「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その36 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その2

2015-08-04 10:06:18 | 【連載】武士道の言葉
「武士道の言葉」第三十六回 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その2(『祖国と青年』27年7月号掲載)

祖国の青年達への願い

遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き乙女達よ、清く美しく健康であれ。
 (グアム島・海軍軍属石田政夫遺書)

 玉砕した戦士達の祖国に対する願いを記したものとして、グアム島で厚生省調査団により発見された日記に綴られた言葉ほど胸を打つ物はないであろう。日記を記していたのは、海軍軍属の石田政夫氏、当時三十七歳である。石田氏は昭和十九年八月八日、グアム島にて戦死した。

 日記には、息子に対する思いが綴られ、更には、自らの生命を捧げる祖国日本の若き男女への祈りが刻まれていた。

「昨夜子供の夢を見ていた。父として匠に何をしてきたか。このまま内地の土をふまぬ日が来ても、何もかも宿命だとあきらめてよいだらうか。おろかな父にも悲しい宿命があり、お前にも悲しい運命があつたのだ。強く生きてほしい。そして、私の正反対な性格の人間になつて呉れる様に切に祈る。

三月○日
内地の様子が知りたい。聞きたい。毎日、情勢の急迫を申し渡されるばかり。自分達はすでに死を覚悟してきている。万策つきれば、いさぎよく死なう。
本月の○日頃が、また危険との事である。若し玉砕してその事によつて祖国の人達が少しでも生を楽しむことが出来れば、 母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。

遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き乙女達よ、清く美しく健康であれ。」

 翻って今日の若人の姿を思い浮かべる時、彼らが生命を捧げて守らんとした祖国日本の青年達は祈りに応えているだろうか。「強さ」「逞しさ」「朗らかさ」や「清らかさ」「美しさ」は民族の誇りの自覚の上に培われる。自虐・反日を青少年の心の中に瀰漫させた戦後教育、その根源に位置する敗戦丸出し憲法の解体なくして日本人の精神の再建は展望されない。





平常心

敵の空襲も最近多少増加仕り候えども大した事なく候 (中川州男陸軍大佐・妻宛最後の書簡)

 終戦七十年に当り、天皇皇后両陛下はパラオに行幸され、ペリリュー島を慰霊巡拝された。本当に有り難い事である。ペリリュー島の戦いは、大東亜戦史に残る激戦だった。南北9キロ東西3キロ 20平方キロメートルしかない島を昭和19年9月15日の米軍侵攻から11月27日まで何と、73日間も守り抜いたのだ。守備隊長は中川州男陸軍大佐である。

中川大佐は、熊本県玉名市の出身であり、旧制玉名中学校(現・玉名高校)から陸軍士官学校に進学している。その玉名中の同窓生達(その中の一人が日本会議熊本の花吉副会長)が、中川大佐の顕彰を行なうべき事を話し合い、平成二十二年七月三十一日に熊本日日新聞社から『愛の手紙 ペリリュー島玉砕中川州男大佐の生涯』が出版された。執筆は升本喜年氏が担当された。中川大佐は筆まめな人で、光江夫人宛に近況を知らせる手紙を幾通も出され、それを夫人が保存されており、それらがこの本の中で紹介されている。

その手紙(私信)の最期となったものが、昭和十九年七月三十一日にペリリュー島から出されたものである。全文を引用する。

「拝復 六月二十二日付手紙落手仕り候

無事熊本の緒方様宅で御暮らしの由 何よりと存じ候 当方その後元気にて第一線勤務に従事 将兵一同愉快に不自由なく暮らし居り候故 御放念被下度候 敵の空襲も最近多少増加仕り候えども大した事なく候 

近々状況も切迫致し候 手紙も船の運航のため余りつかないようになるとも 決して御心配なく御暮し願上げ候 丁度 東京行きの幸便有之候故 御たのみ致し候 各位にもその後失礼致し候。よろしく御伝え願い上げ候 

高瀬も緒方様も道之様にも御元気の事と存じ候 よろしく御願い上げ候 先ずは要用のみ取り急ぎ早々 祈御健康

七月三十一日       中川州男

 光枝殿             」

 中川夫妻には子供が無かった。感情を抑制しつつも、妻を心配させまいとする大佐の心遣いが窺われる手紙である。実は、この時期、連日の様に米軍機による空爆が繰り返され、その合間を縫って島内の縦深陣地構築に全力を投入し、大佐はその先頭に立たれていたのである。それでも「大した事なく候」と記される如く、平常心そのままであった。





一人十殺

我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ(硫黄島守備隊「敢闘ノ誓」)

 かつて私が大学生の研鑚合宿を企画運営していた頃、夏になると、自らも学徒兵として満ソ国境で戦った体験を持たれるノンフィクション作家の南雅也先生をお招きしていた。ある年、南先生は参加者に一枚の紙を配られた。先生の義兄で硫黄島協会事務局長が、遺骨収集時に御遺骨の横で発見したガリ版刷りのコピー、それが「敢闘ノ誓」だった。

