白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 10
甲陽中4度目の兵庫夏の頂点に。
現甲陽学院はこの1938年(昭和13年)以降、聖地から遠ざかること実に79年。
80年ぶりの甲子園出場を目指す夏がもうすぐやってくる。
第24回大会で甲陽中を優勝に導いた別当 薫(兵庫県高校野球五十年史より)
第24回大会(1938年)
~甲陽中、別当 薫が君臨~
第24回大会(1938年)で4度目の優勝を飾った甲陽中(現甲陽)
投打の大黒柱だった別当 薫は、慶大を経てプロ野球大阪(現阪神)に入団し、
藤村富美男らとともに「ダイナマイト打線」を形成した。
引退後は毎日(現ロッテ)や大洋(現DeNA)などで監督を務め、野球殿堂入りを果たした球界の偉人だ。
38年夏はエースとして君臨し、育英商(現育英)、神戸二中(現兵庫)など強豪を連破。
決勝は前年覇者の滝川中(現滝川)を下し、8年ぶりの頂点に導いた。
滝川中をけん引した別所毅彦は後の300勝投手。
戦後のプロ野球を沸かせた両雄による一戦だった。
23年に全国大会初出場初優勝の快挙を果たした甲陽は、
別当を擁した38年を最後に甲子園から遠ざかる。
現在は県内屈指の進学校として名高い。
神戸新聞 松本大輔氏兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)~神戸二中 逆転で初代王者~兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)
~第2~4回 関学中3連覇~
~第5回 神戸一中 初の全国制覇~兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)
~第一神港商 未倒の4連覇~兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
~甲陽中 延長制し聖地へ~
第15回大会(1929年)
~関学中 昭和初期に隆盛~兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)
~甲陽中 怪腕下し3度目~兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)
~第一神港商 岸本擁しV兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)
~新鋭の明石中 黄金期築く~兵庫球児100年のあしあと 8
第21回大会(1935年)
~育英商、名門の道~
第22回大会(1936年)
~育英商V2、全国区に~兵庫球児100年のあしあと 9
第23回大会(1937年)
~滝川中、念願の初優勝~
白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 9では、滝川中 歴史の扉を開いた悲願の初優勝。
伝統の始まり・・・
そこから各校の道は今も繋がっていて、どれだけの選手がその門を叩き、
伝統を背負う選手たちは汗を流したのだろう。
第23回大会で初優勝を飾った滝川中ナイン(瀧川野球部史より)
第23回大会(1937年)
~滝川中、念願の初優勝~
1937(昭和12)年の第23回大会は滝川中(現滝川)が念願の初優勝。
現在、滝川第二に伝統が受け継がれる屈指の強豪が歴史の扉を開いた。
18年(大正7)年、開校と同時に活動を開始し、夏の兵庫大会初出場は2年後の第6回大会。
当初は第一神港商や甲陽中(現甲陽)などに押されたが、35年の第21回大会で準決勝に進むと、
翌36年春の選抜大会に初出場し、新鋭校として名乗りを上げた。
初優勝が期待された36年夏の兵庫大会は準決勝で育英商(現育英)に苦杯。
「打倒育英」を掲げた37年は初戦から圧勝を重ね、
決勝は、準決勝で育英商を破った甲陽中に2-1で競り勝った。
その後の全国大会ではベスト4に進出。
主将の三田政夫は卒業と同時に巨人入りし、川上哲治らとともに
「花の13年組」と称された。
神戸新聞 松本大輔氏兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)~神戸二中 逆転で初代王者~兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)
~第2~4回 関学中3連覇~
