最近読んだ新聞の投書についてちょっと物申したくなってしまったので、この場で記させていただきます。
2010年1月15日付朝日新聞朝刊の「声」欄に、こんな投書がありました。投稿者は大学院生の坂田和也さん、タイトルは「ノート取らず 板書を撮影とは」です。そのまま引用します:
最近、大学生の後輩に勉強を教える機会があったが、違和感を覚えた。
ノートを取らず、私の板書をデジカメで撮影するのだ。楽だし、パソコンに
取り込めて保存面でも便利というが、私は疑問だ。
教えたのは数式が多用される理論物理。こういった学問は目で追うだけでは
なかなか理解できない。手を動かし、頭に落とし込んでいくしかないと思うのだ。
後輩が本当に理解したのか不安になった。
こうしたことは今、理工系で広がりつつあると教授から聞いた。授業は大抵、
発表用パソコンソフトのパワーポイントを使って行われ、板書なんてできない
スピードで進む。学生はデジカメで撮るしかないのだ。先生も板書の数倍の
スピードで授業を進められるし、学生も手を動かさなくていいので楽だが、
肝心の内容は頭に残るのだろうか。
昨今、中高生の学力低下が叫ばれているが、大学教育の場にもその問題が
着実に迫っているように思う。
これを読んで、私は唖然呆然としてしまいました。古い人間なので、電子辞書にさえいまだにどこかで反発しているくらいなのです。確かに持ち運びには便利ですが、開いたついでにその付近の別の言葉について偶然勉強できるという利点を考えると、紙の辞書に軍配を上げてしまいます。そんな勉強の楽しさを、電子辞書で味わうことができるのかしら?と思っているのです。
閑話休題、そんな人間ですから、板書をデジカメで撮影するなんて言語道断のように思えます。書き写すという一見受動的な、消極的な行為が、実は多面的で充実した行為なのではないかと思うばかりか、行い方によってはとても能動的な活動になると思うからです。
時間をかけて自分の手で書くことによって、内容の意味や数式などの解法をたどったり、確認したりしながら、納得できたり、逆に疑問が浮かんだりするのではないでしょうか。あるいは、別の内容や方法が思い浮かぶこともあるでしょうし、「自分ならこうするのに、先生はどうしてこの方法を選んだのだろう?」ということもあるかもしれません。ときには(というか、ほとんどの場合?!)わからないまま書き写すこともあるでしょうが、「わからない自分」を確認するのも、勉強の重要な側面だと思います。また、想像力というすばらしい力のお蔭で?せいで?、自分だけ全く別の世界にワープしてしまう瞬間だってあるでしょう。それはそれで有意義だったり、楽しかったりするのではないでしょうか? それが「板書を書き写す」という勉強法の醍醐味であると思うのです。
また、もっと単純に、ペンを使って書くという行為を分析してみれば、ただ手先を使うという点だけでも脳の活性化につながる行為であるばかりではなく、文字や数字を自分で書くことは充分創造的な、立派な能動的行為だと思います。(キーボードを叩きながらこれを主張している私の論旨は、全く説得力がないことになりますが...とほほ。) また、書くことの反復練習や習慣がどれだけ大事かは、漢字や英語の単語を書いて覚えた人には、体験からわかるでしょう。
手書きではなく活字による原稿についても考えてみましょう。
事前に準備され、順番どおりに映し出される活字による原稿は、見やすいし、わかりやすいでしょうし、学生側に誤記が生じないので、一見完璧で合理的のようにも思えます。でも、解読が難解な手書きの文字を想像力を働かせながら判読する、行間を読みながら書き写すことは、とても能動的な行為ではありませんか? ときには先生の間違いに気づくこともあるかもしれません。でも、それこそが勉強なのではないかと思うのです。
こう考えてくると、ただ書き写すという行為が、実はとても能動的な行為につながる可能性を含んでいることがよくわかりますよね。昔ながらの、先生がゆっくり板書するのを書き写すという行為と、予め用意された活字の原稿をデジカメで撮影するという行為の間には、とんでもなく大きな違いがあると私には思えるのです。
私大の理工学部に通う甥っ子に実態を確認してみたところ、彼の大学(愚息の出た大学と同じです)ではそんなことはないとのこと、むしろ、カメラのシャッター音でも鳴らそうものなら大変なことになるという話だったので、ちょっと安心しましたが...この記事が実態の大学が、全国的に少なからずあるのでしょうね。ゆゆしきことです。
坂田さんの投書から、問題が学生側のみにあるのではなく、教える側にもあることがうかがえますね。でも、この授業方法を先生方が好んで用いているかどうかも、またわかりませんよね。会議や雑用で多忙を余儀なくされる先生方が、この方法を使いたくなる気持ちもわからないではありません。一度原稿を作ってしまえば、講義の度に書く労力を省くことができるのですものね。私はかつて教授の秘書をしていたことがあるので、多忙な先生方の実情がある程度理解できるのです。あらゆる方法を試した末の、苦肉の策なのかもしれませんしね。どちらが卵か鶏か、ということにもなりましょうが...。
とにかく、さまざまな理由から大学が本来の学びの場を提供できなくなっている悲しい実情が、この投書により浮き彫りにされていると思います。
ちょっと余談ですが......
