隊長のブログ

元商社マン。趣味:ヒップホップダンス、ジャズダンス、日舞(新舞踊)、旅行、映画、スポーツ観戦。阪神タイガースのファン。

旅行記 第34回 『「Go To トラベル」で行く鎌倉 2日間』 (その4・明月院)

2020年10月22日 | 旅行記

旅行記 第34回 『「Go To トラベル」で行く鎌倉 2日間』 (その3・浄智寺) ⇒ https://blog.goo.ne.jp/taichou-san2014/e/a64288eb5bb8d1a11225e783387a79fa

 

 

鎌倉五山第四位「浄智寺」での30分強の参拝と境内散策を終え、鎌倉街道の「明月院(めいげついん)バス停」前に戻ってきたのは、13時を少し過ぎていました。横須賀線の踏切を渡り左折。」突き当りを右に曲がり、「明月院通り」を進みます。この小径の両側には、「葉祥明(よう しょうめい)美術館」やお洒落なレストラン、カフェが点在しています。

 


左側には清流の小川が。

 


バス停から歩いて12~13分で、臨済宗建長寺派寺院「明月院」正面入口に到着。

 


明月院の前身・明月庵の創建は、今から約850年前ぼ永暦元年(1160)に始まります。この地の武将で平治の乱で戦死した山内首藤俊道(やまうちすどう としみち)の菩提供養のため、子・山内首藤経俊(つねとし)によって創建。


その約100後、康元元年(1256)、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼が執権を北条長時に譲って、この地に「最明寺」を建立(現在の明月院の西北の場所)。出家生活をここでおくりましたが、37歳で死去。後に時頼の子・第八代執権・北条時宗が最明寺を前身に、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山に禅興寺を創建ました。康暦二年(1380)、足利氏満から禅興寺中興の命を受け、関東官領・上杉憲方は寺院を拡大し、塔頭も建てました。この時、明月庵は明月院と改められ支院の首位におかれました。


「総門」。ここで、拝観料 500円を納めます。冒頭の画像は、その時に頂いたパンフレットの表紙。

 


6月には、「総門」から「山門」までの石段の参道の両側は、アジサイで埋め尽くされます。何故か、まだアジサイの花が数輪の残っていました。

 


「山門」をくぐった先には、「方丈(本堂)」があります。

 


方丈内の「円窓」は、悟りや真理、大宇宙などを円形で象徴的に表現したもので「悟りの窓」と呼ばれています。

 


この日は、ハロウィンが近いからでしょう、カボチャの顔が置かれていました。

 


円窓から見える「後庭園」。

 

 


御朱印を頂けるのは、方丈の右手にある「御朱印所」。納経料は、300円。

 

中央の墨書きは、御本尊の「聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)」。左上の墨書きは、山号の「福源山(ふくげんざん)」。左下に院号の「明月院」。

 

右上「奉拝」の墨書きの上には札所の「鎌倉観世音第三十番」の朱印が、中央には三宝印の「仏法僧宝」、右下には寺院印の「明月院印」が押印されています。通常は角形の寺院印ですが、当院らしく満月を模した丸形ですね。

 


尚、拝受した御朱印の数は、これで七十印になりました。詳細は、こちらの「御朱印巡り」記事一覧をご参照下さい⇒ http://blog.goo.ne.jp/taichou-san2014/e/e23a591aa7b880a9e451c519dc5e14a5


方丈左手奥の「開山堂」。禅興寺の明月院境内にあった宗猷堂を後に開山堂としたものです。 堂内中央に開山密室守厳の木像、向かって左に最明寺、禅興寺、歴代の住持の位牌が祀られています。

 


開山堂の右横には、「鎌倉十井」の一つに数えられる「瓶の井(かめのい)<つるべの井>」。岩盤を垂直に掘りぬいて造ったとみられ、その内部が水瓶のように膨らみがあることから「瓶の井」と呼ばれています。

 

「鎌倉十井」の中でも、現在使用出来る井戸としては数少なく、貴重な存在です。「鎌倉十井」とは、江戸時代に水質があまり良くなかった鎌倉の井戸の中で、おいしく、また伝説や、いわれのある十の井戸のことです。

 


約30分の参拝・境内散策を終えたのが、13時40分頃です。

 


★ 続きは、『「Go To トラベル」で行く鎌倉 2日間』 (その5・円覚寺)で ★ 


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