先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第二十九回(『祖国と青年』23年9月号掲載)
根津 一 東亜同文書院に脈打つ根津魂2
吾れ幾度びも生れ来りて、力を道徳の事につくさん
明治三十二年秋、根津は東亜同文会会長の近衛篤麿氏と会見し、支那に大規模の学校を設立する為の急務と方法について一致する。三度根津が対社会運動の前線に立つ時が訪れた。根津四十歳の時である。
三十三年六月、根津は南京同文書院院長に就任、八月には書院が上海に移り東亜同文書院と名を改める。東亜同文書院の設立に当っては、南京の両江総督・劉坤一氏と武昌の湖広総督・張之洞氏の協力が大きな力になった。根津は漢文で趣旨綱領を草し、直接会って信頼を得ている。
夏には北清事変が起り、それに乗じてロシアは満洲を制圧し、わが国有志の憂慮を誘った。東亜同文会は、ロシアの極東侵略の野望を明らかにして、ロシアを打ち破る戦いの必要性を訴えた。八月に東亜同文会の幹事長に就任した根津は、その言論戦の先頭に立った。根津は教育者であると同時に行動家であり、憂国の志士であった。根津は『帝國対露策』を草してを要路に提出、更には、その機密部分を除き『軍事私見』を発表した。
●支那の保全と朝鮮の擁護扶植は我が国の天職にして、其の天職を遂行せんと欲せば須らく朝野一致して最後の大決心あるべきなり。蓋し正当の平和を保たんと欲せば宜しく戦争の決心あるを要す。戦争の決心は却つて正当の平和を定むる所以なり。
軍事的な見識と情報を駆使した根津の言論は説得力があり、影響が大きい為政府は発行禁止とするが、既に、全国に配布された後であった。『軍事私見』を没収に来た警察署員・刑事などに対して根津は、「諸君も之れを熟読せられよ、然らば我が同志に与するに至らん」と述べた。
更に東亜同文会は、政党にも呼び掛けて「国民同盟会」を結成、十一月には世論喚起の為の全国大遊説を挙行し、根津は、九州・四国・山陽・山陰・東海・北陸・近畿を遊説して回った。九州での盛り上りを根津はこう記している。
●予は鹿児島にて演説会を開きしに、土地の有志非常に感動し、国会議員の有権者一代議士を選挙し得るだけの多数人、同盟会員に入会せり。夫れより熊本に至りしに、佐佐氏は充分準備しあり(略)壇上より先づ佐佐氏演説し、次で予が演説することとなり、(略)鎮西館の庭は全く立錐の地なく、非常の盛会なりき。夫れより三日の間、学校に至りては国民同盟会と精神教育、仏教団体に至りては国民同盟会と大乗仏教、実業家の会に於ては国民同盟会と支那貿易なる演説を為したり。(略)終りて福岡に至れば頭山氏に於て遺憾なく準備しあり。九州各地より無数に出席者あり、昼、国民同盟会の九州大会を開けり。(略)最後に予は国民同盟会を代表して演説を為し、非常の盛会なりき。
この全国遊説は、その後も毎年行われ根津は国民世論喚起の先頭に立っている。三十五年四月、根津は書院院長を杉浦重剛と交代して国民運動に専念するが、翌年、杉浦の病気辞職の為、再度院長に復帰している。
根津は当時、「国民同盟会組織に関する意見書」を提出している。現在の吾々の国民運動の範にも出来る様な内容である。「会務拡張の一端」の中では、週報もしくは旬報を発刊して時局に対する朝野の指針を伝える事、地方の招聘や中央から特派して時局上本会主義の演説を為す事、その際の注意等が記され、次に「精神家二十人を選び、全国町村を隈なく遊説し、村長、医者、小学教員、僧侶を会員若くは同志者となし、我が会の主義、目的及び時局解釈裁理の書物を頒ち、其の知識を啓発し、祝儀の席にても、寄合の席にても常に話題に上り、遂に時局問題に対し、四千万同胞の一偉体とならしめんことを期す。」と「草の根」に浸透する国民運動を提言している。又、「会の主義目的」では、「時局問題を名家に頼み、数へ謡、軍歌、其の他俚諺等を作り、遍く某方法により、世間に流布するを謀る。」事を提言。議員を専務者とする事の得失を論じ、近衛公の九州漫遊も求めている。
明治三十七年、わが国は国運を賭して日露戦争に踏み切った。この年四月に書院は第一期卒業生を出し、彼らの多くが陸軍通訳として出征した。東亜同文会では、戦闘の状況や時局問題等を支那語で著し「時局報告」と題して、支那の大官は勿論、知府、知県、各学校長、各商業会議所、各新聞社等に週刊で二千余通を配布し、戦争が終わる迄時局の事情を知らしめた。いわゆる情報戦である。ロシアは宣教師を利用して宣伝を行ったが、それを遙かに凌駕した。
