MARUMUSHI

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舞台【太陽】。

2016-06-05 21:14:11 | 映画日記
舞台【太陽】を観てきた(劇団イキウメ・ABCホールにて)。

概ねの話の流れは、当然だけれど映画『太陽』と同じ。
大きく違うのは、金田という男の存在。

映画の中では、金田はノクスの世界に極めて馴染んでいる元キュリオだ。
でも、舞台では違った。草一との再会が原因なのか、彼は揺らいでいる。
理性的で論理的であるはずのノクスが、非理性的で非論理的な行動を取る。
この役割は映画内では森繁に任されていた。ただ、森繁は未来を見て揺れ、金田は過去を見て揺れるという違いがあった。
「ノクスの出生率は全く上がっていない!そう見えるのは、メディアの報道とキュリオの子供を養子にしているからだ」
ジリ貧に見えるキュリオよりも、より現実的なジリ貧に則しているのはノクスなのだ。
その事に気付かないノクスたちはキュリオに対して、優越を感じている。そして、同時に劣等感も。
「同じ人間だ」
という言葉は大抵の場合、優位な人間から出る言葉だ。
ノクスの世界は理性的で論理的。
とても硬質で滑稽に映る。迷いという概念がなくなった人間はこんなに滑稽に見えるものなんだな。
彼らが信じる優越は張りぼてに過ぎないのに、自分たちに解決できない問題はない、などと考えている。ドン・キホーテみたいだ。

人は不平等さの中で生きていると僕は思っている。
門籍、容姿、資産。
僕らはこれらを選んで産まれる事は出来ない。そして、後の人生で大きな差を生む要素だ。
僕みたいに、些かの、障害を持って世に放たれる人間だっている。僕の中でこの“些か”は“些か”であるが故とても大きいものなんだけれど。
僕はキュリオが持つ太陽も、ノクスが持つ月も持っていない。
あるのは弱さだけだ。
「お前が弱いのは、お前が悪いんだよ」
投げかけられる言葉で、これほど人を痛めつける言葉があるだろうか。その通りで、眼を背けたくて、でも逃げられない事実。
その言葉を乗り越えて、強くなる人もいるだろう。そのまま潰れてしまう人もいるだろう。
僕はどちらも嫌だ。この弱さを抱えたまま生きていきたい。この弱さは僕だけのものだ。僕が僕である証拠だ。誰にも渡さないし、変えさせない。

そのための強さが欲しい。
そのための冷酷な理性が欲しい。




2016年06月04日のつぶやき

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