(抜粋部分は、原文通りではなく、
いつも通り、自分が理解しやすいように
原文をつぎはぎしちゃってます。
ご了承ください。)
在香港タンザニア人の
「いざという時」「困った時」の相互扶助組織
についての話です。
相互扶助組織といえば、
「○○共済」や自治会や
PTAやサークルの運営委員会などが
思い浮かびます。
(タンザニア人の相互扶助組織は
「○○共済」が近い。
ただし、運営の仕方は全然違う)
私は参加していませんが、
地域的には「もあい」という、
金銭を出し合って、メンバーが順々に
そのまとまったお金を受け取る
というグループ活動が盛んです。
(ほとんどが「定期的な飲み会の口実」
のようなグループですが、
中には本気の金策を目的とするグループも
あるようです)
それも一つの相互扶助組織ですね。
そうした活動の
よく聞くトラブルで
最も困るものが、
集めた金の持ち逃げや、
特定の人の身内への利益誘導など
金銭の絡む問題でしょうね。
そして次にモメやすいのが、
それぞれの損得勘定に基づく感情の問題です。
「私は長年、この活動に
しっかり参加して貢献し続けてきた。
なのに、あの人は理由をつけては
雑務や寄付から逃げてばかりいる。
それなのに権利は主張する…」
などなど、
つまり、組織に対する
それぞれの貢献度が違いから
不公平感を抱く人が出てきて、
そこからゴチャゴチャした諍いが起こる
といったことです。
普通、
そういったトラブルを避けるために
メンバーを厳選する、
きちんとルールを設ける、
といった対処をする場合が
ほとんどだと思うのですが、
その点、タンザニア人の解決方法は
その真逆を行く感じなのです。
★信頼の問題
彼らは常々「誰も信用しない」と断言している。
それは、「素性」「裏家業」を知らないからというより、
誰しも置かれた状況に応じて
良い方向にも悪い方向にも
豹変する可能性がある
という理解に基づいているからである。
そのうえで、
そのつどの状況・文脈に限定的な
信頼を構築しているのだ。
彼らの「誰かはきっと助けてくれる」
という信念は、
必ずしも「同胞に対して親切にすべきだ」
という期待ではなく、
それぞれの人間の持つ異なる可能性に
ギブアンドテイクの機会を見いだす
他者のしたたかさに賭けられていた。
他者の利他的行動を期待するに際して、
「(善き市民として)~すべき」
という他人の道徳感情に
期待するのではなく、
他者の商売人的な損得勘定に基づく
したたかな行動を予想して、
誰かは助けてくれるはずだと踏んでいる
ということですね。
・・・学校では習わないことです。
例えば、道徳の授業などでは
絶対に取り上げられない意見だろうな(笑)
でも、これ、商売や政治(外交)には
絶対に必要な感覚なんだろうと思う。
それがある意味、
ひとの善意をアテにした「道徳」よりも
ずっとワールドワイドに通用する
「信頼できる価値観」となり得る、
ということも…うん、理解はできる。
★貢献度・自己責任論
(タンザニア人相互扶助組織で)
「なぜ彼/彼女は助けられるべきか」
「どこまでが自己責任の範囲か」
「彼/彼女だけが得をしていないか」
を問うのは難しい。
香港タンザニア人は、
基本的に旅行者だし、
貢献度なんて様々過ぎてカウントできない。
怪しい商売も多い。
その人の背景なんて詮索していられないし、
(知るとヤバいこともあるので)
だれも詮索しない。
…私たちの価値観からすれば、
モメそうな要素満載!
