[Capricious Model Rail Factory] ** 気まぐれ鉄道模型工房 **

European/British/Japanese railway modelling in OO/HO/N

Durham地域の鉄道史 6 Newcastleの郊外電車

2017-12-06 22:34:13 | [jp] 歴史

前回Shildon – Newport電化路線の記事で触れた、Newcastle近郊電車の話。

1904年に、NE鉄道がNewcastle近郊路線を600V第三軌条方式で電化し、電車を新造して近郊輸送を開始。切っ掛けは、Newcastleトラムが郊外路線を開業し、近郊区間の蒸機列車から通勤客をごっそり奪ったため。Tyne川北岸河口までの路線と、High Level Bridgeを渡って南岸河口までの路線を運行。川沿いに多数の港湾、造船所、工場があり、思惑通り、トラムから通勤客を奪い返すことが出来た。

https://www.lner.info/locos/Electric/ner_tyneside.php

英国の鉄道情報はなかなか日本に紹介されないが、近くに住み着いたお陰で、好ましいスタイルの木造ダブルルーフ電車の存在を知ることが出来た。増備車は丸屋根に変更。荷物電車だけOOでキットが出ているらしい。

因みに、同時期にLiverpool近郊で運行を始めたMersey Railwayにも、木造ダブルルーフ電車が居た。個人的にはこっちの方が好み。

https://www.emus.co.uk/zone/mersey/mersey.htm

 

LNERに統合後も電車運転は継続され、1934年に食パン顔の鋼製連接車が導入された。わざわざ連接車にするか?

https://www.lner.info/locos/Electric/lner_tyneside.php

Newcastle駅東側の、今は駐車場になっているスペースに、3面6線の電車専用着発ホームと1面の荷物電車ホームがあった。その電車ホームから、列車線を横断して各方面に電車を走らせるための分岐群がこちら↓。左方向はHigh Level Bridgeに繋がる。規格外の分岐、クロスを大量に敷設。ここまでやるか英国人。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Newcastle-on-Tyne_Station_from_the_Castle_geograph-3950092-by-Ben-Brooksbank.jpg

上写真はNewcastle Castle屋上から撮影。現在の姿がググル地図で見られる。LNERの連接電車は、既に国鉄標準仕様の外開き扉電車に置き換えられている。

 

1960年以降、地域産業の衰退と共に沿線の工場群は閉じられ、通勤需要も激減。車両、設備の老朽化により1967年に電車運行は廃止され、ローカルDCに置き換えられた。Newcastle駅の電車ホームは潰され、鬼線路も極普通の配線になってしまった。

近郊電車路線は1980年に直流1500V架線電化のメトロ線として再編復活。地下線で市内に乗り入れ、Queen Elizabeth橋でTyne川を横断。空港やSunderlandにも延長されて便利になった。廃線跡を利用してDurhamまで延伸する計画もあるが、具体化していない。

 

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英国通信 30 Beamish Museum

2017-11-20 20:36:10 | [jp] 歴史

Durham地方は19世紀後半から産業革命の一翼を担い、鉱工業と輸送手段である鉄道網が発達していた訳だが、今では見る影も無い。その古き佳き時代の記憶を遺すために、この地域に設立されたのがBeamish Museumで、各所の産業遺産や建物を移築、再現していて、鉄道施設も再現保存している。 

入口を入ってすぐに、トラムとバスの乗り場がある。広い園内を一巡していて、点在する展示物を見て回るのに便利。懐かしの吊掛サウンドを聴いていると目から汗が出そうになる。 

これも懐かしのポール回し。 

バスも年代物ばかり。 トロリーバスの架線もある。

鉄道施設の展示。 

保存機が数両居るが、訪問日はこのBサドルタンクが稼働。 

本気モードで蒸機の写真を撮影。体験乗車もあり。 

 

炭鉱施設。建物の中で蒸気エンジンの巻揚機を動かしてくれる。空から女の子が降って来そうな雰囲気。

初期の石炭車。 坑道の体験もできるが、暗くて狭い所は苦手なのでパス。因みに高い所も苦手。

19世紀の街並再現。Tea roomは当時のコスチュームのお姉さんが給仕してくれて、メ〇ド喫茶かと。昔のお姉さんもいたが。 

入場料を払えばトラム、バスは乗り放題。 

 