 硫黄島もペリリュー島と同様、南北8、3キロ・東西4、5キロ~0、8キロ、22平方キロメートルしかない島である。昭和20年2月19日~3月26日まで36日の激戦が繰り返され、日本軍の戦死者は2万を超え、戦死・戦傷者総数は2万1152人、一方攻撃を仕掛けた米軍も戦死・戦傷者を合わせると2万8686人となり、米軍の損害の方が日本軍を上回ったのだ。この「激戦」の事実こそが、後に米軍をして本土決戦を躊躇させる大きな力となったのである。

 その硫黄島将兵の魂の凝縮ともいえる言葉が「敢闘ノ誓」の中に刻まれている。勿論、それを考案したのは、硫黄島守備兵団の総司令官である小笠原兵団長・栗林忠道中将である。そして、この敢闘ノ誓が硫黄島守備隊将兵の「魂」となって実践されたのだった。

「一、我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン 

 一、我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン 

 一、我等ハ挺身敵中二斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン 

 一、我等ハ一発必中ノ射撃二依ツテ敵ヲ打扑サン

 一、我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ 

 一、我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」二依ツテ敵ヲ悩サン」

 米国側が書いた硫黄島戦記には、日本兵の射撃の見事さが米軍を恐怖に陥れた様が記されてる。硫黄島の地下に張り巡らされた坑道を利用して、日本兵はあたかも忍者の様に神出鬼没して米兵を一発で斃したと言う。

この誓の中の「我等ハ各自敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」の決意は私には良く解る。かつて私が学生運動に起ち上がった頃の大学では、左翼暴力集団が鉄パイプを振るって思想信条の違う者を排除するという「暴力」が横行していた。その中で天皇の御製や大御心を語り、大東亜戦争の意義を発言するには覚悟が必要だった。もし自らが殺される時には敵を二人以上は必ず斃してしか死ねない(祖国日本を少しでも良くする)との決意を抱いて学園に立っていたのである。
 





武士道に降伏なし

御奨めによる降伏の儀は日本武士道の慣として応ずることはできません。 (浅田眞二陸軍中尉・米軍司令官宛遺書)

 硫黄島の組織的な戦闘は、三月二十六日に終了したが、その後も「敢闘ノ誓」の如く、ゲリラ戦が展開されていた。戦闘に於ける日本軍捕虜は極めて少数で、その殆どは重傷を負って意識不明の状態で収容された者達であった。日本人の戦死率は約96%に達している。米軍は火焔放射器で攻撃したり、坑道入口をコンクリートで固めて生き埋めにするなどして残存日本軍ゲリラを追いつめて行った。それでも、終戦後まで地下洞窟に立て籠もって戦い抜いた強者も居た。

 五月中旬になって摺鉢山地下壕入口の木に挿まれていた手紙が米軍に発見された。それは、混成第二旅団工兵隊第二中隊小隊長 浅田眞二中尉が米軍司令官スプルアンス提督に宛てた手紙だった。浅田中尉は摺鉢山地区隊で戦闘中に米軍戦車の射撃を受けて重傷を負い、地下壕にとり残されて生き長らえていたのだった。だが、最期の時を迎え、日本人の意気を敵将に示して従容として散って行ったのだった。浅田中尉は東京帝国大学出身の出陣学徒将校だった。

「閣下のわたし等に対する御親切なる御厚意誠に感謝感激に堪へません。閣下よりいただきました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。

 御奨めによる降伏の儀は日本武士道の慣として応ずることはできません。もはや水もなく食もなければ十三日午前四時を期して全員自決して天国に参ります。

 終りに貴軍の武運長久を祈りて筆を止めます。

昭和二十年五月十三日

                                                       日本陸軍中尉  浅田 眞二
米軍司令官 スプルアンス大将殿  」

 硫黄島守備兵団の栗林中将は文才豊かな将軍だった。陸軍省兵務局馬政課長時代には「愛馬進軍歌」を生み出し、硫黄島では、先述の「敢闘ノ誓」「日本精神五誓(硫黄島部隊誓訓)」を記して将兵の精神を一つにしている。その意味では、硫黄島の激戦は「言葉」が血肉化し「魂」となって、敵を圧倒したと言えよう。そして浅田中尉も、ユーモア溢れかつ決然たる「言葉」を残して天国に旅立った。彼らは、祖国日本を守り抜く為に、死地にあって自らの生命を燃やし尽くした。

戦後日本は、占領軍によって支配された言語空間の中で、祖国を守る決意の言葉を喪失せしめられ、未だにそれから脱却し得ていない。安保法制の正常化・適正化、更には憲法改正によって日本人の言葉に生命力を甦らせねばならない。

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