1月7日月曜日
話す事は山ほどもあるが、彼の奥さんに会った事は2回だけでし
た。家に伺う日が決まってから、電話をしようと記録を探したがな
いのです。
古い年賀状や同窓会記録を出して見ましたが、彼の家の電話番号
はわかりませんでした。
彼から貰った野球のグローブは、私がその頃村では最初の、グロ
ーブでした。たった一つのグローブでしたが、それで草野球を始め
ました。
彼は高校を2年で他の高校に,転校しましたが文通はしていまし
た。でも電話をする様な差し迫った用事が、今迄なかったのでした。
考えて見ると無二の親友で、彼の良い処を学び今の私の人格形
成が出来た面も随分あると思います。でも平素は殆ど交流がなかっ
た事でした。それだけ二人とも平穏に、暮らしていたのでしょう。
仕方なく電話をせずに訪問しました。玄関のベルを押すとすぐに奥
さんが出て来ました。
家に入ってから、位牌のある部屋に案内されました。最初に位牌に
手を合わせ、暫らく黙とうをしました。その間にも彼との思い出が次
から次えと、思い出されて尽きませんでした。
彼は遺体を歯科医大に献体し、3年後にお骨が帰って来るそうです。
それで初盆を何時するのかは、まだ決めて無いようでした。そう言えば
遺影写真も大きいのは有りませんでした。
私と彼との関係を順序だてて、話ましたが奥さんは良く知っていま
した。中学時代に彼の家に行って泊まった事、彼も私の家に来て泊ま
った事などを・・・。
戦時中で何もなくその上不衛生な、農村の私の家に良く来て泊まっ
てくれた事だと話ました。
又終戦の時に私の家にお母さんと一緒に、一事避難して来ました。
その時に私は飛行兵で出征して、家にはいませんでした等々・・・。
※ 一つ大事な事を忘れていました、それは中学2年生の時の事でし
た。私が学校の休みの日を家に知らせずに、友達の家に行って地引
網で魚を取り、魚を沢山持って家に帰りました。処がO君がお母さん
と一緒に田植えの手伝いに来てくれているのです。
私の家に来るにはその頃は、JR行橋駅を降りてから一時間あまり
も歩いて来るそれが普通でした。そんなこともあったのです。
なんと都合の悪い事でしょう、赤面も此の上ない事でした。其の
時も父はあまりひどくは、怒りませんでしたが母は大変悔やみまし
た。
早速このことは次に行った時に、話して上げようとおもいます。
それと遺影の写真は小さいのを、プリンタで大きく伸ばして上げ
ようと思いました。
親友と言う上には、心の繋がりだけでなくて日常つねに交流うし
ておく事が大切です。
たった一回の別れにこんな事をしでかすなんて、帰りに同じ友達
の喜多村君の家によってみましたが、留守でしたので帰ってから夜
に電話ををしました。すると喜多村君は病気で今日入院させて、奥
さん帰った処でした。
奥さんが言うにはO君に生前会った時に、「高田君に電話をした
が留守で何時も繋がらなかった」と話していたとの事…悔やまれて
なりません……
それからすぐに親しい友達数人に、電話をしてこの世の無常を話し
合ったのでした。
話す事は山ほどもあるが、彼の奥さんに会った事は2回だけでし
た。家に伺う日が決まってから、電話をしようと記録を探したがな
いのです。
古い年賀状や同窓会記録を出して見ましたが、彼の家の電話番号
はわかりませんでした。
彼から貰った野球のグローブは、私がその頃村では最初の、グロ
ーブでした。たった一つのグローブでしたが、それで草野球を始め
ました。
彼は高校を2年で他の高校に,転校しましたが文通はしていまし
た。でも電話をする様な差し迫った用事が、今迄なかったのでした。
考えて見ると無二の親友で、彼の良い処を学び今の私の人格形
成が出来た面も随分あると思います。でも平素は殆ど交流がなかっ
た事でした。それだけ二人とも平穏に、暮らしていたのでしょう。
仕方なく電話をせずに訪問しました。玄関のベルを押すとすぐに奥
さんが出て来ました。
家に入ってから、位牌のある部屋に案内されました。最初に位牌に
手を合わせ、暫らく黙とうをしました。その間にも彼との思い出が次
から次えと、思い出されて尽きませんでした。
彼は遺体を歯科医大に献体し、3年後にお骨が帰って来るそうです。
それで初盆を何時するのかは、まだ決めて無いようでした。そう言えば
遺影写真も大きいのは有りませんでした。
私と彼との関係を順序だてて、話ましたが奥さんは良く知っていま
した。中学時代に彼の家に行って泊まった事、彼も私の家に来て泊ま
った事などを・・・。
戦時中で何もなくその上不衛生な、農村の私の家に良く来て泊まっ
てくれた事だと話ました。
又終戦の時に私の家にお母さんと一緒に、一事避難して来ました。
その時に私は飛行兵で出征して、家にはいませんでした等々・・・。
※ 一つ大事な事を忘れていました、それは中学2年生の時の事でし
た。私が学校の休みの日を家に知らせずに、友達の家に行って地引
網で魚を取り、魚を沢山持って家に帰りました。処がO君がお母さん
と一緒に田植えの手伝いに来てくれているのです。
私の家に来るにはその頃は、JR行橋駅を降りてから一時間あまり
も歩いて来るそれが普通でした。そんなこともあったのです。
なんと都合の悪い事でしょう、赤面も此の上ない事でした。其の
時も父はあまりひどくは、怒りませんでしたが母は大変悔やみまし
た。
早速このことは次に行った時に、話して上げようとおもいます。
それと遺影の写真は小さいのを、プリンタで大きく伸ばして上げ
ようと思いました。
親友と言う上には、心の繋がりだけでなくて日常つねに交流うし
ておく事が大切です。
たった一回の別れにこんな事をしでかすなんて、帰りに同じ友達
の喜多村君の家によってみましたが、留守でしたので帰ってから夜
に電話ををしました。すると喜多村君は病気で今日入院させて、奥
さん帰った処でした。
奥さんが言うにはO君に生前会った時に、「高田君に電話をした
が留守で何時も繋がらなかった」と話していたとの事…悔やまれて
なりません……
それからすぐに親しい友達数人に、電話をしてこの世の無常を話し
合ったのでした。