宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(9)

2014-10-06 08:05:40 | 祈り
         (前日からの続き)
 それに、四次元のことですが、五次元六次元
七次元八次元…もう高次元の世界というのは、
無数にあるわけで、ここからここ迄が三次元で、
ここからが四次元、五次元だという、そういう
ものではないわけですね。もし、目に見える
かたちで、ここからここまでが有資格者なんて
いうと、どうにもならなくなる。やはり、
その人なりの経験とか、この地上に生きる人達
には、どの位傷ついて来たのか、どんな思いを
経て来たのか、不幸な人も幸福な人も色々
あるけれども、この世の中の経験や過去世
からの経験によって、苦であるとかないとか、
そういう所を一切超えた、乗り超えた久遠の光
というものが皆の中に種として入っている。
 その光と天界の光と全部が一体になって
やってゆくことによってね、本当の意味で、
人類の我々一人一人の気持ちの中に、平和の
光を呼び覚ますということが、世界平和を実現
してゆくことになっていくんですね。
 ですから、我々の生命というのは無始無終
なんですね。始めもなければ終わりもない。
 死ぬということも本来無いわけですね。
 本当はずーっとあるもの、過去からあるもの、
今もあるもの、未来もあるものなんですね。
              (翌日に続く)

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(8)

2014-10-05 06:08:26 | 祈り
          (前日からの続き)
 例えば、百人で祈って、百人の祈りがそれで
終わりかというと、そうではなくて、その祈りが
ずーっと上にあがっていって、天界や霊界の
すみずみまでに感応して、諸霊の方から光を
返してきて、そして又交差してと、そういう
遠大なセレモニーになっているわけですね。
 セレモニーというよりは祈(の)り言(ごと)
になってゆくわけですね。その祈りの光の交差
というものが、宇宙の中でのこの地球の存在
そのものを光の方へ変えてゆく。そして
そのことが、宇宙の星々、我々の兄弟星や
先輩星の、霊的に優れた意識の高い人達に
我々が響かせてゆく。我々の心がひびいて
共鳴してゆくということになるわけです。

 結局は、私がいつも申しますように、人間
というものは全部波動なんだ、生命は波動
なんだとね。そういう霊妙な高い響きを
我々自身が持っている。持って生まれて
来ている。その恵みによって肉体の生命も
精神も全部生かされている。そういうことを
思うとですね、何を基盤にしなければ
ならないかということは、おのずから判って
くると思います。
        (翌日に続く)

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(7)

2014-10-04 03:02:18 | 祈り
       (前日からの続き)
 特に一番大事なことは、神様のこと仏様の
こと、あるいは、永遠なるもの宇宙に対して
謙虚で素直であるということです。自分自身を
ほめるのもいいですが、生かされているという
こと、謙虚に自分の生命を返して返してね、
生命を新しくいただき直す存在であるという
ことを毎日毎日毎瞬毎瞬呼び覚まして
ゆかないと、本当に生き生きとは出来ない。
 何故かというと、本来人間というのは肉体
だけじゃないわけですからね。本来人間は
そういうものを求めて生きる存在ですから。
 そこで四次元とか五次元とか何とかやって
ますけれど、結局それは元の姿に帰る
ということ。人間が元の姿に帰って、祈って、
だんだんと我が削ぎ落とされてゆく。それは
自分の力で削ぎ落とすわけじゃない。
 みなさんが百人いれば百人の祈りの光が
それを削ぎ落としてゆくわけね。やさしく
削ぎ落としてゆく。守護霊守護神の力で
削ぎ落としてゆく。そういう人達が何千人
何万人集まれば、この祈りは、先程も申し
ましたように、天界の方でも祈る、霊人の方
でも祈るわけでしょ。そうしますと、これは
もう一大共同事業なわけね。
            (翌日へ続く)

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(6)