亡き私の父は、現役時代理工系の学部の教授でした。その父の口癖は、「勉強は手を動かさないとだめだ」でした。何度この言葉を聞いたかわかりません。「塾や予備校で、数式や理論の結論だけ出すことを教わってきた学生はだめだ。結論だけを書けばいいと思っている。結論に至るまでの、結論を導き出す過程が大事なんだ」という言葉も、何度聞いたことか...。
それゆえ、父は大変厳しい態度で授業に臨み、たくさんのレポートを学生に課し、手を動かさせましたが、その分自分も手を動かしました。一つ一つのレポートを実に丹念に添削し、返していたのです。テストの採点も実に丁寧でした。そうした父を傍で見て、ときには成績簿をつけるのを手伝わされていた私には、それがよくわかりました。あまりの実直ぶりに、「これだけの労力を学生にかけてやるだけのことがあるのだろうか?」とさえ、ときには思ったものです。ですから、真面目でやる気のある学生しか、父の講義をとらなかったようです。
でも...去年父が亡くなり、人づてに後でそれを知った元の教え子さんたちが、三々五々実家を訪れてくださり、父の思い出を語り、感謝の言葉を口にし、涙を流してくださいました。もう何十年も前の学生さんたちです。父から学問に対する姿勢を学び取ってくれた学生さんが少なからずいたことを、私は心から嬉しく思いました。それと同時に、今父があの世で、どんな思いで大学の授業風景を眺めているかと思うと、ちょっと悲しくなります。
板書を撮すだけの学生さん......そうせざるを得ない事情はわかりますが、せめて、家に帰って、画像を見ながらでも自分で数式を書き直してみてくださいね。そこから生まれるものが、必ずあると思いますよ。
冗長になりました。最後まで読んでくださったみなさん、ありがとうございました
2010年1月15日付朝日新聞朝刊の「声」欄に、こんな投書がありました。投稿者は大学院生の坂田和也さん、タイトルは「ノート取らず 板書を撮影とは」です。そのまま引用します:
最近、大学生の後輩に勉強を教える機会があったが、違和感を覚えた。
ノートを取らず、私の板書をデジカメで撮影するのだ。楽だし、パソコンに
取り込めて保存面でも便利というが、私は疑問だ。
教えたのは数式が多用される理論物理。こういった学問は目で追うだけでは
なかなか理解できない。手を動かし、頭に落とし込んでいくしかないと思うのだ。
後輩が本当に理解したのか不安になった。
こうしたことは今、理工系で広がりつつあると教授から聞いた。授業は大抵、
発表用パソコンソフトのパワーポイントを使って行われ、板書なんてできない
スピードで進む。学生はデジカメで撮るしかないのだ。先生も板書の数倍の
スピードで授業を進められるし、学生も手を動かさなくていいので楽だが、
肝心の内容は頭に残るのだろうか。
昨今、中高生の学力低下が叫ばれているが、大学教育の場にもその問題が
着実に迫っているように思う。
これを読んで、私は唖然呆然としてしまいました。古い人間なので、電子辞書にさえいまだにどこかで反発しているくらいなのです。確かに持ち運びには便利ですが、開いたついでにその付近の別の言葉について偶然勉強できるという利点を考えると、紙の辞書に軍配を上げてしまいます。そんな勉強の楽しさを、電子辞書で味わうことができるのかしら?と思っているのです。
閑話休題、そんな人間ですから、板書をデジカメで撮影するなんて言語道断のように思えます。書き写すという一見受動的な、消極的な行為が、実は多面的で充実した行為なのではないかと思うばかりか、行い方によってはとても能動的な活動になると思うからです。
