログの一部抜粋です)
「どうだった?」
すると息子が笑顔になった。
「それがね、狙っていたのが出題されたんだ」
「マジか? なに?」
「ヴォルテール」
すると息子が笑顔になった。
「それがね、狙っていたのが出題されたんだ」
「マジか? なに?」
「ヴォルテール」
今回の試験は口頭試験で、
フランスの文学、哲学、詩人、批評家などの中から
出題者が任意の作家を選んで、
そのことについて質問を浴びせ、
それにどれくらい自分の言葉で答えられるかが、試される。
その人物がどのような作家で、
どのような業績があったか、
ということだけ答えればいいわけではない。
作品の分析や、背景や、
作品の分析や、背景や、
その作家と現代のつながり、
自分とのつながりなどを
自分のことばでちゃんと答えていかないとならない。
仏人が議論が上手なのは、
この試験制度のたまものかな・・・。
高校生にこの課題…
「文化」の捉え方が全然違う気がする。
「教養」への重きの置き方が、全然違う気がする。
大学教育の位置づけが、全然違う気がする。
社会がどのような人間を求めているか、全然違う気がする。
私としては、
ヴォルテールについて
自分の言葉で語れることを目指す教育を
受けてみたかったな。
実用的な文書はね・・・
とりあえずググれば何とかなりそうだし。
違う?(笑)