82歳からの旅

私の記録

 ~ 親友の死に会って ~ 其の2

2013年01月07日 07時52分45秒 | 日記
   1月7日月曜日  
 話す事は山ほどもあるが、彼の奥さんに会った事は2回だけでし
た。家に伺う日が決まってから、電話をしようと記録を探したがな
いのです。
 古い年賀状や同窓会記録を出して見ましたが、彼の家の電話番号
はわかりませんでした。
                     
 彼から貰った野球のグローブは、私がその頃村では最初の、グロ
ーブでした。たった一つのグローブでしたが、それで草野球を始め
ました。
                      
 彼は高校を2年で他の高校に,転校しましたが文通はしていまし
た。でも電話をする様な差し迫った用事が、今迄なかったのでした。

 考えて見ると無二の親友で、彼の良い処を学び今の私の人格形
成が出来た面も随分あると思います。でも平素は殆ど交流がなかっ
た事でした。それだけ二人とも平穏に、暮らしていたのでしょう。

 仕方なく電話をせずに訪問しました。玄関のベルを押すとすぐに奥
さんが出て来ました。
 家に入ってから、位牌のある部屋に案内されました。最初に位牌に
手を合わせ、暫らく黙とうをしました。その間にも彼との思い出が次
から次えと、思い出されて尽きませんでした。 
 
 彼は遺体を歯科医大に献体し、3年後にお骨が帰って来るそうです。
それで初盆を何時するのかは、まだ決めて無いようでした。そう言えば
遺影写真も大きいのは有りませんでした。

 私と彼との関係を順序だてて、話ましたが奥さんは良く知っていま
した。中学時代に彼の家に行って泊まった事、彼も私の家に来て泊ま
った事などを・・・。
 戦時中で何もなくその上不衛生な、農村の私の家に良く来て泊まっ
てくれた事だと話ました。
 又終戦の時に私の家にお母さんと一緒に、一事避難して来ました。
その時に私は飛行兵で出征して、家にはいませんでした等々・・・。

※ 一つ大事な事を忘れていました、それは中学2年生の時の事でし
た。私が学校の休みの日を家に知らせずに、友達の家に行って地引
網で魚を取り、魚を沢山持って家に帰りました。処がO君がお母さん
と一緒に田植えの手伝いに来てくれているのです。
 私の家に来るにはその頃は、JR行橋駅を降りてから一時間あまり
も歩いて来るそれが普通でした。そんなこともあったのです。

 なんと都合の悪い事でしょう、赤面も此の上ない事でした。其の
時も父はあまりひどくは、怒りませんでしたが母は大変悔やみまし
た。
 早速このことは次に行った時に、話して上げようとおもいます。

 それと遺影の写真は小さいのを、プリンタで大きく伸ばして上げ
ようと思いました。

 親友と言う上には、心の繋がりだけでなくて日常つねに交流うし
ておく事が大切です。

 たった一回の別れにこんな事をしでかすなんて、帰りに同じ友達
の喜多村君の家によってみましたが、留守でしたので帰ってから夜
に電話ををしました。すると喜多村君は病気で今日入院させて、奥
さん帰った処でした。
 奥さんが言うにはO君に生前会った時に、「高田君に電話をした
が留守で何時も繋がらなかった」と話していたとの事…悔やまれて
なりません……
 
 それからすぐに親しい友達数人に、電話をしてこの世の無常を話し
合ったのでした。





     
コメント (2)
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