ポルトガルのトラム。

他にも、昔の炭住街や農村を再現していて、当時の服装を着たスタッフが迎えてくれる。入場料は結構高いが、それなりに楽しめた。トラムに乗っているだけでも楽しい。入場券は1年有効なので、また行こうと思う。

 

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Durham地方の鉄道史 5

2017-09-24 22:36:08 | [jp] 歴史

忘れられた電化路線、Shildon - Newport線の話。

Stockton & Darlington鉄道開業後も、Durham郡南部炭鉱地帯の石炭輸送需要は依然旺盛で、他社が鉄道事業に参入する余地は充分有った。Stocktonの事業家Tennantが紆余曲折の末Tees & Weardale鉄道(後にClarence鉄道に改称)を設立し、S&D鉄道と完全に競合するShildon – Tees河港間の路線を建設し、S&D鉄道に遅れること8年、1833年に開業した。S&D鉄道がDaringtonの資本家主体で建設され、Daringtonを経由した遠回りのルートになっているのが、Stocktonの資本家には不満だった。起点ShildonでS&D鉄道に乗り入れて各炭鉱からの石炭を積み出すというハンデを負っていたが、S&D鉄道より短いルートと、Tees川北岸に開設した専用の積み出し港を武器に、激しく競い合っていた。しかし、後発組のハンデに加えて、S&D鉄道の様々な嫌がらせ(自社貨車の優先運行、自社線への機関車乗り入れ妨害など)もあり、支線を建設して新規顧客を開拓する等の施策も空しく、資金繰りに窮し、1851年にHartlepool港湾開発会社に買収された。S&D鉄道やLiverpool & Manchester鉄道と同時期に存在していたにも拘らず、滅多に歴史書に採り上げられることもなく、不遇な扱いを受けている。

1863年に、North Eastern鉄道がこの地域の鉄道会社を全て傘下に収めると、最短ルートである元Clarence鉄道線は石炭輸送のメインルートとなり、両端に広大な操車場が開設され、活況を呈する様になった。20世紀に入ると、山間部の石炭鉱脈が枯渇し産地が沿岸部に移動しつつあったが、Wear川上流域で産出される石灰石を沿岸部の工業地帯に輸送する需要が、石炭輸送の落ち込みを補っていた。

この時期、NE鉄道がNewcastle近郊路線を直流電化して旅客輸送で成果を上げ、York - Newcastle間の幹線電化を考える様になった。まず運行本数の多いShildon – Tees河港間の旧Clarence鉄道線を試験的に直流1500Vで電化することを決定し、地元Shildonの工場で貨物用B-B電機10両を新造し、1915年に電機牽引を開始した。

https://www.lner.info/locos/Electric/ef1eb1.php

電機列車の運行は順調で、蒸機より輸送効率が向上し、第1次大戦中の軍需輸送にも対応した。1923年にLondon & North Eastern鉄道(LNER)に統合された際も電機運行は継続されたが、戦後の経済停滞期に輸送需要が急減し、過剰設備となっていた所に電化設備の更新時期が重なり、電力料金の高騰も影響して、1930年に蒸機運行に戻す判断が下された。York – Newcastle間の幹線電化計画も、不況の煽りを受けて白紙となった。ECMLの電化は、実に半世紀後に英国国鉄の手でAC25kV電機牽引のIC125列車導入という形で実現される。

試作旅客用2C2電機1両を含む11両の電機は仕事を失い、一部はAnglia地区の電化路線に転用されたが、残りはShildonの操車場に長らく留置された後、スクラップとして売却され解体された。凸形車体、2丁パンタの堅実で力強いデザインで、保存機が無いのが惜しまれる。Woodheadルート電化に際し留置中の電機を活用するプランもあったが、高出力のEM1、EM2電機が新規開発、投入され、復活の機会は失われた。

