(↑ 昨日の朝の雪景色)
一昨日は立春が過ぎてからの降雪でしたが、東京では前回ほど積もったり凍ったりしなくて助かりました。
その積雪のあった朝、母が施設で静かに旅立ちました。
オミクロンが猛威をふるう状況でも、特別な計らいにより、先月末から1日おきに顔を見に行けておりましたが、最期を看取ることはできませんでした。でも、苦しむことなく穏やかに逝ったようです。何より、施設の方々に本当によくしていただき、母も私や妹も倖せでした。今まで関わってくださった5人のケアマネのうち、最後のYさんがベストのケアマネさんでした。
昨秋、「94歳の誕生日を迎えるのはむずかしいかもしれません。誕生会を1ヶ月前倒しで開きましょう」と言われてから4ヶ月…全く食べられなくなってからも9日間ながらえました。本人にとってそれがよかったかどうかはわかりませんが、よくがんばってくれたと思います。戦争を生き抜いた人の生命力はやはり強いですね。
島根県での最初の女医の孫として生まれましたが、2歳のとき、同じく医師だった父親を往診中の馬車の事故で失い、母親と9人の兄姉(きょうだい)の年長者たちに育てられました。戦争で兄と姉一人ずつを失い、広島で入市被爆した体験を私たち子孫に語り継ぎました。父に先立たれてからの8年間は独居でがんばり、晩年は”老いては子に従って”暮らしてくれました。途中で片目が失明しても、ほとんど耳が聞こえなくなっても、歩くことができなくなっても、現実を淡々と受け入れ、愚痴も弱音も吐かずにやり過ごした姿には、畏敬の念と感謝の思いと胸の痛みで一杯になります。
8年(在宅時3年+施設で5年)に及んだ介護期間を振り返ると、節目節目での選択と決断は、母の意向を踏まえながらも長子の私が最終的に下してきたので、「あのときのあの決断はあれでよかったのかな…」と思うことがなくもないですが、その時その時でベストを尽くした結果の積み重ねが現在なので、少しずつ胸の痛みはあるものの、後悔はしないことにしています。1週間後の葬儀、その後の事務処理など、まだしばらくバタバタすると思いますが、一旦は長子の役目に区切りがつき、ほっとしております。
私と同じように(といいますか、私が両親に似たのだと思いますが)母は書くことが大好きで、日記などの書き物を少なからず残しましたが、当面はそれらを見ることができそうもありません。でも、遺品整理の作業を通じ、自分の知らなかった故人の思いや生きざまに触れ、故人と心の中で再会することによって、故人との別れによるさまざまな想いを人は昇華していけるのだろうとも思います。
施設のスタッフさんがパジャマの袖と脇に手を加え、着脱しやすいようにしてくれていました。終末期は浮腫がひどく、全身が内出血しやすい状態だったので、衣服の着脱にもとても神経を使ってくださいました。
【後日追記】(2022.2.16)------------------------------------------------------
母の終の棲家となった施設からいただいたお供え花を載せておきます。
最期まで温かくきめ細やかに朗らかにお世話くださり、心から感謝いたします。本当にありがとうございましたm(__)m
-----------------------------------------------------------------------追記以上
母の状態に合わせ、粗い刻み食→細かい刻み食→ミキサー食→ゼリー……と食事が変わっていきました。くだものが大好きだった母に差し入れようと、刻んで冷凍していたいちご…食すことができないまま逝ってしまいました。
チェストの引き出しからポロッと出てきたイヤリング…私がかつて作ってやった和紙のアクセサリーです。母はとてもおしゃれで衣装持ち、体の自由が利く間は、身だしなみにとても気を使っていました……。
気分転換にときどきブログを更新しようとは思っておりますが、間遠になるかもしれません。でも、そんなわけですのでどうぞご心配なく…。みなさまもコロナに気をつけながら、どうぞお健やかにお過ごしくださいませm(__)m
(2022年2月10&11日 自宅にて撮影)
11日分は、母が最期のときを迎えているとは知らずに撮っていたものです……