更に、根津は「満州戦後経営の基礎を樹立する為には、此の戦役中各地に支那人教育の師範学校を興すを以て最急務となす」とし、満洲各地に中学校を建設している。
根津院長の実践的教え
日露戦争終結後、根津は愈々東亜同文書院の教育に力を注いだ。四十年、外務省から「支那内地調査旅行補助費」として三万円が支出され、それを元に、一年一万円を限度に「支那内地旅行」が開始された。四十一年、根津院長は日露戦争後の華美・驕奢の風潮に卒業生が進路を誤る事を憂慮して、卒業予定の学生を数班に分けて、「倫理の応用」として「身を修め、人に交り、職に従ひ、家を斉ふるの四項」それぞれについて、卑近の例を取り、譬えを引用して詳細な特別授業を行った。それはこの年から恒例となった。
根津院長の教えを、卒業生の回想から幾つか紹介する。
●天下は大物なり、一朝憤激の能く動かす所に非ず、惟だ精を積み誠を蓄へ、始めて動かすことが出来る。
●士は以て弘毅ならざる可からず、任重くして道遠し、大丈夫此志なければ遂に義を忘れ生死の大事を違へ、大節に臨んで役に立たぬ。
●春風桃李花開日、秋雨梧桐葉落時、人間世に処し時を看、機を待つの用意なかる可からず
●其義を正して其道を明かにし、其利を計らずして其理を弁すべし、君子小人の差別王覇の異論、凡て此に発す心せざる可からず
●月は梧桐の上に至り、風は楊柳の辺に来る、人間にこの余裕あれば自然に人を感化し得るものである
●天空しうして鳥の飛ぶに任かせ、海濶うして魚の踊るに委す、大丈夫其志を大にして、天下の物を容るるの覚悟なかる可からず。
修学旅行に赴く学生に、根津院長は次の様に語ったと言う。
●是れ迄は私の教室で皆さんに倫理の講義をして、一通り人の行ふべき道は説き尽して置いたが、まだ私がそれを行つて皆さんに示す機会がなかつた。今回は幸に漢口まで同船するので、此の三日間の船中で私が行ふことを、皆さんによく見て貰ひ度いと思ふ。私が実地に行へぬことは皆さんには強ひません
当に、知行合一・言行一致の根津院長の面目躍如の言葉である。愛知大学の東亜同文書院大学記念センターには根津の次の書が掲示されている。
「至誠如神」・「飲水冷暖自知」(自分の事は自分だけが知る)・「失諸正鵠求諸其身」(『中庸』・〔射は君子に似たり、〕これを正鵠に失すればこれを其の身に反求す)。
漢学・陽明学を通して背筋の通った道義的人材を生み出す事が根津院長の理想だった。身を以て教え導く根津院長には人間としての温かみが根底に流れていた。ある学生は、寝坊して仮病を装った時、根津院長が真剣に身体を心配して下さった事を回想して、心底反省した事を記している。生徒の就職に当って会社側から「どうかよき卒業生を」と言われれば、根津院長は、必ず「私の方の学生は何れもよいのです。」と答えられたと言う。
日本精神界救済の志と実行計画
根津は、京都隠棲の頃より「日本の精神界の堕落に対し憂慮する所あり。之れを救済せん」と思いを回らしていたが、多忙の為着手出来ないでいた。
明治四十二年、五十歳を迎えた根津は「精神界及び政治界を同時に救済するの案」を立てて実行に移さんとした。それは、百万円の資金を元に、東京に「一大精神寄宿学校」を建てて東京の大学以下中学までの特志学生を寄宿させて「精神教育を此の学校にて施し、此の学生精神薫陶の結果を以て」他の学生まで感化を及ぼして「東京学生界の精神界を振興し、此の学校を本部とし」て、全国四十七府県に支部と分校を作って、其の所在地の中等学校学生を収容して薫陶し、更に感化を回りに及ぼして学生の精神を振興させ、更には「其の子弟の父兄は皆県会議員なるを以て間接に其の子弟に感化せられ、随つて県会の風儀も矯正せられ、此の精神団の尽力にて毎県一名づつの県内一等の人物を国会議員として選挙し、斯くの如き議員約五十名一団となりて中央議会の風儀を矯正するに至らば、即ち日本の政界及び精神界を同時に救済するを得べし」というもので、「一誠兆人を動かしむる」壮大なる構想だった。根津は資金目標と行動計画迄考案した。
だが、根津の構想は中止せざるを得なくなる。四十四年(一九一一)に辛亥革命が勃発して内戦が始まり、大正二年七月二九日に、北軍軍艦の砲弾にて東亜同文書院の建物が全焼したのである。
