ちょっと更新が滞っております。個人的な行事のための準備に追われ、猛暑に早くもバテ気味...オリンピックも目が離せない...。
今頃、国会議事堂の周りは「脱原発国会大包囲」行動に参加する人たちで溢れていることでしょうね。先日の代々木公園での脱原発集会に参加した私は今日も馳せ参じたかったのですが、個人的な事情で諦めました。今週控えるいくつかの行事に備え、体力温存を選びました。
その代わり、と言うのも変ですが、原発問題や最近の抗議行動について私が考えていることを公開しておきます。体はあの場にないけれど、気持ちはあの場にある、という表明として。
とは言え、こういう問題についてネット上で活字として出すことには、それなりの勇気が要ります。現在政府が募集中のパブリックコメントを出すに当たっても、政府の意図についていろいろなことを考え、慎重にならざるを得ませんでした。よく言われているような「アリバイ作り」(「民意をちゃんと聴いたぞ」という既成事実作り)や「国民のガス抜き」(不平不満を吐き出させる)以外にも、複数の意図が見え隠れしているからです。それでも、黙っていては政府の思うツボであるととらえ、言葉を選び、推敲を重ねた上で提出しました。
デモ活動が日々熱気を帯びつつ広がり、提出されるパブコメが増えても、それが政策に反映されなければ大きな意味がありません。デモやパブコメの先にあるもの...それが肝要ですよね。それらを自己満足で終わらせないようにするには、どうしたらよいのでしょう...日々自問自答しています。
そんな私の綴った拙くて冗長な抽象論ですが、読んでくださり、何か感じたり考えたりしてくださったら嬉しいです。
原発問題を技術論や経済論にすり替えて論じられがちな現在の傾向に、大いに疑問を感じています。社会学者や哲学者をも含む倫理委員会の提言が重んじられたドイツのように、なぜ日本でも倫理や哲学の観点で論じられないのでしょうか? いいえ、むしろ、そういう観点を感情論として軽んじる向きがあるように思います。しかも、巨大な利権を守りたい人たちのみならず、一般市民の中にもそういう人たちがいることが、悲しくさえ思えます。命に関わる問題が数値本位で語られ、多数決まがいの考え方が横溢していることに、恐怖を感じるのです。
もちろん、国家の経済的破綻が国家そのものの破綻につながり得ることは、ギリシャなどの国を見れば誰の目にも明らかですし、それが意味することも想像できます。
また、国家間の戦争の歴史は資源エネルギー争奪の歴史でもあるので、原子力政策を含む資源やエネルギー問題が一国の経済問題にとどまらず、国際情勢に密接にからんで外交問題と化し、ひいては、最悪の場合戦争につながる大きなリスクをはらんでいることは容易に想像できます。その意味では、エネルギーの安定供給が可能と謳われている原発は、化石燃料を巡る中東情勢への依存を避けることができ、また、万が一アメリカの核の傘が外れた( or 外した)ときに核兵器への転用が可能というポテンシャルを持つため、脱原発依存が大きな損失ととらえる人たちがいることも理解はできます。
かくして、原発問題が国家の存亡をかけた一大国家戦略であることは間違いないので、とかく経済論が何よりも優先される現状を一応理解はできます。
さらには、アメリカの核の傘下にいながらにして、核兵器と表裏一体である原発を手放すべきという理論が矛盾をはらんでいるということも承知しているつもりです。
でも、国家とは、生命体である国民と、他のあらゆる生命体や食物を安全に健全に育むことのできる国土があってこそ、成り立つものです。人智では制御できない自然の猛威にさらされ、いつまた暴走するやもしれない原発は、何代にも亘って国民と国土の両方、つまり国家そのものを根底から覆す存在であり、現にすでに脅かしつつあるというのに、なぜ倫理観が最上位概念に置かれないのかが私には理解できません。
遠大な時間をかけて安定を得た地球の生態系のバランスを崩すものでしかない原子力は、地球上のあらゆる生命との共存は不可能です。しかも、原発と核兵器が表裏一体であることや、日本が世界で唯一の被爆国であり、さらには第五福竜丸の被曝、東海村とフクシマの原発事故まで経験してしまったことを考えれば、なおさらのことです。核により、すでに多くの命が犠牲になっているのです。倫理観こそ最優先されてしかるべきではないでしょうか? 原発推進派や容認派の人たちは、ヒロシマ・ナガサキの被爆者やフクシマの被災者の魂の叫びを直接聞いてもなお、考えを変えることはないのでしょうか? 理論と感情はあくまでも別物ですか?
原発問題を倫理面で考えることが「感情的だ、幼稚だ、無知な人間のすることだ」と蔑まれ、疎んじられるとすれば、それ自体が妙でありましょう。そもそも、生命体としての人間は、目に見える身体活動と、目には見えないけれど身体をも司る精神活動として成り立っています。さらに、後者のうち、意識的なものはたったの3%、97%が無意識、つまり本能による行動だと聞きました。科学や理屈では説明しがたいその97%の部分で選択する行為やその結果を、3%の部分で侮ること自体が、そもそもおかしな話ではありませんか?
ときには、後者としての本能、直感、霊感、第六感が重大な局面での意思決定に大きな役割を果たし、それが正当な結果を導くことが歴史的にあるにもかかわらず、後者が現行の科学では解明しきれていないという理由だけで軽んじられるのは、実におかしいと思います。いわゆる「胡散臭い」という本能や感覚で行動することが、なぜかくも蔑まれるのでしょうか? 単なる生物的な防衛反応ではありませんか。科学技術論や経済論などの理屈が被爆者や被曝者の心情を、なぜかくも簡単に踏みにじることができるのでしょうか?
