「日本の誇り」復活―その戦ひと精神(三十一)『祖国と青年』20年4月号掲載
四〇回を迎えた全九州学生ゼミナール
日本の命脈が生み出した輝く大学生達
三月十二日から十六日にかけて福岡県立社会教育総合センターに於て第40回全九州学生ゼミナールが開催された。私も、三日目午前の講義を担当した。
全九州学生ゼミナールは、昭和四十年代の学園紛争が荒れ狂ふ中で、長崎大学の自治会正常化を発端に、全国で民族派・良識派の学生が決起して学園正常化運動が広がつた事に端を発してゐる。共産主義イデオロギーに洗脳された全学連学生との熾烈なる言論戦は、戦ひの理論と思想哲学の深化を要求した。かくて昭和44年3月に九州の大学生が集まつて「学生の学生による学生の為のゼミナール」を生み出し、「自らの大学で如何に行動すべきか」を学び合つた事が始まりだつた。
その第一回全九州学生ゼミナール実行委員長が現在の日本協議会会長・日本会議事務総長の椛島有三氏である。爾来40年この思想営為が大学生の手によつて確実に受け継がれて来てゐる。その流れの中で私も、第十回全九ゼミ実行委員長を務めさせて戴いた。又、卒業後も、日本青年協議会の学生局や研修局、更には日本協議会理事長として講義を担当し、次代の大学生に「祖国の生命に繋がる高き志」を伝へるべく努力して来た。
今回のゼミは、学生諸君の大変な努力で、久々に参加者が百名を突破し、103名が参加した。私が実行委員長を拝命した10回ゼミは117名で、12回ゼミでは120名を突破したが、17回ゼミを最後に、南九州の組織が崩壊した結果、百名を割り込み続けてゐた。最悪は平成元年の第21回ゼミで、20名近くまで参加者が落ち込んだ。今回の百名突破は、実に23年ぶりの快挙である。又、宮崎大学を始め、サークル拠点の復活と広がりも生まれ、実に嬉しい事であつた。
王陽明の語録『伝習録』上巻に「学問」を喩(たと)えて、「其の数(すう)頃(けい)の源(みなもと)無きの塘(とう)水(すい)と為(な)らんよりは、数尺(すうせき)の源有るの井(せい)水(すい)の生(せい)意(い)窮(きわま)らざるものと為(な)らんには若(し)かず(数町歩の水源のない池水となるよりも、広さは数尺に過ぎないが、水脈があつて、生命の尽きない井戸水となる方がましである)」との言葉がある。全九州学生ゼミナールが40年に亙つて連綿と続いて来た事は、ゼミの命脈が渾々(こんこん)と湧き出して来てゐる事を意味してゐる。それこそ「日本の歴史・伝統・文化」に根ざした「国の生命の流れ」だと思ふ。
第1回全九州学生ゼミナールが生み出された40年前(昭和44年)に、大学を覆つてゐたものは、共産主義イデオロギーに洗脳された左翼全学連の反国家思想であつた。彼等は全国の大学を覆ひ尽くすかの如き勢ひであり、「全学連に非ずば学生に非ず」の巨大なる池水であつた。その中で吾々の先輩達は「全学連ばかりが学生ではない。大学で日本人としての生き方を確立しやう」と立ち上がられたのである。
第10回ゼミ(昭和53年)当時は、大学には反天皇イデオロギーが蔓延(まんえん)し、大学で天皇を語る事には大変な勇気が必要だつた。だが、昭和天皇の終戦の御聖断や君民一体の御製を拝誦しつつ、反天皇勢力と戦ひ抜いて行つた。
第20回ゼミ(昭和63年)の翌年には昭和天皇が崩御され、時代は平成へと移つた。ベルリンの壁の崩壊・ソ連邦解体による共産主義の敗北は、学生の中にも反国家イデオロギーの呪縛から解放され現実を見る眼を生み出して行つた。だが、戦後イデオロギーの巣窟である大学の変化は緩慢だつた。未だ反国家イデオロギーに呪縛されてゐる学生が吾々のサークルに入会し、私が責任者を務めてゐた富士河口湖研修所での研鑽合宿にも参加した。国旗や国歌に違和感・嫌悪感を感じてゐた学生が、合宿で苦しんだ末劇的に変はり、終了時に涙を流して君が代を歌つてゐた姿が忘れられない。大学での左翼勢力との思想対決が激減した為、学生達は、「日本」を体験すべく、海外遊学や歴史探訪、そして日本教育実践の場たる「臨海学校」を生み出して行つた。