根津は、「是れ実に書院存亡の危機なり、今之れを廃せんか対支経営を如何、然らば即ち万難を排して之れが復興を計らざるべからず」と書院再建を決意した。根津五十四歳の時である。根津は若い時から大酒していたが、この時、書院再建までの禁酒を決意し実行する。
根津は先ず内地の大村に講習所を設置して学生の修学の場を確保し、その間上海で卒業生の助力と知人からの借財を得て仮校舎の建設を行い、追って支那政府と交渉して賠償金を得て新校舎を建設するとの計画を指し示した。意気消沈する職員に根津は「斯く処理する時は各学年生の進退には少しも故障変更なく、又志気を損することなかるべく、斯かる大変の時に方り一度び志気を失墜するときは、全体土崩瓦解に至るものなれば此の点最も大切にすべし」と訓示した。そして書院再建に向け先頭に立った。
更には、「此の困苦欠乏の場合を利用し、充分教育に尽力せば却て平時より効果を収むべし」と、学生と起居を共にし、特課授業を行って学生を導いた。後に根津は「此の間の苦心は人の知る所にあらず」と記している。大正六年四月二十二日、遂に東亜同文書院新校舎が完成した。だが、支那の内戦の騒擾は続き、八・九年にも書院は争乱に巻き込まれる危機に直面する。根津院長は病躯を圧して皆に「正門はわしが守り、一同を指揮するにより安心せよ」と語ったという。
院長退任と已まぬ精神界救済の志
大正九年には書院創立満二十年記念祝典と共に、根津の還暦祝賀式が挙行された。十年には専門学校令により修学が四年に延長される。根津は、書院の万一に備えて三十万円の基本金募集事業に着手し、それを完了させた大正十二年三月に院長の職を辞した。四半世紀に近い在任だった。
●これで自分は此の書院を去るが、道は何処の土地に在りても通ずるものである。何も憂ふることはない。ただ世の中が此くの如くなり来れる上は、議論も学説も役には立たぬものである。そんなことで世の中が救へるものではない。世の中の此くの如き状態を済ふには、ただただ志士仁人が各其の立場立場に於て身を捨てることのみである。此れより外に之れを救済する道はないものである。
院長を辞した根津は、京都桃山の家に隠棲した。根津は「わしにも住む家が有つたか」と述べたという。
だが、根津は今こそ旧来の志の実現に着手すべき時と、「此の度は資金に依らず、単独にて精神的に長年月を期して経営すべく」「全国高等小学校の所在地を遍歴し、一年三百日とし、六十五日を予備とし、毎日高等小学校三箇所に講演し、五年間にて全国の高等小学校を講演し終るべく、かくて毎日講演終らば、小学校の小使室に宿泊し、夜は教職員と充分懇談して其の主意を徹底せしめ、以て学校教職員、町村職員、其の他有志家を以て社員とし、斯くて精神的に全国の社員を糾合し終らば、東京に於て一大精神的寄宿学校を設立」して、五十歳時に考案した計画を実現する事を立案する。根津一人でも着手出来る精神復興運動だった。
晩年、根津は門人の懇請で「自叙伝」を口述し、最後に次の様に述べた。
●余は今健康益々宜しく、日々日課を定め、朝より晩に至るまで経書、歴史、政治、経済書の外に、折り折り参考として新しき出版物を研究することを怠らず。爾後十年間、斯の如く研究を継続し、前途日本の精神界の救済必要なれば、今一度奮つて其の救済に微力を尽すべく、若し必要なければ三部の書を著し、後世に残すの考へにて、其の腹案略ぼ成れり。然し其の前に天命尽くれば、其の事途中に終るも、少しも遺憾を感ぜざる覚悟なり。元来余は不生、不滅の真理を深く確信せるものなるを以て、幾度びも更る更る生れ来りて力を道徳の事に竭さんとす。
更に、根津は病床で次の様に語ったという。
●日本国民といふものはさう軽薄なものではないから話せば判る、其内病気が癒つたら草鞋穿きで全国を遊説して回り一戸一戸よく諭して歩く積りだ。
昭和二年二月、根津は自らの寿命の終りを自得する。
●未来は心配なし、安心を乞ふ、更に告ぐべき事なし。
臨終二日前には夫人を呼び「今日からはここを離れぬやうに」と述べた。二月十八日薨去、享年六十八歳、法名は、生前自撰していた「精進院徹道一貫居士」である。
根津 一 東亜同文書院に脈打つ根津魂2
吾れ幾度びも生れ来りて、力を道徳の事につくさん
