例によって賑々しい誌面にしましたが、皆さんの願いが届くよう、また産業、社会に貢献した方々の労に報いるよう反転攻勢、飛躍の年にしたいと思います。
日ロ双方の200海里内の操業条件を決める日ロ地先沖合漁業交渉がウェブ会議で12月17日スタートし、27日まで協議を行った結果、妥結した。根室から出漁する小型底はえなわ漁業はマダラの漁獲枠がほぼ倍増の1,600㌧となった。
日本側は藤田仁司水産庁資源管理部長を代表に外務省、水産庁、道庁、漁業団体の関係者が出席し、ロシア側のサフチュク連邦漁業庁副長官らと交渉した。
相互入漁は、日ロとも7万5千㌧(前年9万㌧)。ロシア側にサバ4万5千㌧(前年5万1500㌧)、マイワシ2万㌧(同2万3千㌧、イトヒキダラ1万㌧(同1万5千㌧)を割り当てる。日本側はサンマ5万6,424㌧(同約7万927㌧)、スルメイカ5,619㌧(同約5,814㌧)、マダラ1,600㌧(810㌧)。有償入漁は約695㌧(同1,062㌧)で22隻(同52隻)。見返り金約2,694万円(同約4,112万円)。
また、北方四島周辺水域における日本漁船の安全操業の条件を決める民間交渉は同じく12月13日からウェブ会議で開かれ、27日に妥結した。日本側は山崎峰男道水産会副会長を代表に外務省、水産庁、道庁、関係団体の関係者が出席し、ロシア側のジョスキー外務省第三アジア局次長らと協議を行った。
操業条件は前年と同じ(漁獲量、操業隻数、操業期間)で、スケソウ刺し網は912㌧、20隻、1月1日〜3月15日、ホッケ刺し網は1,060㌧、20隻、9月16日〜12月31日、タコ空釣りは205㌧、8隻、1月1日〜31日、10月16日〜12月31日。協力金は2,130万円、機材供与は2,110万円。
なお、北方四島周辺水域におけるロシア・トロール漁船の操業により、日本漁船に漁具被害が発生するとともに、漁獲量が低迷していることから、ロシア側に対し、ロシア・トロール漁船の操業自粛等の実効的な対策を講じるよう申し入れた。
水産庁で資源管理推進室長、現在は三重県の鳥羽磯部漁協、三重県漁連の監事を務め、水産界の論客として活躍した佐藤力生氏(70歳)が鳥羽市答志島の居宅で逝去した。12月25日に倒れているのが発見され、死因は心筋梗塞とみられる。遺体は荼毘に付され、千葉県の自宅に戻ったあと、遺族だけで家族葬を行う予定。
佐藤氏は、昭和26年12月大分県大分郡庄内町(現・由布市)生まれ。東京水産大学(現・東京海洋大学)増殖学科卒業後、51年4月水産庁に入庁。 定年退職後は浜で沿岸漁業の手伝いをするなど、ユニークな生き方で知られ、現場を重視する視点と独自の論点で水産の数々の課題に論陣を張り、貴重な提言を行った。著者に『コモンズの悲劇から脱皮せよ』(北斗書房)。水産経済新聞に「力生 離島・答志に住む」を連載していた。
〈回想〉
佐藤氏はつい最近、あのクロマグロ控訴審の判決の日(12月14日)、弊社事務所に顔を見せ「今度の裁判は絶対に勝つ」と大いに怪気炎をあげていた。その元気な姿を思うと、突然のお別れが信じられない。
佐藤さんとのお付き合いは、弊社発行の月刊水産北海道が創刊50周年を迎えた際に、北大水産学部の廣吉勝治教授に当時、大きな動きを見せた水産基本法の制定と漁業将来像を語ってもらおうと、座談会の相談をしたところ、水産庁の「青年将校」と言われた佐藤力生氏(管理部資源管理推進官)を指名、北大水産学部校内で二人の議論を取材した。その模様は、2001年9月号の本誌に「徹底討論」という形で掲載された。あまりに内容が濃く、大分量に及んだため、廣吉先生に半分くらいカットしてもらった。その分、佐藤さんの漁業における「付加価値生産論」の展開が消え、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
次に佐藤さんと深く関わったのは、水協法改正に伴う法定組合員制度に関わる自主性の問題だった。佐藤さんは宮崎県漁政課長時代のシラスウナギ密漁阻止をはじめ反社会的勢力が大嫌いであり、時折みせる正義感の発揮は並大抵もものではなかった。暴力団関係者を漁協から排除するための規制を大いに推奨していた。当時、廣吉教授を主宰者とする北海道漁協研究会に佐藤さんを呼んで話題提供してもらった。組合民主主義の根幹に関わる要素として組合員資格審査は「自主性」に任せるべきとする廣吉教授に、佐藤さんは真っ向から反対し、水産庁の法改正を支持した。本人いわく「武士」の面目躍如だった。
そして、最も印象に残るのは、「資源管理のあり方検討会」における、小松正之氏との水産庁OB対決だった。規制改革=規制緩和を主張する小松氏に対し、新自由主義的な経済手法の矛盾を突く佐藤さんは舌鋒鋭く、大向こうを唸らせた。その主張は『コモンズの悲劇から脱皮せよ』を読んで頂きたい。
最後に心血を注いでいたのは、新漁業法に基づく資源管理を批判し、沿岸漁業者によるクロマグロ訴訟を支援することだった。その道半ばで倒れたことは本人自身が一番無念だったと思われる。日々常に社会、漁村に関心を持ち、自ら考える姿勢は生涯変わらなかったと思う。その時々の思いは「本音で語る資源管理」に綴られている。さらば水産庁の「青年将校」、正義の「武士」佐藤力生さん。(文責・上田)