称讃寺の和尚さんの独り言。お坊さんって こんなんでいいのかなぁ~と思いながらの毎日です。ナマクラ坊主のブログです。

浄土真宗本願寺派(西本願寺派)称讃寺の住職の瑞田信弘です。毎日忙しくしておりますが、ふと気づいた事を書いてみます。

葬儀に臨むお坊さんの姿勢

2009年07月15日 00時08分01秒 | 独り言 ぼやき

ご葬儀を一生懸命執り行いたいとの思いは充分伝わりました。ご葬儀に関わる全てのスタッフが心を一つにして望むべきとの あなたのお気持ちは その通りだと思います。

しかし、比較的高齢のお坊さんには そういった意識に乏しい方が多くいらっしゃいます。あなたには 理解しにくいでしようから 少し解説いたします。

歴史的に日本人がいつから葬式をしたのかは 議論が在る所ですが、少なくとも、江戸時代・明治・大正・昭和の40年頃までは、誰かが亡くなると ご葬家は菩提寺に一番に知らせて、地域の人々の協力の下 菩提寺の住職の指示のもと 葬儀を執り行ってきました。

ところが ここ30~40年前から 葬儀社が出現し、当初は 住職の指示のもと 葬儀を行うことの お手伝いをしていたのが、平成に入ってのここ10年はほとんどの葬儀が 葬儀社付属の会館で実施されるようになり、ご葬家は 葬儀社とは綿密な打合せをしますが 菩提寺の住職とは 日時の打合せのみで、葬儀を執り行うのは 葬儀社が取り仕切るという構図が出来上がりました。

葬儀社の担当者や司会者やご葬家の方々も ご住職は 時間通りに会館に来て決まったお経をちゃんと読んでくれればよい、と思うようになりました。

以前の お葬式では ご葬家の人々も 地域の方々も 菩提寺のお坊さんを頼りにしていました。しかし、現代は 葬儀社を頼りにしているのが実態です。葬儀社自身も 「どんな ご葬儀もご葬家の信頼を裏切ることなく きっちり執り行います。」と

宣言しております。すかわち ご葬儀に関しては お坊さんの地位が相対的に低くなってしまった現実があります。

住職・お坊さんの側から言えば お葬式は 結婚式の披露宴ではないし、厳正な宗教行事だ、と言う主張があります。その宗教行事を葬儀社が取り仕切るとは何事だ、と思っているお坊さんも沢山います。厳正な宗教行事を お経は流れるものの きわめて宗教性の薄いお別れ会式のお葬式に 結果としてなってしまったことには 葬儀社の責任は大変重いものがある、とも思っているお坊さんも多いと思います。何百年と脈々と続いてきた葬儀のあり方を ここ30~40年で変えてしまったのは 葬儀社の責任だ、との主張です。

以上の如くの事情から 葬儀社を快く思っていないお坊さんが沢山居るのは事実です。

私も 上記の議論には 賛成する部分が多々あります。しかし、それは逆に過去のお坊さんの怠慢も多くあった訳で、現代の ご葬儀において葬儀社を抜きにしては考えられない現実の中、あなたの主張のように 葬儀社のスタッフ・司会者・僧侶たちが 心を一つにして葬儀を執り行うことが、結果として 故人様・喪主様始め会葬の方々をも含めて皆様方の為になると 私も思います。

ご導師が そのつどそのつど ご機嫌が良かったり・悪かったりしているとは私は思いませんが、事実とすれば お坊さんの職業意識を疑いたくなります。

葬儀社側の皆さん方は ご導師に対しては 低姿勢の中にも毅然とした態度で接したら良いと思います。

本願寺派のお坊さんに限りませんが 必要以上に恭しく持ち上げられることに抵抗を持っている人は多いです。「ありがたいご読経」のアナウンスや 僧侶の入退場時の会葬者への会釈の強要など 私もあまり好きではありません。

言葉で 必要以上に持ち上げるよりは、導師はどんなお葬式をしようとしているのか、を汲み取っていただき 司会者・スタッフ一同 導師の心で葬儀を執り行って欲しいと 私も思います。導師の心が汲み取れるようになるためには 宗教的な部分も含めて 皆さん方にも勉強していただくことが必要です。

あなたが 心を痛めている お坊さんと 司会者の呼吸と言うかタイミングが良く合うことが 一番と思われる気持ちは良く分かります。その通りだと私も思います。しかし それは お葬式が お別れショーとして捉えればでして、厳選な宗教儀式だと考えているご導師にとっては ナレーションの途中で 「おかみそり」をする事と言うか、そもそも宗教儀式に ナレーションは必要と思っていらっしゃるかどうか、「おかみそり」の儀式の邪魔をするな、と言うことでしよう。

ご葬儀は 故人様とご遺族の気持ちを大切にしなければなりませんが、私達僧侶は お葬式の宗教的意味・宗教性もより大切にしたいと思っております。

一度 司会者の皆さん方と 質疑応答会をやりましようか。

友引の日に会館をお借りして 勉強会を是非やりましよう。

頑張ってください。