地上設備の方も、将来の幹線電化を見越し、ツイントロリのコンパウンド架線を通常の3倍の長大スパンで張るという意欲的な設計で、写真を見る限り優美なものだったが、全て撤去されてしまった。使わなくなった地上設備は、金属製のものはスクラップが売れるのですぐに撤去されるが、石や煉瓦造りのものは撤去が困難で再利用も難しいため、邪魔にならない限り放置される。英国でも、廃線区間の放置されていたレールが剥がされて盗まれる事件があったりする。余談だが。

旧Clarence鉄道線自体も、第2次大戦後の不況、Durham地域の鉱工業の衰退、自動車輸送の台頭により、1960年代に大部分が廃止された。貨物輸送はStocktonに直行する旧Clarence鉄道線が有利だったが、旅客輸送には主要駅Darlingtonを経由しないのが却って仇となり、旧S&D鉄道線の方が存続することになった。最初から最後まで不運に苛まれた路線であった。

毎日通勤で通る幹線道路A167が途中で不自然にアップダウンしているが、ググル地図を見ると廃線跡を陸橋で跨いでいた。この廃線跡が旧Clarence線で、史実を知ってからは、ここを通る度に不遇だった路線のことが頭を過る。

 

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Durham地方の鉄道史 4

2017-07-21 19:13:52 | [jp] 歴史

各種文献から、この辺りにあった機関車牽引による鉄道路線について書き出してみた。他に炭鉱の専用線やIncline (鋼索式)の路線もあったが、多過ぎるので代表的な路線のみ記載。路線名称も沢山出てくるので、番号を付けてみる。

ネットで詳しい路線図を見つけた。

こっちは廃止区間も含めた路線と、道路、河川を描いたもの。マス目をクリックすると拡大。最初からこの地図を見ていたら、文献を読むのが楽だったのだが。

https://sites.google.com/site/waggonways/railways-durham

こっちは鉄道路線と炭鉱を描いたもの。これもクリックすると拡大。炭鉱だらけで、毛細血管の様に専用線が敷き詰められていたのが判る。

https://www.dmm.org.uk/maps/1898-00.htm

以下の建設慨史と地図を見比べて貰うと、どこをどう繋いだかが判って頂けると思う。

 

Stockton & Darlington鉄道 [1]

1825年にAucklandから現在のDarlington North駅を通ってStockton付近のTees河港まで開業。1830年にTees川を渡ってMiddlesbroughへの支線を開業。1846年に海沿いのRedcarまで延伸。

子会社Bishop Auckland & Weardale鉄道 [2]を設立し、Shildon付近のSohoから、1842年にSouth Churchまで、1843年にCrookまで延伸開業。Weardale Extension鉄道がその先Waskerleyまで延伸したが、1847年に買収。Bishop AucklandからRedcarまでの区間は現存。

 

Clarence鉄道 [2]

当初Tees & Weardale鉄道として計画されたが、後にClarence公(後のWilliam4世王)に肖って改名された。

1833年にAycliffeとTees川北岸の新港Port Clarenceを結ぶ路線を開業。途中で北に分岐してDurhamに向かう路線も認可されたが、難工事で資金が枯渇し、1834年に途中のFerryhillまで開業。1841年までに周辺の炭鉱への支線を建設。S&D鉄道[1]と競合していた。

North Eastern鉄道[3]に統合後、1915年にShildonからTees川南岸のNewport Yardまでを試験的に直流電化し、石炭列車を電機牽引に切り替えたが、第一次大戦後の不況で貨物輸送が激減し、1930年に電気運転を中止、電化設備を全て撤去し、蒸機牽引に戻した。後に路線自体も廃止。この話は別に詳しく書きたい。

 

Stanhope & Tyne鉄道 [4]

1834年5月にStanhopeからAnnfieldまで開業し、その年の9月にTyne河口のSouth Shieldsへ延伸された。沿線の高原に位置する街Consettは17世紀から製鉄が盛んな所で、産業革命期に原材料、製品の大量輸送のため鉄道が必要とされたが、Team川の渓谷から一気に標高270mまで登るため、急勾配路線を多数のIncline (鋼索式鉄道)で運行。建設、運行の過大なコストが経営を圧迫し、1841年に会社解散。 

 

Pontop & South Shields鉄道 [5] 