第30回ゼミの時代(平成10年)になると、日本会議の日本正常化の息吹も追い風となり、大学に対して吾々からの積極的な提起が行はれるやうになり、臨海学校・拉致問題・教育問題・靖国神社の事など、様々な講演会が開催されて来た。
先程の王陽明の言葉を借りれば、戦後大学を覆つた共産主義イデオロギーは、日本の敗戦とアメリカ軍による占領政策といふ「大雨」で溜まつた大量の「池水」だつた訳で、時代の変遷と共に水量が激減し、今や淀んで腐臭を放ち枯れ果てんとしてゐるのだ。一方吾々の学生運動は、大学毎の掘られた井戸は小さかつたが、日本の歴史の命脈から滾々(こんこん)と湧き出した泉は徐々に大きくなり、今や各地で湧出せんとしてゐるのである。
私は今回の全九ゼミの講義で、九州の大学や専門学校から出陣して行つた学徒の遺書について話をした。特攻隊で亡くなつた士官の内、学徒出身者は実に陸軍で70%、海軍で85%に達してゐる。海軍の神風特別攻撃隊員の海軍士官戦歿者全769名中、予備学生・生徒出身者は653名(大尉2、中尉213、少尉412、少尉候補生24、不明2)に達してゐる。彼等は国家の危難に際し、勇躍として、「ペンを剣(つるぎ)に代えて」(この題名の「特攻学徒兵海軍少尉大石正則日記」が昨年8月に西日本新聞社から出版されてゐる)戦地に赴いたのである。
当時高等教育(大学・高等学校・高等専門学校)を受けてゐた学生は同世代若者の3%に過ぎなかつた。それ故彼等は、学問に対する強い自覚を抱いてゐた。出陣して行つた学徒達の大学に対する強い思ひを受け継いで、大学から日本再建の運動を起こして行くとの決意を学生諸君に受け継いで貰いたかつたのである。参加した大学生は学徒の遺書を拝読し、祖国と家族に対する思ひの深さに涙し、そして、ゼミ4日目夜の全体会議では次々と立ち上がつて、大学での戦ひを決意してくれた。
日本人の血が受け継がれる限り、青年達は必ず祖国日本の生命に目覚める時が来る。40年に亙る全九ゼミ継続の営みと、継続の為に支援して下さつた総ての方々に心から感謝申し上げたい。
四〇回を迎えた全九州学生ゼミナール
日本の命脈が生み出した輝く大学生達
三月十二日から十六日にかけて福岡県立社会教育総合センターに於て第40回全九州学生ゼミナールが開催された。私も、三日目午前の講義を担当した。
全九州学生ゼミナールは、昭和四十年代の学園紛争が荒れ狂ふ中で、長崎大学の自治会正常化を発端に、全国で民族派・良識派の学生が決起して学園正常化運動が広がつた事に端を発してゐる。共産主義イデオロギーに洗脳された全学連学生との熾烈なる言論戦は、戦ひの理論と思想哲学の深化を要求した。かくて昭和44年3月に九州の大学生が集まつて「学生の学生による学生の為のゼミナール」を生み出し、「自らの大学で如何に行動すべきか」を学び合つた事が始まりだつた。
その第一回全九州学生ゼミナール実行委員長が現在の日本協議会会長・日本会議事務総長の椛島有三氏である。爾来40年この思想営為が大学生の手によつて確実に受け継がれて来てゐる。その流れの中で私も、第十回全九ゼミ実行委員長を務めさせて戴いた。又、卒業後も、日本青年協議会の学生局や研修局、更には日本協議会理事長として講義を担当し、次代の大学生に「祖国の生命に繋がる高き志」を伝へるべく努力して来た。
今回のゼミは、学生諸君の大変な努力で、久々に参加者が百名を突破し、103名が参加した。私が実行委員長を拝命した10回ゼミは117名で、12回ゼミでは120名を突破したが、17回ゼミを最後に、南九州の組織が崩壊した結果、百名を割り込み続けてゐた。最悪は平成元年の第21回ゼミで、20名近くまで参加者が落ち込んだ。今回の百名突破は、実に23年ぶりの快挙である。又、宮崎大学を始め、サークル拠点の復活と広がりも生まれ、実に嬉しい事であつた。