~第5回 神戸一中 初の全国制覇~兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)
~第一神港商 未倒の4連覇~兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
~甲陽中 延長制し聖地へ~
第15回大会(1929年)
~関学中 昭和初期に隆盛~兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)
~甲陽中 怪腕下し3度目~兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)
~第一神港商 岸本擁しV兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)
~新鋭の明石中 黄金期築く~兵庫球児100年のあしあと 8
第21回大会(1935年)
~育英商、名門の道~
第22回大会(1936年)
~育英商V2、全国区に~
育英商を強豪に押し上げた佐藤平七(兵庫県高校野球五十年史より)
白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 8では、現育英野球部の礎えとなった21回の大会初優勝、22回大会の連覇。
時代々で生まれる絶対的エースの誕生に兵庫の高校野球が湧いた熱い光景が目に浮かぶ。
この時代に、現代で言う「野球留学」選手が居たことが驚きだった。
第21回大会で初めて兵庫を制し、続く全国大会で準優勝に輝いた育英商ナイン
(育英商・育英高校硬式野球部85年史より)
第21回大会(1935年)
~育英商、名門の道~
1935(昭和10)年の第21回大会は育英商(現育英)が悲願の初優勝を成し遂げた。
後に全国制覇を果たし、数々のスター選手を生む同校が名門への道を切り開いた。
大正期の16年に正式に創部し、県大会は翌17年の第3回が初出場。
夏の初勝利まで7年を要するなど、草創期は初戦敗退が続いたが、
第16回で8強入りを果たし、急速に存在感を高めた。
第17、19回で決勝に進出して県の頂点まであと一歩に迫り、35年には選抜大会に初出場。
そして同年の第21回大会決勝で当時、隆盛を誇っていた明石中(現明石)を下して初めて兵庫を制した。
その後の全国大会では勢いに乗って準優勝。
同校硬式野球部85年史には「甲子園初出場準優勝以降、入部希望の新入生は激増」と記され、
現在に至る伝統の土台が築かれた。
第22回大会(1936年)~育英商V2、全国区に
前年、創部初の栄冠に輝いた育英商(現育英)。
1936(昭和11)年の第22回大会も決勝で明石中(現明石)と顔を合わせた。
再び7-1で退けて2連覇を果たし、時代の転換を印象づけた。
前年春から4季連続出場となった甲子園大会も準決勝まで勝ち進み、全国区に駆け上がった。
躍進の原動力はエース佐藤平七。
同校硬式野球部85年史によれば、佐藤は北海道・函館出身で、当時では珍しい「野球留学」だった。
育英商のOBが北海道を旅行した際に目を付け、当時の柏原庄次監督が函館に出向いて家族を説得。
佐藤を自宅に預かり、育て上げたという。
伸びやかな横手投げだった佐藤は正確無比なコントロールが武器だった。
卒業後はプロ野球の毎日(現ロッテ)や阪急(現オリックス)でプレーした。
神戸新聞 松本大輔氏兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)~神戸二中 逆転で初代王者~兵庫球児100年のあしあと 2
第2回~9回大会(1916~1923年)
~第2~4回 関学中3連覇~
~第5回 神戸一中 初の全国制覇~兵庫球児100年のあしあと 3
第10回~13回大会(1924~27年)
~第一神港商 未倒の4連覇~兵庫球児100年のあしあと 4
第14回大会(1928年)
~甲陽中 延長制し聖地へ~
第15回大会(1929年)
~関学中 昭和初期に隆盛~兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)
~甲陽中 怪腕下し3度目~兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)
~第一神港商 岸本擁しV兵庫球児100年のあしあと 7
第18回~20回大会(1932~34年)
~新鋭の明石中 黄金期築く~
「世紀の剛腕投手」と称された明石中の楠本保(楠本保彦さん提供)