S&T鉄道[4]解散後、東の区間、LeadgateからSouth Shieldsまでを買収。NE鉄道[3]に統合後、Incline (鋼索式鉄道)区間を順次機関車牽引可能なルートに付け替え。

 

Durham & Sunderland鉄道 [6] 

1836年7月にSunderlandとPittingtonの間の本線、Haswellへの支線で鉱物輸送、その年の8月に旅客輸送を開始。1839年にShincliffeまで延伸。

 

Durham Junction鉄道 [7]

1838年にS&T鉄道[4]のWashingtonからRaintonまで開業。

 

Brandling Junction鉄道 [8]

1839年にGatesheadからSunderlandまでの本線と、South Shieldsまでの支線を開業。

 

West Durham鉄道 [9] 

1840年6月にWillingtonからByers Greenまで開業、10月にWhitemee炭坑(Crookの北)まで延伸。

 

Great North of England鉄道 [10] 

YorkとNewcastle を結ぶ目的で設立。1841年1月にYorkからDarlingtonまでの貨物輸送、3月に旅客輸送を開始。後にECML(東海岸本線)となる。Richmondへの支線を1846年に開業。

 

Newcastle & Darlington Junction鉄道 [11]

1844年にDJ鉄道[7]のRaintonからDarlingtonまで開業。Darlingtonの北でS&D鉄道[1]と平面交差。この鉄道の開業によりYork、DarlingtonからLeamsideを経由してTyne川南岸のGateshead までレールが繋がった。Durham Gilesgate駅までの支線も開業し、Durham市街に最初の駅が開設された。DarlingtonからFerryhillまでの区間が後にECMLとなる。

1845年にDJ鉄道[7]を、1844年にBJ鉄道[8]を併合。D&S鉄道[6]、P&SS鉄道[5]を1846年に併合。その年7月の法令により、GNoE鉄道[10]の経営を移管された。

 

Wear Valley鉄道 [12]

1847年にBA&W鉄道[2]との分岐点からBishopley Quarryまで開業。NE鉄道[3]に統合後、1895年にWearheadまで延長。一部が保存鉄道として残存。S&T鉄道[4]解散後、西の区間、StanhopeからConsettまでを買収。

 

Darlington & Barnard Castle鉄道 [13]

Darlingtonの北HopetownでS&D鉄道[1]から分岐しBarnard Castleまでを1856年に開業。1858年にS&D鉄道[1]と合併した。

 

South Durham & Lancashire Union鉄道 [14]

1861年にBarnard CastleからPennine山地を越えてTebayまで開業。S&D鉄道[1]と提携し、Durhamの炭鉱から西Cumberlandの製鋼所へコークスを運搬。1863年にWest AucklandからBarnard Castleまで短絡ルートを開業。一部が保存鉄道として残存。

 

North Eastern鉄道 [3]

1854年に、各社のYorkからDarlington、Newcastleを経由しBerwick upon Tweedまでの本線と支線群を統合し設立。S&D鉄道[1]とは競合関係にあった。

1856年に旧N&DJ鉄道[11]のLeamsideから現Durham駅を経由しBishop Aucklandまで開業。Darlington - Gateshead間の迂回ルートを形成。Bishop Aucklandは5方面の路線が集中し、三角形のホームを擁する主要駅となった。

1862年にDurham南のRelley Mill分岐点からConsettまでの支線を開業。

1868年にDurhamからGatesheadまでの最短ルートを開業。後にECMLとなる。

1871年にRelley Mill分岐点からFerryhill北のTursdale分岐点まで開業。これでやっと現在のECMLルートが完成。

1887年にDarlington南からS&D鉄道のStockton方面に抜ける路線を開業し、Darlington北での平面交差を解消。

1906年にTyne川にKing Edward VII橋を架橋し、直通列車のNewcastleでの方向転換を解消。

1923年の鉄道再編で、S&D鉄道[1]と共にLondon & North Eastern鉄道(LNER)に統合。

  

Tanfield鉄道 [15]

1839年にTanfield Lea炭鉱とTyne河畔のRedheughの間の木製レールWaggonwayを鉄道に改良。一部が同名の保存鉄道として残存。Waggonwayは18世紀から存在しており、現存する世界最古の鉄道(railway)、と称している。