何十万年という人類の歴史のほとんどの部分は、生命体としての本能による選択の結果の蓄積であるというのに。芸術作品やそれを生み出す人々の感性には敬意が払われ、実際にそれらには癒されているというのに。ましてや、原発推進派が根拠としてとかく持ち出してくるデータや数値が東電や政府によって隠蔽されたり改ざんされたりと、信頼できないものであることが明らかになるにつれ、信頼できるものは本能や感性でしかないではありませんか。
「原発は胡散臭いから嫌だ」という感覚的理由で反対し、デモでシュプレヒコールを叫ぶことを、もし「衆愚の集団ヒステリー」とでもして蔑み、疎んじるのなら、蔑む側の人々こそ、理屈や数値にばかりとらわれるのではなく、人間の生命体としての本質や地球生態系での成り立ちに立ち返り、想像力を使って命について考え直してほしいです。命と、それを健全に育むことのできる地球環境こそが、すべての前提であるべきことを。そして、被爆者、被曝者、被災者の声を直接見聞してから、理屈を言っていただきたいです。
本能として原発に反発し、次世代の命を必死に守ろうとしている若い母親たちの母性...体を動かし、汗を流して放射能に汚染された現実と向き合っている人たちの強い意志と努力...デモに参加して魂の叫びをぶつけている人たちの情熱......つまり、人間の本能に近いものこそが、日本の国民や国土を守っていく原動力であると私は信じたいです。そして、その原点にあるものは、日本が世界で唯一の「被爆国であり被曝国でもある」という事実と、それに基づいた倫理的、人道的自覚であるべきだと考えます。今、日本人の民主主義が問われていると言われますが、私は日本人の人間としての品位も問われていると思います。
最後に...一見衆愚に見えるかもしれないその集団を蔑んでいる人たちは、次のことに留意しておくべきでしょう。その集団は、画一的で排他的なイデオロギーの下に集まった集団ではなく、多様な価値観を持った老若男女から成る開放的な集団であることを。その集団は、政治に無関心だった自らを反省し、主体的に政治に参加しようという意思を持った集団であることを。その集団は、大手マスコミが報じない隠された事実や海外からの情報を書物やネットから得ることにより、知識として着実に蓄えていると同時に、自らの国や国民を震災以前より客観視できるようになったということを。その集団は、自らが受けた知識偏重の教育やゆとり教育などにより、物言わぬ、物言えぬ国民になってしまっていたことに、気づき始めているということを......。
やっぱり、こんな文章を載せるのは恥ずかしいし、気が引けるなぁ......。でも、ご高覧に深謝いたします。
これにて、しばらく更新をお休みします。みなさま、猛暑の中、くれぐれもご自愛くださいませ。ヒロシマの被爆二世のtakuetsu@管理人でした。
とても良い文章を書いてくださって、ありがとう
私もetuちゃんの意見に大賛成です。
反対も唱えず物言わぬままの、
一見おとなしい、
もしかしたら“自分の考えを持たない”一人
にならないよう、しっかり考え、
発言スべきことは発言していきたいものです。
子どもたちはどんどん成長していき、
次女がアメリカに短期留学した
わずか6週間の間にも、
自分の意見を言えることの大切さを感じ、
日本の若者の多くがほとんど発言できない現実を見てきて、学ぶことと、発信することの重要性をつくづく感じてきたようです。
若い人達がそうなったのは、
私たち大人たちがそういう姿を見せ続けてきたからだと思います。
私はこう思うけど、あなたの考えは?
と言ってこなかったからだと思います。
あの時原発にみんなで反対してやめさせていたら、
こんなことにならなかったのに、
なんて将来の人達が言わないでいいように、
いま、いうべきことは言わなきゃいけないと思います。
今の政治家に責任が取れるわけではない。
将来はもういないんだから。
“国は国民(人間を)を守らない”とは、
第二次世界大戦の経験からすでに十分わかっているはずなのだから、
(沖縄も福島もそうだと思います)
一人ひとりの発言力をしっかりつけないといけないと思います。
時間はかかっても原発依存をやめることは、
ドイツができるんだから、
できないはずがないですよね。
それなのに、返信が遅れてごめんなさいねm(__)m
実は、こんなところで一方的に自分の意見を発信してどうなる?という懐疑的な思いがあったり、被災地に行かずして物申すことにすごく気後れしていた時期があって、震災後作ったこのカテゴリもしばらく頓挫していたのです。
でも、やはりそれではいけないなぁと思い始めていた矢先、原発再稼動で堪忍袋の緒が切れました。
そう、大人が若者の手本とならないとね。また逆の場合もあり...若者の素早い行動に、大人が刺激を受けることも多々あるものね。
いろいろな世代が互いに刺激し合い、民主主義の民としてもっと大人にならないとね。
残暑が厳しいけど、ピーチさんも元気でね。またいらしてください(*^_^*)
日本人は今、誰が個人の人権や自由を守ってくれるのでしょうか。
無言の圧力 対 サイレントマジョリティーでもいいのではないかと思います。少なくとも僕は、無言の圧力は恥ずかしいことと教わってきました。データー書き換えや、偽りの報道は、無言の圧力でしょうが、原発反対を地道に訴えてくださる方々が作ろうとしているサイレントマジョリティーは多くのことを良い方向に変えてくれると思います。
映画プロメティウスはどういうストーリーか、ちょっと気になります。人間の本性がわかるのでしょうか?。
恥ずかしながら、私は『カラマーゾフの兄弟』を読んでいないのですが、そんなことが小説から見えてくるとは…興味深いです。
原発事故をきっかけに少しずつ変わりつつある日本人…政治や社会を変えられる方向だとよいですね。
「プロメティウス」を観たら、感想をぜひ聞かせてくださいね。