白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 7に登場するのは、戦火に散った二人の大投手。
戦争によって奪われた偉大な野球人を想うと胸が熱くなる。
史上最長記録となった延長二十五回の戦い・・・
想像がつかない長い長い戦い、すごい対戦だったんだろうなぁ。
時を超えタイブレーク制度が導入された今、もう観ることはできない記録に残る一戦。
亡き先人球児たちが今を観たら何を想うのかな。
第18回~20回大会(1932~34年)
~新鋭の明石中 黄金期築く~
第1回大会から神戸、阪神間のチームを中心に回っていた兵庫の中等学校野球。
礎を築いて強豪に割って入ったのが、1927(昭和2)年
初出場の新鋭、明石中(現明石)だ。
30年から39年までの10年間で7度の決勝進出 うち優勝は2度。
「明中時代」が到来した。
初優勝は32年の第18回大会。
「世紀の剛腕投手」と称された楠本 保を擁し、決勝で甲陽中(現甲陽)を3-0で完封した。
三振の山を築く楠本の投球を、当時の神戸新聞は
「電光の如(ごと)き速球」と評した。
楠本は全国大会でも1回戦で北海道・北海中を相手に15三振を奪って無安打無得点試合を達成。
2回戦の広島・大正中戦は、後にミスタータイガースと呼ばれた元阪神の藤村富美男に1-0で投げ勝った。
準決勝で愛媛・松山商に敗れたが、4試合で64奪三振の快投を演じた。
甲子園で死闘 「延長二十五回」
翌33年春の選抜大会で準優勝した明石中は、第19回大会も剛腕・楠本に加え、
1学年下に左腕中田武雄が控える盤石の投手力で2連覇。
堂々の優勝候補として乗り込んだ甲子園で、今も語り継がれる伝説の「延長二十五回」を生む。
準決勝で大会2連覇の愛知・中京商と激突した。
明石中は体調を崩していた楠本を右翼に置いて中田が先発。
中京商のエース吉田正男との息詰まる投手戦は延長に入っても膠着(こうちゃく)した。
均衡は破れず、急きょ継ぎ足されたスコアボードに「0」が並んだ。
日没が迫った延長二十五回裏、中京商が内野ゴロで1点を奪ってついに決着。
4時間55分の死闘の末、明石中は涙をのんだ。
延長戦は1958年に十八回打ち切り再試合の規定が設けられた。
2000年に十五回に短縮され、今年からはタイブレーク制度を導入。
早期決着が進む中、明石中の延長二十五回は不滅の最長試合として大会史に刻まれ続ける。
第20回大会決勝、延長20回に及んだ明石中ー神戸一中のスコアボード
(神戸一中・神戸高校野球部九十年史より)
慶応大に進んだ楠本が抜けた第20回大会(34年)も、明石中は兵庫大会を順当に勝ち進んだが、
決勝で神戸一中(現神戸)に延長二十回の末に1-2で敗れた。
前年の延長二十五回に続いて完投した中田は「延長に泣く投手」と呼ばれた。
慶応大でも「明中コンビ」として活躍した楠本と中田は43年、ともに戦火に散った。
中田が太平洋上で米軍の爆撃機に沈んだ翌日、楠本は中国戦線で戦死した。
出征後に生まれた楠本の長男保彦さん(76)=埼玉県=は
「一度も会えなかったから、おやじはいつまでたっても理想の人」と話す。
戦後70年の2015年夏、保彦さんは前年に亡くなった母美代子さんと父の写真を携え、
十数年ぶりに甲子園球場を訪れた。
熱気渦巻く満員のスタンドに身を置いた保彦さんは、感慨に浸ったという。
「延長二十五回の試合もすごい雰囲気だったんだろうなあ。
自分にとってもいい記念になったし、両親も喜んでくれたと思う」
神戸新聞 山本哲志氏
保彦さん・・・
偉大な父から一文字受け継がれたお名前、お母様の想いが込められているのだと感じますね。
大投手は、甲子園の空から今の球児の活躍に目を細められてご覧になったことでしょう。
兵庫球児100年のあしあと 1
激闘の譜 第100回へつなぐ
第1回大会(1915年)~神戸二中 逆転で初代王者~兵庫球児100年のあしあと 2
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~第5回 神戸一中 初の全国制覇~兵庫球児100年のあしあと 3
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第14回大会(1928年)
~甲陽中 延長制し聖地へ~
第15回大会(1929年)
~関学中 昭和初期に隆盛~兵庫球児100年のあしあと 5
第16回大会(1930年)
~甲陽中 怪腕下し3度目~兵庫球児100年のあしあと 6
第17回大会(1931年)
~第一神港商 岸本擁しV