 

Bowes鉄道 [16]

1826年から1855年の間に、PontopとJarrowの間の本線と周辺の炭鉱への支線を建設。急勾配を多数のIncline (鋼索鉄道)で運行。一部が同名の保存鉄道として残存。

 

この辺りの殆どの街に鉄道駅があったことになる。駅跡はショッピングセンタになっていたりするが、廃線跡は結構残っている。最盛期は石炭と炭鉱労働者の輸送で繁盛していたのだろうが、現在の長閑な風景からは想像出来ない。

DarlingtonからBishop Aucklandを経由しDurhamに至る路線が現存していたら、職場近くに駅があって通勤に使えたのだが、残念。現在のECMLルートよりちょっと遠回りしていたのと、Shildon北方のトンネルの断面が小さくて複線を単線にしてしまい、ボトルネックになっていたのが敗因。 

 

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Durham地方の鉄道史 3

2017-07-11 19:35:06 | [jp] 歴史

鉄道黎明期のこの辺りでの出来事が、Durham Railways (Charlie Emett著、The History Press発行、1999初版、2009第2版)に書かれている。 

”鉄道の時代は、1822年5月23日木曜日の午後に、300人の人夫が地元の役人が乗った車両を歓声を上げてDarlingtonに向けて引きながら始まった。その役人は、DarlingtonでStockton & Darlington鉄道の最初のレールを敷いた人物だった。” 

”何世紀もの間、”rail”という単語は、木の板を意味するのに用いられていた。木の板をでこぼこの地面の上に並べて置いて、石炭車の走行を容易にするために使われるようになると、この木の板がrailと呼ばれるようになり、rail-wayという語句が創られた。tramway、plateway、waggonway等の類語も創られ、これらは実質的にrailwayと同義だったが、細かい違いもあった。Tramwayは平らな踏面の車輪を転がす傾斜したplatewayを指し、railwayはフランジを付けた車輪のための異なる構造の軌道を意味するようになった。初期のrailwayは私有で、所有者自身の土地で、所有者が自身の商品を運ぶためだけに使った。”

”1804年に、Durham郡でWylam炭坑を所有していたBlackettが、1台の機関車をGatesheadのJohn Whinfieldに造らせた。それはわずか4.5トンで、フランジ付き車輪を履いていた。Blackettは、この機関車が彼の炭鉱の木のレールには重すぎると気付き、車輪を外して工場の動力に転用した。1808年に、彼のWylam炭坑鉄道の木のレールがすり減ったとき、Blackettは鋳鉄の板状レールに交換した。そして、炭坑長William Hedleyは、4人の男が手回しハンドルで駆動する4輪車両を造った。この実験は失敗だったので、Hedleyは蒸気機関を取り付けた。これは一応動いたが、蒸気不足に悩まされた。”

”Hedleyが設計し、Wylam炭坑の鍛冶屋Timothy Hackworthが製作した2台の大きな機関車、Puffing BillyとWylam Dillyが、1年後に完成した。それらはおよそ8トンで、鋳鉄板レールには重すぎたため、車輪を8輪に増やして荷重を分散させた。この機関車は満足に動いた。鋳鉄板レールが錬鉄レールに交換された際に、機関車はオリジナルの4輪車に改造された。雇用主に日曜日に働くことを咎められたHackworthはWylam炭坑を去り、更なる経験を他で積んだ後に、Stockton & Darlington鉄道の機関車を設計、製作する仕事を得た。蒸気機関車の設計は着実に発達したが、荷車は馬が引くものと基本的に同じままだった。”

”George Stephensonは1781年にWylamで生まれ、Killingworth炭鉱で働き、蒸気機関夫に昇進した。石炭を速く運搬する手段の必要性を理解し、彼は1814年6月に移動式蒸気機関を製作し、Bluherと命名した。それは、30トンに達する8台の荷車を時速4マイルで牽引できた。彼は、製鉄業者でWalter製鉄所を所有していたDoddとLoshと共同で、歯車付きの車輪をチェーンで駆動する蒸気機関車を開発した。これは、Georgeが設計した機関車の特長になった。”