2014-10-03 09:34:48 | 祈り
       (前日からの続き)
 私がいつも申しますように、我々は神様から
分かれて来た存在であるからね。神様から
枝分かれして来た存在でしょ。ですから、神様
というのは、ひとつも我(が)はない、大愛と
調和、これだけに満ちてる存在なんですね。
 だから、何の不調和もないわけですよ。
 ところが、この地上の中にいると、不調和な
ことだらけの中で生きてゆかなければならない。
 自分が楽しくても、相手はそうでない場合も
あるしね。これが正義だと思っても、相手に
とっては不正義なこともあるしね。
 政治家なんか見てごらんなさい。いつも戦争
してるでしょう。お前が正しい、あいつは悪い
とね。その人達は自分の世界を確立して、
自己を信じるところへもっていこうと
するけれど、やはり、祈りというものを基盤
にして自己を確立することがないとね、たとえ
億の財産を持っても、何百人の友達がいても、
これは駄目なんですね。

 そこで、自分達は何を土台にするのか
ということになると、やっぱり祈りという
ものが基盤にあって、はじめて人間というのは
落ち着く存在なんですね。それが今、世界平和
の祈りを通して、人間の本来心に結びつける
のです。この肉体をもったまま皆んなが
永遠なる世界の住者だということを知らしめる
祈りというのは、この世界平和の祈りが一番
力があるわけですね。力と言うと誤解するかも
しれませんが、心に深くひびき感じさせる祈り
なんですね。

 そういうことを考えてゆきますと、どんな
立場の人であろうといいわけです。
           (翌日に続く)

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(5)

2014-10-02 06:50:55 | 祈り
     (前日からの続き)
 自分がもしガンになったり、体が動かなく
なってベッドで寝たきりの状態になった時、
あるいは、お金が一銭も無くなって、明日の
お米をどうしようとか、死ぬしかない
というような切羽詰まった時に、人間
というのは、この肉体の中では有限の生命を
生きているなあと、そして、この有限の生命
から思い起こしてね、無限なるものは
何だろうとね。永遠なるものは何だろう、
どこに救いがあるんだろうと、はじめて
自分の中を考えるようになるんです。

 しかし、人間というのは結局は、無限も
有限もない。ずーっと続いている生命でしょ。
 元々から自分はそういう存在だということは
分かって、この地上に生まれて来ている。
 そしてそれぞれの務めを果たして毎日を
生きてるわけですよね。でも、仕事が
おもしろくなかったり、お金の問題であったり、
奥さんとけんかしたり、父親とうまくいかない
とか、そういう現実の中の喜怒哀楽という
ことに把われますよね。それで、ウサ晴らす
のにお酒を飲んだりね、今ではカラオケですか。
 色んなことをやるわけでしょ。それは何か
というと、自分がそこに留(とど)まって
いたくない、留まっていたら苦しくなって
どうにもならなくなるということが判っている
からこそ、飲んだり食べたり、グチ
言ったりして、そこから抜け出そうとする
訳ですよ。でもこれでいいというのであれば、
そのグチの世界の中に、みんな沈んじゃう
と思うね。苦の中にみんな沈んでると思う。
 どんな種類のものであっても、ひとたび
その苦の中に沈んでしまうとね、その苦という
ものに耐えられなくなってしまうのです。
 何故かというと、それが本来の生命の働き
ではないから耐えられない。本来の自分じゃ
ないから耐えられない。

 じゃあ本来とは何だということに
なるのですね。現実に、お金があり、家族
にも恵まれて、社会的評価もされていながら、
何かさみしく孤独で空しく感じていたとすれば、
その人たちにとっては、無価値なものになって
来るかも知れない。例えば、月収100万の
人は、20万の人からみれば、天国の生活を
しているように思うけれども、当の本人が
それで本当に満ち足りているかというと、満ち
足りてない場合が多いんですよ。それで満ち
足りていないという所からもう少し進むと、
結局それが苦になって来るわけですね。苦に
なるにはいろんな事があるけれど、その苦に
なったが最後、今度はそこから抜け出ようと
もがいてくる。やはり人間というのは、本来
そういう世界の住者ではないからですね。
 魂の底では永遠なるものを求めている。
 永遠なるものをつかんでいないと、心の中で
つかんでいないと落ち着かない存在だから
なんです。
           (翌日に続く)