「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その37 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その3

2015-08-14 09:56:53 | 【連載】武士道の言葉
「武士道の言葉」第三十七回 大東亜戦争・祖国の盾「玉砕」その3(『祖国と青年』27年8月号掲載)

硫黄島の壕内から米国大統領を叱責
外形的ニハ退嬰ノ已ムナキニ至レルモ精神的ニハ弥豊富ニシテ心地益明朗ヲ覚エ歓喜ヲ禁ズル能ハザルモノアリ。 (市丸利之助海軍少将「ルーズベルトニ与フル書」)

 硫黄島守備隊・海軍指揮官の市丸利之助少将は激戦の最中に壕内で米国大統領宛の手紙を記し、英文に直したものを米側に届けんとした。幸い、米兵の見つける所となり司令部に届けられて、米国側を非常に驚かせた。内容が理路整然として、米側の反省を求めるものであり、米軍は報道管制を敷いて、暫くは報道させなかったが、後に「米国大統領叱責される」とマスコミで紹介された。

 この手紙は、「日本海軍市丸海軍少将書ヲ『フランクリン ルーズベルト』君ニ致ス。我今我ガ戦ヒヲ終ルニ当リ一言貴下ニ告グル所アラントス」から始まり、
大東亜戦争に至る経過を述べ、米国が日本を好戦国と称するのは「思ハザルノ甚キモノト言ハザルベカラズ」と断じて、日本天皇の平和を希求される御心を示し、日本の戦争目的は平和の希求であり、今外形的には劣勢であっても日本人の信念は微動だにしない事を述べている。

その理由として、白人のアジア侵略の経緯を記し、それに抗してわが国が東洋民族の解放を志して来た事を米国が悪意を持って妨害し日本を追い込んで来た経過を述べ、「卿等何スレゾ斯クノ如ク貪欲ニシテ且ツ狭量ナル。」と糾弾して反省を求め、大東亜共栄圏が世界平和と共存できる事を訴えた。更には欧州情勢に触れ、ヒットラーを倒した後、スターリンのソ連と共存できるのかと疑問を投げかけ、日本を叩き潰し世界制覇を成し遂げんとしているが、かつてウイルソン大統領が得意の絶頂に失脚した事を挙げ、「其ノ轍ヲ踏ム勿レ」と警鐘を鳴らして終わっている。

 史実に立脚した堂々たる文章である。それが、硫黄島の激戦下、地下壕の中で草された事に深い感動を覚える。正に大東亜戦争の大義であり、大義に対する市丸少将の確固不動の確信が伺われる。

武士道にとって最も大事なのは「大義」に他ならない。それを言葉に刻み永遠に残した市丸少将に心から感謝したい。





物資弾薬窮乏の中、来援機の安全を心配した仁将
わが飛行機が勇敢なる低空飛行を実施し、これがため敵火を被るは守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところ、あまり、ご無理なきようお願いす。 (拉孟守備隊長金光恵次郎少佐打電)

 玉砕の戦場は、太平洋の島々だけでは無かった。ビルマ(ミャンマー)と支那との国境地帯にある拉孟・騰越の守備隊は、少数の兵力で守備地域=砦を死守すべく激烈に戦い抜いて玉砕している。

拉孟守備隊は1280人、それに対して押し寄せる中国の雲南遠征軍は4万8500人。拉孟守備隊の隊長は野砲兵第56連隊第3大隊長の金光恵次郎砲兵少佐だった。戦闘が行われたのは昭和19年の5月から9月である。当時インパール作戦が展開されており、その進撃ルートの北、要衝の地に拉孟・騰越は位置していた。拉孟・騰越の敗北は、インパール作戦の退路遮断を意味していた。

 拉孟北方での戦闘が開始されたのが5月11日、拉孟に対する雲南軍の第一次総攻撃は6月2日~7日、雲南軍7千を壊滅し、師長を戦死させた。更に6月14日から21日の戦いでも、甚大な被害を与えた。雲南軍は最精鋭の栄誉第1師(兵力8千・山砲6門・迫撃砲64門)を投入して包囲する。

友軍機による弾薬補給に対し、守備隊は「今日も空投を感謝す、手榴弾約百発、小銃弾約2千発受領す、将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり」と打電している。7月4日~14日に雲南軍第二次攻撃、ロケット砲を始めとする新兵器も使って猛攻撃をかけるが陣地の一箇所も抜けず、損害は第一次にも増した。守備隊は、「今までの戦死二百五十名、負傷四百五十名、但し、うち休息百名を含む。片手、片足、片眼の将兵は皆第一線にありて戦闘中、士気きわめて旺盛につき御安心を乞う」状態だった。

7月20日より雲南軍第3次攻撃。7月下旬には、守備隊は重軽傷者も含め三百数十名となる。8月12日、拉孟守備隊に対し、制空権を奪われながらも弾薬補給を行わんと友軍の飛行隊が危険を冒して来援した。

その時、金光守備隊長は司令部宛に「わが飛行機が勇敢なる低空飛行を実施し、これがため敵火を被るは守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところ、あまり、ご無理なきようお願いす。」と打電した。守備隊にとって弾薬はのどから手が出るほど欲しいものである。しかし、自分達の為に友軍機を危険に晒してはならないとの「仁愛」の情が金光隊長をして打電させたのだ。