時間をかけて自分の手で書くことによって、内容の意味や数式などの解法をたどったり、確認したりしながら、納得できたり、逆に疑問が浮かんだりするのではないでしょうか。あるいは、別の内容や方法が思い浮かぶこともあるでしょうし、「自分ならこうするのに、先生はどうしてこの方法を選んだのだろう?」ということもあるかもしれません。ときには(というか、ほとんどの場合?!)わからないまま書き写すこともあるでしょうが、「わからない自分」を確認するのも、勉強の重要な側面だと思います。また、想像力というすばらしい力のお蔭で?せいで?、自分だけ全く別の世界にワープしてしまう瞬間だってあるでしょう。それはそれで有意義だったり、楽しかったりするのではないでしょうか? それが「板書を書き写す」という勉強法の醍醐味であると思うのです。
また、もっと単純に、ペンを使って書くという行為を分析してみれば、ただ手先を使うという点だけでも脳の活性化につながる行為であるばかりではなく、文字や数字を自分で書くことは充分創造的な、立派な能動的行為だと思います。(キーボードを叩きながらこれを主張している私の論旨は、全く説得力がないことになりますが...とほほ。) また、書くことの反復練習や習慣がどれだけ大事かは、漢字や英語の単語を書いて覚えた人には、体験からわかるでしょう。
手書きではなく活字による原稿についても考えてみましょう。
事前に準備され、順番どおりに映し出される活字による原稿は、見やすいし、わかりやすいでしょうし、学生側に誤記が生じないので、一見完璧で合理的のようにも思えます。でも、解読が難解な手書きの文字を想像力を働かせながら判読する、行間を読みながら書き写すことは、とても能動的な行為ではありませんか? ときには先生の間違いに気づくこともあるかもしれません。でも、それこそが勉強なのではないかと思うのです。
こう考えてくると、ただ書き写すという行為が、実はとても能動的な行為につながる可能性を含んでいることがよくわかりますよね。昔ながらの、先生がゆっくり板書するのを書き写すという行為と、予め用意された活字の原稿をデジカメで撮影するという行為の間には、とんでもなく大きな違いがあると私には思えるのです。
私大の理工学部に通う甥っ子に実態を確認してみたところ、彼の大学(愚息の出た大学と同じです)ではそんなことはないとのこと、むしろ、カメラのシャッター音でも鳴らそうものなら大変なことになるという話だったので、ちょっと安心しましたが...この記事が実態の大学が、全国的に少なからずあるのでしょうね。ゆゆしきことです。
坂田さんの投書から、問題が学生側のみにあるのではなく、教える側にもあることがうかがえますね。でも、この授業方法を先生方が好んで用いているかどうかも、またわかりませんよね。会議や雑用で多忙を余儀なくされる先生方が、この方法を使いたくなる気持ちもわからないではありません。一度原稿を作ってしまえば、講義の度に書く労力を省くことができるのですものね。私はかつて教授の秘書をしていたことがあるので、多忙な先生方の実情がある程度理解できるのです。あらゆる方法を試した末の、苦肉の策なのかもしれませんしね。どちらが卵か鶏か、ということにもなりましょうが...。
とにかく、さまざまな理由から大学が本来の学びの場を提供できなくなっている悲しい実情が、この投書により浮き彫りにされていると思います。
ちょっと余談ですが......