王陽明の語録『伝習録』上巻に「学問」を喩(たと)えて、「其の数(すう)頃(けい)の源(みなもと)無きの塘(とう)水(すい)と為(な)らんよりは、数尺(すうせき)の源有るの井(せい)水(すい)の生(せい)意(い)窮(きわま)らざるものと為(な)らんには若(し)かず(数町歩の水源のない池水となるよりも、広さは数尺に過ぎないが、水脈があつて、生命の尽きない井戸水となる方がましである)」との言葉がある。全九州学生ゼミナールが40年に亙つて連綿と続いて来た事は、ゼミの命脈が渾々(こんこん)と湧き出して来てゐる事を意味してゐる。それこそ「日本の歴史・伝統・文化」に根ざした「国の生命の流れ」だと思ふ。
第1回全九州学生ゼミナールが生み出された40年前(昭和44年)に、大学を覆つてゐたものは、共産主義イデオロギーに洗脳された左翼全学連の反国家思想であつた。彼等は全国の大学を覆ひ尽くすかの如き勢ひであり、「全学連に非ずば学生に非ず」の巨大なる池水であつた。その中で吾々の先輩達は「全学連ばかりが学生ではない。大学で日本人としての生き方を確立しやう」と立ち上がられたのである。
第10回ゼミ(昭和53年)当時は、大学には反天皇イデオロギーが蔓延(まんえん)し、大学で天皇を語る事には大変な勇気が必要だつた。だが、昭和天皇の終戦の御聖断や君民一体の御製を拝誦しつつ、反天皇勢力と戦ひ抜いて行つた。
第20回ゼミ(昭和63年)の翌年には昭和天皇が崩御され、時代は平成へと移つた。ベルリンの壁の崩壊・ソ連邦解体による共産主義の敗北は、学生の中にも反国家イデオロギーの呪縛から解放され現実を見る眼を生み出して行つた。だが、戦後イデオロギーの巣窟である大学の変化は緩慢だつた。未だ反国家イデオロギーに呪縛されてゐる学生が吾々のサークルに入会し、私が責任者を務めてゐた富士河口湖研修所での研鑽合宿にも参加した。国旗や国歌に違和感・嫌悪感を感じてゐた学生が、合宿で苦しんだ末劇的に変はり、終了時に涙を流して君が代を歌つてゐた姿が忘れられない。大学での左翼勢力との思想対決が激減した為、学生達は、「日本」を体験すべく、海外遊学や歴史探訪、そして日本教育実践の場たる「臨海学校」を生み出して行つた。
第30回ゼミの時代(平成10年)になると、日本会議の日本正常化の息吹も追い風となり、大学に対して吾々からの積極的な提起が行はれるやうになり、臨海学校・拉致問題・教育問題・靖国神社の事など、様々な講演会が開催されて来た。
先程の王陽明の言葉を借りれば、戦後大学を覆つた共産主義イデオロギーは、日本の敗戦とアメリカ軍による占領政策といふ「大雨」で溜まつた大量の「池水」だつた訳で、時代の変遷と共に水量が激減し、今や淀んで腐臭を放ち枯れ果てんとしてゐるのだ。一方吾々の学生運動は、大学毎の掘られた井戸は小さかつたが、日本の歴史の命脈から滾々(こんこん)と湧き出した泉は徐々に大きくなり、今や各地で湧出せんとしてゐるのである。
私は今回の全九ゼミの講義で、九州の大学や専門学校から出陣して行つた学徒の遺書について話をした。特攻隊で亡くなつた士官の内、学徒出身者は実に陸軍で70%、海軍で85%に達してゐる。海軍の神風特別攻撃隊員の海軍士官戦歿者全769名中、予備学生・生徒出身者は653名(大尉2、中尉213、少尉412、少尉候補生24、不明2)に達してゐる。彼等は国家の危難に際し、勇躍として、「ペンを剣(つるぎ)に代えて」(この題名の「特攻学徒兵海軍少尉大石正則日記」が昨年8月に西日本新聞社から出版されてゐる)戦地に赴いたのである。
当時高等教育(大学・高等学校・高等専門学校)を受けてゐた学生は同世代若者の3%に過ぎなかつた。それ故彼等は、学問に対する強い自覚を抱いてゐた。出陣して行つた学徒達の大学に対する強い思ひを受け継いで、大学から日本再建の運動を起こして行くとの決意を学生諸君に受け継いで貰いたかつたのである。参加した大学生は学徒の遺書を拝読し、祖国と家族に対する思ひの深さに涙し、そして、ゼミ4日目夜の全体会議では次々と立ち上がつて、大学での戦ひを決意してくれた。
日本人の血が受け継がれる限り、青年達は必ず祖国日本の生命に目覚める時が来る。40年に亙る全九ゼミ継続の営みと、継続の為に支援して下さつた総ての方々に心から感謝申し上げたい。