”Stockton & Darlington鉄道は1825年9月27日に公共交通機関として正式開業した。蒸気機関車No.1が26台の貨車、客車を牽引し、West Auckland付近からStocktonまでの21マイル(約34km)を運行した。この開業が、その後世界中に流布する鉄道システムの様式を決めることになった。その年の初め、1月1日に、George Stephensonと彼の息子Robertは、鉄道システム設計と路線調査活動を開始していた。George、Robert Stephensonと彼らの協力者は、この時既に機関車製造業者と鉄道技術者として認知されていた。鉄道はひとつの産業を形成し、地場産業の需要を越えた鉄道システムの拡大はこの時始まった。”

"しかし、全ての出生には痛みを伴う。Stockton & Darlington鉄道の機関車の製造は一旦中止された。華々しく開業したものの、すぐに生みの苦しみに悩まされることになった。1ヵ月も経たずに、貨車の不足に直面した。運用中の150台の貨車は、これまでに製造されたものの中で最悪の部類であった。”

”1826年5月までに、同社は同じ型の4台の機関車を導入した。彼らは日常的に20~24台の貨車を牽引でき、Brussleton PlaneからStocktonまで4時間で、最大92トンの貨物を輸送した。週あたり500~600トンを牽引し、これは同じ条件下で12~14頭の馬の仕事に匹敵した。しかし、勾配には弱く、しばしば機関車は立ち往生し、蒸気が上がるのを待たなければならなかった。性能不足は未熟な機関士の誤った運転によるものもあったが、結局これらの機関車は輸送需要に応える能力がなかった。事態を重く見た鉄道経営者は、1827年に全ての機関車を運用から外し、列車を馬に牽かせる決断を強いられた。しかし、1830年に、Hackworthは新たに旅客列車専用の機関車を設計した。R. Stephensonによって造られ、Globeと命名された機関車は、正しく使えば時速50マイル(80km/h)に達することができた。機関車の改良が進み、1832年までに馬力による運行は不適切とされ、1833年8月に、馬はStockton & Darlington本線では使われなくなった。”

こんな状況ではあったが、Stephenson父子により鉄道建設は着々と進められ、1830年にはLiverpool & Manchester鉄道が開業している。機関車で苦労していたため、開業に際し機関車の技術コンペ(有名なRainhill競争)を催し、高性能な機関車を探したのも頷ける。

 

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Durham地方の鉄道史 2

2017-07-02 22:12:38 | [jp] 歴史

 居住地周辺の鉄道路線を色々調べているのだが、馴染みの無い地名ばかりで、文章読んでいるだけでは訳が判らないので、文献に載っていた路線図にマーカで色分けしてみた。

 出典は 前回と同じくEastern main Lines Darlington to Newcastle via Durham [Roger R Darsley]。青く塗った路線が現存していて、点線は保存鉄道。前回書いた通り、東西方向の路線がすっかり廃止されている。この路線図に描かれている線の他にも、炭鉱への支線、専用線、鋼索鉄道が多数存在したが、割愛されている。 

図中CollyとあるのはCollieryの略で、炭鉱のこと。輸送手段といえば馬車と船と鉄道しか無かった時代、多数の炭鉱から石炭を消費地に輸送するのに必死になっていたのが見て取れる。

Stockton & Darlington鉄道の最初に開業した区間は、所々付け替えられたりしているが、ほぼ現存し閑散ローカル線として細々と営業している。Liverpool & Manchester鉄道の路線も同様に現存。国鉄末期に北九州のローカル線の乗りつぶしに苦労したが、この近辺も旅客列車が1日数本しかない路線ばかりで、結構大変だっただろうな、と思う。 

 

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Durham地方の鉄道史 1

2017-06-18 10:22:20 | [jp] 歴史

元々、廃線跡とかに興味があり、宮脇先生の廃線跡本も全巻揃えて読み耽っていたが、英国でも当然その方面の研究が盛んで、書籍が多数発行されている。居住地、勤務地近辺に廃線跡が多数存在することから、色々書籍を読んでみたら、この地域は産業革命時代に世界の主要な鉱工業地帯として大発展を遂げ、鉄道網が発達していたと。1960年代に殆どの炭鉱が閉山となり、跡地は緑地、農地に戻され、鉄道も一部を除いて廃線となった。北九州でも同じ様な事になったが。