亡き私の父は、現役時代理工系の学部の教授でした。その父の口癖は、「勉強は手を動かさないとだめだ」でした。何度この言葉を聞いたかわかりません。「塾や予備校で、数式や理論の結論だけ出すことを教わってきた学生はだめだ。結論だけを書けばいいと思っている。結論に至るまでの、結論を導き出す過程が大事なんだ」という言葉も、何度聞いたことか...。
それゆえ、父は大変厳しい態度で授業に臨み、たくさんのレポートを学生に課し、手を動かさせましたが、その分自分も手を動かしました。一つ一つのレポートを実に丹念に添削し、返していたのです。テストの採点も実に丁寧でした。そうした父を傍で見て、ときには成績簿をつけるのを手伝わされていた私には、それがよくわかりました。あまりの実直ぶりに、「これだけの労力を学生にかけてやるだけのことがあるのだろうか?」とさえ、ときには思ったものです。ですから、真面目でやる気のある学生しか、父の講義をとらなかったようです。
でも...去年父が亡くなり、人づてに後でそれを知った元の教え子さんたちが、三々五々実家を訪れてくださり、父の思い出を語り、感謝の言葉を口にし、涙を流してくださいました。もう何十年も前の学生さんたちです。父から学問に対する姿勢を学び取ってくれた学生さんが少なからずいたことを、私は心から嬉しく思いました。それと同時に、今父があの世で、どんな思いで大学の授業風景を眺めているかと思うと、ちょっと悲しくなります。
板書を撮すだけの学生さん......そうせざるを得ない事情はわかりますが、せめて、家に帰って、画像を見ながらでも自分で数式を書き直してみてくださいね。そこから生まれるものが、必ずあると思いますよ。
冗長になりました。最後まで読んでくださったみなさん、ありがとうございました
その授業が大切なら家に帰ってからノートに書き写すでしょう。
慌てて間違うより、先生の話をキチンと聞いた方が良いと思ったのではないでしょうか。
大方の学生は優秀なヤツのノートを試験前にコピーしてノートに貼り付けておしまいです。
それに比べれば手間がかかってるし、自分でデータを集めてるのだから悪くないんじゃないかとも考えられます。
私は大学で興味のある授業以外はパスしたクチですので説得力はまるでありませんが(^_^)v
おっしゃることはかなりの部分で私も同意見です。
ただ、勉強というのは他人のためにするのでなく自分のためにするものです(会社ではそうとも言いきれないところがありますが)。
板書きを写真に撮って家でさらに詳しく検討する人もいれば、ただ写真に撮ってパソコンに溜めているだけの人もいるでしょう(大方は後者でしょうが)。
私も講演などはよくノートに取る方ですが、話の展開が早すぎて必要な情報を取りきれないときには、ボイスレコーダやカメラを持ってくれば良かったなと思うことがあります。
勉強の方法論にはいろいろあってよいと思います。それも各人が工夫すれば良いのではないでしょうか。要は本人が如何に学ぼうという気があるかということではないかと思います。
便利なツールが揃ってきた昨今、勉強する人はより知識が増え、怠けたい人にはよりその手段が増えたということで、個人の能力の二極化が進んでいるように思います。
教師には(たとえ学生にその気がなくても)学生の知識や能力を向上させる義務があるというのであれば話は別です。日本は多少その傾向があるかもしれません。アメリカの学校ではついてくる者だけがついてくればいいというポリシーです。どちらがよいかは文化の違いとしか言いようがないですね。
> 亡き私の父は、現役時代理工系の学部の教授でした。その父の口癖は、「…略…結論を導き出す過程が大事なんだ」という言葉も、何度聞いたことか...。
これはまた別の話で重要なことだと思います。また
>一つ一つのレポートを実に丹念に添削し、返していたのです。
についても、尊敬すべき姿勢だと思います。
私も以前は部下のレポートになにかひとこと必ずコメントを書きいれ、メールも返信するようにしていたのですが、最近は自分の仕事が忙しくなって読むだけ、それも結論だけみるということが増えて反省しております。
相手もよく見ていて、コメントをすると報告も活発になるし、逆になにもしないと活動自身が滞ります。
実は、息子に意見を求めたところ、「撮って何がいけないの? いいんじゃない? テストが楽そうでいーなー」と、まぁ、もっと低レベルでの視点でのことですが、そう申しました。