8月23日の打電には「其の守兵片手片足の者大部」とある。それでも守備隊は9月7日まで戦い抜き持ちこたえた。







窮地にあっても他者に迷惑をかけず
ワガ守備隊ヲ救援ノタメ、師団及ビ軍ガ無理ナ作戦ヲセラレナイヨウ特ニオ願イス(騰越守備隊太田正人大尉訣別電報)

 騰越の守備隊は、2025人(隊長 蔵重康美大佐)、押し寄せる中国雲南軍は6個軍17個師団からなる7万2000人であり、実に36倍の敵だった。

19年6月27日に雲南軍は総攻撃を開始する。8月13日には、敵爆撃機の爆弾が司令部壕を直撃し、蔵重連隊長以下32人が戦死した為太田正人大尉が指揮をとった。

8月14日、雲南軍第二次総攻撃。太田大尉は敵の二個師団を相手に孤軍奮闘、更には「全員志気旺盛ナルニツキゴ安心アリタシ、ワガ守備隊ヲ救援ノタメ、師団及ビ軍ガ無理ナ作戦ヲセラレナイヨウ特ニオ願イス」と打電している。自らに与えられた任務を精一杯果たし、他に迷惑を及ぼさないという高潔なる責任感が横溢していた。

8月19日、雲南軍第三次総攻撃。それでも持ちこたえた。だが、守備隊には五体満足な者は少なく、負傷者も含めても六百名程度まで減少していた。

9月5日、雲南軍第四次総攻撃、そして、12日太田大尉は「現状よりするに、一週間以内の持久は困難なるを以て、兵団の状況に依りては、13日、連隊長の命日を期し、最後の突撃を敢行し、怒江作戦以来の鬱憤を晴らし、武人の最後を飾らんとす。敵砲火の絶対火制下にありて、敵の傍若無人を甘受するに忍びず、将兵の心情を、諒とせられたし」と訣別電報を発し、翌日騰越守備隊は玉砕した。

 雲南地方の日本軍を完全制圧した後、支那軍の蒋介石総統は第二十集団軍司令官霍中将に対し次の特別訓示を行った。

「戦局の全般は、わが軍に有利に展開し、勝利の曙光ありといえども、その前途いまだに遠く、多事多難なるものあり。今次日本軍の湖南省における攻撃作戦及び北ビルマ、怒江方面に対するわが軍の攻勢作戦の戦績をみるに、わが中国軍にしてきわめて遺憾にたえざるものあり。わが軍将校以下は、日本軍拉孟守備隊、あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘、最後の一兵にいたるまで、命令を全うしある現状を範とすべし」

 又、拉孟の戦闘終結後、雲南軍司令官李密少将は「私は軍人として、この得がたい相手と戦い得たということを誇りにも思い、武人として幸せであったと思う。」「かれらは精魂をつくして戦った。美しい魂だけで、ここを百二十余日も支えた。」と述べ、戦った日本人たちを丁重に葬ることを指揮下の将兵に命じた。


  




子孫に残した「清節」の生き様
我家において、皆に残し得る財産があるとしたら唯一、「清節を持す」ということだけであろう。(第十八軍司令官安達二十三中将子供宛遺書)

 玉砕戦を行うには至らなかったが、ニューギニア戦線の日本軍将兵も大変な辛酸を体験し、十四万人居た将兵の中で、二年九ヵ月の激戦を経て、祖国に戻る事が出来たのは一万人足らずだった。ニューギニアは日本の二倍の面積がある。補給が途絶する中飢えと疫病に苦しまされつつも能く士気を維持し戦闘を持続し得たのは、第十八軍司令官の安達二十三中将の人格と指揮に由来する。

 作戦の為、ジャングルの中を4500メートル級の山脈を越えて転進して来た将兵を安達中将は涙を流しながら自ら手を取って迎えたという。

安達中将の統率は、①純正鞏固な統率 ②鉄石の団結 ③至厳の軍紀 ④旺盛な攻撃精神 ⑤実情に即応する施策、という特徴があったと当時の参謀が述べている。

安達中将は現場の実情を重視し、直に将兵と触れ合っていた。部下が飢えや病気で次々と亡くなっていく姿は将軍の胸を痛め、いつしか将軍は「当時私は陣没するに到らず、縦令凱旋に直面するも必ず十万の将兵と共に南海の土となり、再び祖国の土を踏まざることに心を決した」(第十八軍将兵(光部隊残留)宛の遺書)のだった。

 終戦後、安達中将は戦犯としてラバウル裁判所に送られた。安達中将は総て自分の責任であると、起訴された部下の助命に尽力する。刑は無期禁錮となるが、昭和二十二年九月十日、ナイフで割腹して自決した。遺書には、「唯々純一無雑に陣歿、殉国、竝に光部隊残留部下将兵に対する信と愛に殉ぜんとするに外ならず」とその理由を記している。

子供達(一男二女)に当てた遺書には「今後は何時でも自ら職場に立って生き、自ら自分の進路を開拓して行く覚悟と腹をきめねばならぬ。(略)この腹さえしっかり定まれば、今後起る困難に際しても、動揺しなくなる。」「天は自ら助くる者を助く」「困難に対して受身にならず、進んでそれを打開することと、三人が互に励まし、互に慰め合って行くこと」「日本の国民として恥づかしからぬ人となること」を述べ、自らは、軍人としての節義の一点を守って来た事。「我家において、皆に残し得る財産があるとしたら唯一、『清節を持す』ということだけであろう。」と書き残している。

清節を貫き、部下に対する信と愛を貫いて現地に骨を埋めた高潔なる将軍が居た事を、私達は決して忘れてはならない。

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