「道の学問・心の学問」第四十三回(令和3年3月19日)
貝原益軒に学ぶ③
「山水風月の閑淡、芳草嘉木の生意、是れ君子の愛し観る所なり。之に対すればすなはちその心境を開豁(かいかつ)にし、その情性を清和にし、以て道心を感興し鄙吝(ひりん)を蕩尽(とうじん)すべし。」 (『慎思録』巻第四)
今年の冬の寒さは厳しかったせいで、春が早く訪れ、三月中旬というのに桜が開花している。我が家には真っ白な千原桜が、熊本城周辺にはソメイヨシノが開花して目を和ませ、心を浄化してくれる。古来日本人は、四季の変化が醸し出す独特の自然美に自らの心を溶け込ませて、詩歌を詠じ精神を養って来た。
益軒も自然の美を感じながら逍遥する事の大切さを記している。
「山と川のある自然の景色や、清らかな風と美しい月の眺めは、人の心を落ち着かせ淡白にする。芳しい草々や美しい樹々が醸し出すいきいきとした生気は、君子の愛する所である。それらに対すれば自ずと心が広くなり、情感を清らかに和らいだ気持ちにしてくれ、道(真実)を求める心を感じ興して、卑しい心が無くなってしまう程である。更には、この事により、天機(造化の妙)に触れる契機を得る事が出来る。それ故、学問の探求に於て余力があれば、自然の中を逍遥し遊観すべきである。」
更にその際の注意について、益軒は次の様に教えている。
「山水に遊観する時、良い友達があれば一緒に遊ぶ事は構わない。もし良い友達が居なければ一人で遊ぶのが良い。俗人(名利にこだわり風流を解しない人)と共に遊べば、素晴らしい佳境が妨げられて、台無しにされてしまう事がある。それ故、強いて同伴者を求める必要は無い。一人で遊ぶ事を無聊(退屈な事)と感じないのであれば、強いて友を求めずとも十分である。古人は「秋月は俗士とともに賞すべからず」と述べている。この言葉も又良い。世間に知り合いは沢山いるが、風雅を愛する士、山水閑淡を楽しむ事が出来る者は極めて少ない。更には、道義を楽しむ士はもっと少ない。風流を吟じ、名月を弄ぶ楽しみを知らない者は、俗流に流されている。しかし、風月の楽しみを嗜んでも道義を好まない者は、最も俗な者に他ならない。」
益軒は、自然の美に浸る事が自らの道義心をも高める事となると確信している。それは、天機(造化の妙)に触れる事になるからである。「遊び」即「学問」なのである。それ故にこそ、同道する人物を選ぶべきであり、「俗士」を伴えば折角の「遊」が台無しになると注意を喚起するのである。道を求めるには、同行の友が必要となる。共に心境を開拓して道義を求めんとする者こそ、麗花名月を共に鑑賞するに足る友だと言えよう。その様な心友が居なければ、一人でゆったりと春の自然の美を観賞して「正気」を養おうではないか。
貝原益軒に学ぶ③
「山水風月の閑淡、芳草嘉木の生意、是れ君子の愛し観る所なり。之に対すればすなはちその心境を開豁(かいかつ)にし、その情性を清和にし、以て道心を感興し鄙吝(ひりん)を蕩尽(とうじん)すべし。」 (『慎思録』巻第四)
今年の冬の寒さは厳しかったせいで、春が早く訪れ、三月中旬というのに桜が開花している。我が家には真っ白な千原桜が、熊本城周辺にはソメイヨシノが開花して目を和ませ、心を浄化してくれる。古来日本人は、四季の変化が醸し出す独特の自然美に自らの心を溶け込ませて、詩歌を詠じ精神を養って来た。
益軒も自然の美を感じながら逍遥する事の大切さを記している。
「山と川のある自然の景色や、清らかな風と美しい月の眺めは、人の心を落ち着かせ淡白にする。芳しい草々や美しい樹々が醸し出すいきいきとした生気は、君子の愛する所である。それらに対すれば自ずと心が広くなり、情感を清らかに和らいだ気持ちにしてくれ、道(真実)を求める心を感じ興して、卑しい心が無くなってしまう程である。更には、この事により、天機(造化の妙)に触れる契機を得る事が出来る。それ故、学問の探求に於て余力があれば、自然の中を逍遥し遊観すべきである。」
更にその際の注意について、益軒は次の様に教えている。
「山水に遊観する時、良い友達があれば一緒に遊ぶ事は構わない。もし良い友達が居なければ一人で遊ぶのが良い。俗人(名利にこだわり風流を解しない人)と共に遊べば、素晴らしい佳境が妨げられて、台無しにされてしまう事がある。それ故、強いて同伴者を求める必要は無い。一人で遊ぶ事を無聊(退屈な事)と感じないのであれば、強いて友を求めずとも十分である。古人は「秋月は俗士とともに賞すべからず」と述べている。この言葉も又良い。世間に知り合いは沢山いるが、風雅を愛する士、山水閑淡を楽しむ事が出来る者は極めて少ない。更には、道義を楽しむ士はもっと少ない。風流を吟じ、名月を弄ぶ楽しみを知らない者は、俗流に流されている。しかし、風月の楽しみを嗜んでも道義を好まない者は、最も俗な者に他ならない。」
益軒は、自然の美に浸る事が自らの道義心をも高める事となると確信している。それは、天機(造化の妙)に触れる事になるからである。「遊び」即「学問」なのである。それ故にこそ、同道する人物を選ぶべきであり、「俗士」を伴えば折角の「遊」が台無しになると注意を喚起するのである。道を求めるには、同行の友が必要となる。共に心境を開拓して道義を求めんとする者こそ、麗花名月を共に鑑賞するに足る友だと言えよう。その様な心友が居なければ、一人でゆったりと春の自然の美を観賞して「正気」を養おうではないか。
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