でも、その後お二方から息子と同じ意見が続いたのには、少し驚きました。
確かに、藤之助さんがおっしゃるように、授業のスピードに追いつけないがために、補助手段として撮影するなら、全否定されるものではないかもしれません。
ただ、「撮っておしまい」になることが多いことが想像されるので、だったら、せめて授業中だけでも手を動かしてほしいなぁと思うのです。
くだんの愚息は、小学校から大学まで、とにかくノートをとらない子でした。書くことに気をとられ、聴くことがおろそかになるから、というのが理由です。で、確かに聴いてはいたみたいで、要所でのテストはできていました。
ですから、それはそれで授業の聴き方なのかもしれないのでよいのですが、彼は漢字が弱点になりました。書いて覚えていないので、短期間の記憶には留まってテストをクリアできても、長期間の記憶に留まらなかったのです。その弱点で、大学入試のときに足元を救われました。
そんなことが身近にあったので、書くことの大切さをおろそかにしないでほしいと、私は願っている次第です。
タイトルを見て、私は考え方に柔軟性がないのかなーと、まずは思いました。
「勉強の方法論にはいろいろあってよい」「各人が工夫すれば良い」というのはごもっともだと思います。前のコメントの繰り返しになりますが、この意味でも、補助手段として撮影し、復習に活用するなら、一方法として「あり」かなとも思うのです。ですが、ほとんどが撮影しっぱなしになるのではないかと...。
それからもう一つ、撮影してしまうと安心してしまい、授業への集中度が低くなるような気がして残念なのです。「聴き逃すまい」「見落とすまい」という緊張感に欠け、集中力は落ちることでしょう。
まぁ、そういう真面目な学生は、元より自分のためになる学習法を持ち、それを貫いているでしょうから、こちらがつべこべ言う必要はないでしょうけれども。
おっしゃるとおり、個人の能力の二極化が進んでいると言えるのかもしれませんね。
最後の部分...:「私も以前は部下のレポートになにかひとこと必ずコメントを書きいれ、(略) 相手もよく見ていて、コメントをすると報告も活発になるし、逆になにもしないと活動自身が滞ります。」
そうなんですよね、意欲、熱意がプラスの循環に入って相乗効果になるのと、マイナスの循環に陥って悪循環になるのとでは大きな違い...
私が大学での教える側と学生側との意欲の関係を、「どちらが卵と鶏か」と形容したのはこのことだったのです。
教える側と学ぶ側の意欲や熱意が、負のスパイラルに陥っている大学が増えているのではないかと、この投書を読んで感じたのでした。これはとても残念なことだと思っています。
これも時代の流れかな~と。
私も古い人間なので、どうしても書くことが優先。書きながら考える、覚える、書かないと覚えられない面も多々あります。
しかし今パソコンやデジカメ、携帯等の目覚しい普及、文明の機器、若い方たちは上手に使われています。到底、付いていけない、わからない私ですが、パソコンが身近になってから、辞書を引くなんてめったになくなって、つい身近なPCで調べて・・・。
時は刻々と変わっていく様に、ものの考え方や、価値観も変わっていくのですね。
学習方法もそうなのかもしれません。
しかし世の中、忙しそうですね。
なぜそんなに忙しくなってしまったのでしょうか。そういう私もばたばたした生活をしていますが・・・・。
そうですか、にりんそうさんも時代の流れ、価値観の変化ととらえられますか...。
皆さんの意見を聞いていて、私もよくわからなくなってきました。
少なくとも言えることは、この問題は、「板書を撮影するのがよいか、悪いか」とか、「ただツールの変化だ」とかいう一面的、表層的な問題ではないような気が私はしております。
繰り返しになりますが、教える側と学ぶ側の意欲や熱意が負のスパイラルに陥っている大学が増えているのではないかと思えてなりません。
「教員がパワポで映し出すレジメを学生がデジカメで写す」というのは、今の大学が抱える根本的な問題の表われとしての一現象にすぎないのではないかと。
こんなこと言い出したら、日本の大学論、ひいては教育論にまで発展してしまいますね。キリがありませんが、とにかく根が深い気がしてならないのです。私が大袈裟なのかなしらん???