炭鉱、工場跡は緑化政策で整備されたが、廃線跡は今でも割と残っていて、ググル航空写真で見ると一目でそれと判る。一部は遊歩道として整備されている。

鉄道史関連の書籍に、この辺りの鉄道全盛期の写真が多数掲載され、今では信じられない様な光景が展開されていた。写真や図表をブログに転載するのは憚られるため、この辺りの鉄道路線盛衰史について、書籍の解説文を翻訳して紹介したい。

 

手始めに、Eastern Main Lines, Darlington to Newcastle via Durham (Roger R Darsley著, Middleton Press発行, 2007初版)の解説から、この地域の近代史について。

"Durham郡は3本の主要な川によって形成される。Tyne川は北端に接し、Tees川が南端である。Wear川はTees川と同様に、North Pennine山地のAlston地域の高地から流れ出る。"

"Durham郡の地下には、産業革命の揺りかごであったGreat Northern炭田が存在する。石炭層は、1½ftから10ftの厚さの連続した地層として存在した。Durham郡の西部ではこれらの石炭層は地表近くに来て、最高品質の石炭が産出された。これらの石炭は古くから採掘されたが、問題は炭鉱から3本の川の航行可能な区間まで搬出するための膨大な費用であった。"

"最初はwaggonwaysが、そして1825年のStockton & Darlington鉄道の開業後は、Durham郡で製造された蒸気動力鉄道が、石炭を西から東に輸送する主な経路となった。これは、Great Britain島の南北の大都市間を結ぶことを目的とする、英国の交通戦略に反するものだった。"

訳者注:Waggonwaysとは、鉄道が導入される以前に、荷車を人馬で牽くための木製レールを敷設した輸送路を指す。Durham郡は起伏が激しく、河川も急流で、運河に必要な水平面を確保するのが非常に困難だったため、英国の他の地域では主要な交通手段だった運河は殆ど建設されなかった。東西方向の路線は、Stockton & Darlington鉄道由来の線区が閑散支線として残っている以外、全て廃止されてしまった。

"Alston地域の傾斜した台地は、主に砂岩と石灰岩で形成される。この地域では鉛、石灰岩が採掘された。付近にある頁岩層は鉄鉱石の鉱脈で、それは石炭と石灰石と共に、この地域に大きな鉄鋼産業を引き起こした。"

"Durham郡は、19、20世紀に、英国の最も工業化、都会化された地域の1つになった。1866年にDurham郡は、世界の半分の石炭と英国の3分の1の鉄鋼を供給していた。しかし、大部分の製鋼所を道連れにして、1993年までにすべての炭坑は閉じられ、再開発政策により、郡の大部分は森林風景に戻された。"

訳者注:これは決して誇張では無く、石炭産業史料に依れば、この辺りには至る所に炭鉱があった。鉄鋼についても、Consett、Middlesborough、Sunderlandなどに大製鋼所とその関連企業があった。今では見る影も無いが。

"ECMLのDurham郡を貫く37マイルの区間は、Tees川上流のSkerne川沿岸にあるDarlingtonから始まる。北に行くに従い、Ferryhillで石灰岩の崖を突破し、Wear川とその支流を横切り、Team川の渓谷に沿い、Tyne川の深くて急な谷間を横切って北岸のNewcastleに至る。これらの地形を克服するために、8つの見事な高架橋と、Tyne川をまたぐ2つの高い橋を必要とした。"

訳者注:事実、ECML(東海岸本線)で北上すると、YorkからDarlingtonまでは平地をまっすぐ突っ切っているが、Darlingtonの辺りから曲線、橋梁、築堤、切通しが多くなり、建設が容易ではなかったことが窺われる。この書籍によれば、ECMLのこの区間は、炭鉱と需要地を結ぶ路線を経由するルートが幾つも存在したが、何れも遠回りしていて、最短経路を結ぶ線路を建設して現在のルートになったのは19世紀後半になってから。

 

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