それを、一体どう解決するのかというと…
組合への貢献度や窮地に陥った原因を問わず、
ルールを明確にせず、
ただ他者の求める支援に応じるか否かを判断する。
シェアリング経済の助け合いは、
「私があなたを助ければ、
だれかが私を助けてくれる」
というものだ。
彼らは、他者の事情に踏み込まず、
メンバー相互の厳密な互酬性や
義務と責任を問わず、
無数に増殖拡大するネットワーク内の人々が
「ついで」にできることをする
「開かれた互酬性」を基盤とすることで、
気軽な助け合いを促進し、
香港・中国、マカオ、タイ、ドゥバイ、
アフリカ諸国にまたがる
巨大なセーフティネットを
つくりあげていたのである。
こんなゆるゆるのルールで
何とかなっているというのがすごい。
★対して、私たちの常識的な「助け合い」は
「助け合い」の概念は、以下のようなもので、
私も、
「善き市民として
円滑な社会生活を送るために
当然、できるだけきちんと応酬すべき」
と考えるところなのですが、
しかし、
「好循環は簡単に悪循環にスライドする」
という部分、
痛いところを突かれた!という思いがしました。
「私は、そういうのには与しない」
と思っていた、
日本的な相互監視社会、
「~すべき」の押しつけ、
それに従わない者への攻撃
などは、
実は、自分が「善」と信じて疑わなかった
価値観と表裏一体のものだったという。
助け合いは、
「彼/彼女を助けたら、私が困った時に
相手も同じように助けてくれるだろう」
と期待しあう好循環の互酬性だ。
だが、相互性には
「やられたらやりかえす」という
復讐の連鎖、悪循環の相互性もある。
「くれるという確約がないと
与えることができない」社会的習慣が、
即時的に「貸し」「借り」を精算しようとする
態度を生み出す。
メールも親切もすぐに返さないと不安だ。
将来に借りを残しておくのは不安だ。
その場その場で
貸し借りの帳尻があっているかが常に気になる。
どちらかが「損をしている」と感じると、
好循環の相互性はやすやすと悪循環へと転化する。
これねー…
容易に具体的に想像できてしまう。
「私はちゃんとやっているのに
あの人はやらない」
が損得勘定につながる。
しかし、
「損得勘定」だと人聞きが悪いから
それを善悪の問題にすり替え、
「私はちゃんとやっている善人なのに
あの人はルールを守らない悪人だ」
ということにする。
そうすると、
名分ができて、攻撃しやすくなる。
そして、
「息苦しい暗黙の了解を遵守して
我慢してちゃんとやっている」
ことで生じる自分のストレスを、
「ちゃんとやらないダメなヤツ」
にぶつける。
本当は、自分のストレスを
他者への攻撃で発散しているだけなのに、
「悪」を制裁するという
口実をつけることで
自分の行動を正当化しているので、
容易に攻撃がエスカレートする。
わぁ…書いてて嫌になってくるほど
よくある話!
かく言う私も、
「貢献度」はともかく、
「自己責任」については
ついつい考えてしまいがちです。
人のことというよりは
自分の失敗について
そう思う事が多いかな。
こんなひどいことになる前に
手を打てばよかった(私のバカ!)
↓
努力不足、注意不足だから、
失敗しても当たり前(私のバカ!)
↓
それなのに人に助けを求めるのは
虫が良すぎる(今更だけど、頑張るべし!)
↓
もしも、自助努力では間に合わず
人に助けて貰うことがあれば、
申し訳ない!ありがとう!の気持ちを込めて、
すぐさま相応のお返しをすべし。
そして、概して、
自分に課すこうしたハードルは、
無意識に他人にも
求めてしまうものなのです。
だから、
「きちんとした人」
「きちんとした社会」ほど
息苦しくなってくるのだと思う。
でも、タンザニア人のように、
そういうことを全部保留にする
というやり方もあるんですね。
で、
「とりあえず助ける」
「見返りはなくていい」
ということを、
「善人だから」ではなく
「商売人の知恵として」やってのける。
それで回っているのは、すごいと思う。
そうはいってもやはり
確固とした取り決めがないのは
(私だったら)不安だし、
実際、必ずしも、いつもいつも
上手くいくとは限らない(とりこぼしもある)
とは思うのだけど、
でも、
「こういうやり方もある」
「それで案外うまくいってる」
「今のやり方で行き詰まった時は
発想を変えてみてもいいかも」
「え?と思う人がいた時は、
批判する前に、
発想を変えてみてもいいかも」
と思えたのは、
一つ、収穫だったな、と思うのです。