MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『Ribbon』

2022-02-27 21:28:03 | 映画日記
『Ribbon』を観てきた。
コロナ禍の美大生の姿と心を描く。

リボンは、一本一本はとても軽く華やかに場を彩るものだ。
服飾やプレゼントの包装。しばった髪のアクセント。
でも、リボンは縛り括るものでもある。
コロナ禍のなかで、世界は小さなルールが増えて、しかもそれが変化して、何となくの雰囲気でルールが捻じ曲げられて解釈されてそれが当然の顔をして跋扈している。そこに冷静さはなく、過剰なまでの正しいが積もり積もってすごい重圧になっている。
一つ一つは軽いルールだ。
外出するときはマスクをしましょう。
店内に入る前は熱を測って、手を消毒しましょう。
ソーシャルディスタンスを確保。列に並ぶときは1メートル以上開けましょう。
一時間に一度は換気をしましょう。
一つ一つは軽い。まるでリボンのように。でもそれが集まって自分を縛ってその重さに潰されてしまう人もいる。

当たり前だけれど重要なことがどんどん削られていった。
美大の卒業展示が中止に。
部活の大会が中止に。いわゆる特待生枠を狙っていた学生達はその道を絶たれた。
卒業式が中止に。義務教育の締めくくりである、9年間の総決算の最後を飾れなかった。
第一波と言われるコロナに対する緊急事態宣言は、今考えれば恐ろしいぐらいに冷徹だった。
今までの努力を全て壊してしまった。
アッと言う間に芸術はゴミになってしまった。
いや、自分がゴミにしてしまったのだ。
でも、それはゴミじゃない。新しい希望の塊なのだ。
誰かにとっては飾り方がわからないぐらいのカッコいい作品なのだ。

破壊と再生。今の世界は狭い空間の中でもがく胎動なのかも知れない。
RibbonはReBornだ。


『アイの唄声を聴かせて』

2021-11-14 22:03:54 | 映画日記
『アイの唄声を聴かせて』を観てきた。

『イヴの時間』よりも近い将来。
たぶん日本。

AIが何の違和感もなく生活に溶け込んでいる世界。
極めて高度な四肢と感情を持ったAI、シオン。
アシモリシオン…。

AIは人のためにある。人の道具になり手助けをしてくれる存在。それは労働力というだけでなく心の手助けもしてくれるようになる、
かもしれない。
心は人の中にあるのではなく、人と人や物との間に生まれるもの。
AIを通して人と人の心が結びつくことも悪くない。
そのためには、AIはある程度ポンコツでなければならない、
かもしれない。
ポンコツ天然であやふやなAIだからこそ、こう聞いてくるのだ。
「ねぇ、いま幸せ?」
そして、そう聞いてくるAIは半分ぐらい人なのかもしれない。

『サクラダリセット《前編》《後編》』

2021-09-02 00:04:07 | 映画日記
『サクラダリセット』を観た。

ありがちやけども、だからこそ安心して観てしまうというか。
「やっぱり、オッサンになったな」と思ってしまうというか。
黒島結菜さんは可愛いし。
ミッチーは絶妙に気持ち悪いし。若干、刑事貴族時代の水谷豊と動きがかぶるねんな。

だいたい言うことなしのできなんやけど、一個だけ気になるのは、能力をコピーする子だけ、なんであんなに気合がいるのか…メガネが曇るって、メガネをちょっと小馬鹿にしてるのかなって。他の能力者はサラッと能力使ってるんやけど、彼だけ…。
 

『空母いぶき』。

2021-08-28 20:58:29 | 映画日記
『空母いぶき』を観た。

不思議な映画だ。
日本は戦争はしない。そのための武力は持たない。だから軍隊をもたない。だが、自然法として自国を防衛することを誰も妨げることは出来ない。
専守防衛。それを具現化したものが自衛隊。
銃を握り銃口を向けても戦争のためには撃たない。戦争回避のためにだけ撃つ。
だから自衛官は常にギリギリのところで戦うことになる。

そこまでしても自衛隊の存在を認めない自国民がたくさんいる。
自衛軍にしたいという意見もある。
いずれにしても今後自衛隊は自衛隊のままでいられないのかもしれない。

自衛隊員は公務員だ。国家公務員で危険手当が付いているだけだったと思う。
公務員は政治的中立を命じられており、ただ憲法と法によってのみ行動する。
つまり、公務員は為政者の下で働く。そして為政者は政治家であり、政治家を選んでいるのは国民だ。
もし、自衛隊がギリギリの戦いを強いられているということは、国民がそうさせたということになる。

いぶきを含め日本側がその気になれば、敵を全て沈めることもできただろうし、楽だっただろう。だが、相手に報復感情をもたせてしまい、攻撃の理由を作ってしまえば、それは戦争になる。
戦争をすることは出来ない。してはならない。

戦後、軍隊の暴走を防ぐために文民統制が原則とされた。たしかに陸軍の肥大化が第二次大戦に繋がっていった。
だが陸軍の暴走を許したのは、文民だった。
日本で文民統制が上手く機能したことはない。
自衛隊は為政者が間違った判断をすれば、軍隊にもなるしただの壁になってしまうこともある。

自衛隊はグレーなままでいい。
黒白付けてしまうと、偏りができる。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。

2021-04-18 01:44:19 | 映画日記
1995年。世相で見ると阪神淡路大震災に始まり、地下鉄サリン事件に代表されるオウムの一連の騒ぎが毎日ワイドショーを騒がせていた。終末的で気味が悪く、それでいて「何か大きなことが起きるかもしれない!」と小学生だった僕は期待していた。 
そんな中、テレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』は放送された。停滞しているようで不安定な主人公はと死海文書、聖書といった設定はカッコよく映った。
ちょうどポケベル、携帯電話が普及しつつある時期(Win95も発売年)でもあり、知らない誰かと繋がるテレクラや円光のチラシで電柱はいっぱいだった。街が混沌としていてアングラに手を出すのは容易だった。ますます「終」の感じがあった。でも何も起こらなくて、中学は終わり、高専に僕は進学した。
そして、旧劇場版はとんでもない終わり方をした。
でもそれを知ったのは、僕が大人になってからだ。

そのころには世間は真綿で首を絞められるような日本になっていた。
希望がぼやけてくるような毎日。
そこに東日本大震災が起こった。この時からDSSチョーカーが僕たちの首につくことになった。
「一つになろう/頑張ろう日本!!」から外れればドカンだし、原発推進派は喋ったらドカン。指向性が違えば一気に一気に排除される。
そして、見えない繋がりは1995年とは比べ物にならないぐらい強くなり、オフ会という実際のつながりにまで発展できるようになった。

2020年。
コロナ災禍が生活に入り込んできた。
ネットを介した会議が行われるなど、「ちがうだろ…」という働き方改革がまず進み、学校が休校になり、電車の本数が減り、店が早く閉まり、日本は変わってしまった。
今度ばかりは、本当に世界が変わってしまった。
また、「終」が見えてきた。でも、僕は39歳になっていた。
「終」を期待として受け入れるには歳を取り過ぎた。もう、次の世代のことを考えなくてはいけない(独身だけれど)。
そして、『シン・エヴァンゲリオン』で全てのエヴァンゲリオンは終わった。
痛みと苦しさと楽しさ、自分の犯した罪、そして草の匂いを飲み込んで主人公は誰よりも優しくなった。
だから、痛みと苦しさと楽しさ、罪をすべて入った世界を創った。

僕らの世界もあと数年すれば彼の作った世界に似た世界になっていくんだろう。
そのとき言えるだろうか「ありがとう」と。