明治三十二年秋、根津は東亜同文会会長の近衛篤麿氏と会見し、支那に大規模の学校を設立する為の急務と方法について一致する。三度根津が対社会運動の前線に立つ時が訪れた。根津四十歳の時である。
三十三年六月、根津は南京同文書院院長に就任、八月には書院が上海に移り東亜同文書院と名を改める。東亜同文書院の設立に当っては、南京の両江総督・劉坤一氏と武昌の湖広総督・張之洞氏の協力が大きな力になった。根津は漢文で趣旨綱領を草し、直接会って信頼を得ている。
夏には北清事変が起り、それに乗じてロシアは満洲を制圧し、わが国有志の憂慮を誘った。東亜同文会は、ロシアの極東侵略の野望を明らかにして、ロシアを打ち破る戦いの必要性を訴えた。八月に東亜同文会の幹事長に就任した根津は、その言論戦の先頭に立った。根津は教育者であると同時に行動家であり、憂国の志士であった。根津は『帝國対露策』を草してを要路に提出、更には、その機密部分を除き『軍事私見』を発表した。
●支那の保全と朝鮮の擁護扶植は我が国の天職にして、其の天職を遂行せんと欲せば須らく朝野一致して最後の大決心あるべきなり。蓋し正当の平和を保たんと欲せば宜しく戦争の決心あるを要す。戦争の決心は却つて正当の平和を定むる所以なり。
軍事的な見識と情報を駆使した根津の言論は説得力があり、影響が大きい為政府は発行禁止とするが、既に、全国に配布された後であった。『軍事私見』を没収に来た警察署員・刑事などに対して根津は、「諸君も之れを熟読せられよ、然らば我が同志に与するに至らん」と述べた。
更に東亜同文会は、政党にも呼び掛けて「国民同盟会」を結成、十一月には世論喚起の為の全国大遊説を挙行し、根津は、九州・四国・山陽・山陰・東海・北陸・近畿を遊説して回った。九州での盛り上りを根津はこう記している。
●予は鹿児島にて演説会を開きしに、土地の有志非常に感動し、国会議員の有権者一代議士を選挙し得るだけの多数人、同盟会員に入会せり。夫れより熊本に至りしに、佐佐氏は充分準備しあり(略)壇上より先づ佐佐氏演説し、次で予が演説することとなり、(略)鎮西館の庭は全く立錐の地なく、非常の盛会なりき。夫れより三日の間、学校に至りては国民同盟会と精神教育、仏教団体に至りては国民同盟会と大乗仏教、実業家の会に於ては国民同盟会と支那貿易なる演説を為したり。(略)終りて福岡に至れば頭山氏に於て遺憾なく準備しあり。九州各地より無数に出席者あり、昼、国民同盟会の九州大会を開けり。(略)最後に予は国民同盟会を代表して演説を為し、非常の盛会なりき。
この全国遊説は、その後も毎年行われ根津は国民世論喚起の先頭に立っている。三十五年四月、根津は書院院長を杉浦重剛と交代して国民運動に専念するが、翌年、杉浦の病気辞職の為、再度院長に復帰している。
根津は当時、「国民同盟会組織に関する意見書」を提出している。現在の吾々の国民運動の範にも出来る様な内容である。「会務拡張の一端」の中では、週報もしくは旬報を発刊して時局に対する朝野の指針を伝える事、地方の招聘や中央から特派して時局上本会主義の演説を為す事、その際の注意等が記され、次に「精神家二十人を選び、全国町村を隈なく遊説し、村長、医者、小学教員、僧侶を会員若くは同志者となし、我が会の主義、目的及び時局解釈裁理の書物を頒ち、其の知識を啓発し、祝儀の席にても、寄合の席にても常に話題に上り、遂に時局問題に対し、四千万同胞の一偉体とならしめんことを期す。」と「草の根」に浸透する国民運動を提言している。又、「会の主義目的」では、「時局問題を名家に頼み、数へ謡、軍歌、其の他俚諺等を作り、遍く某方法により、世間に流布するを謀る。」事を提言。議員を専務者とする事の得失を論じ、近衛公の九州漫遊も求めている。
明治三十七年、わが国は国運を賭して日露戦争に踏み切った。この年四月に書院は第一期卒業生を出し、彼らの多くが陸軍通訳として出征した。東亜同文会では、戦闘の状況や時局問題等を支那語で著し「時局報告」と題して、支那の大官は勿論、知府、知県、各学校長、各商業会議所、各新聞社等に週刊で二千余通を配布し、戦争が終わる迄時局の事情を知らしめた。いわゆる情報戦である。ロシアは宣教師を利用して宣伝を行ったが、それを遙かに凌駕した。
更に、根津は「満州戦後経営の基礎を樹立する為には、此の戦役中各地に支那人教育の師範学校を興すを以て最急務となす」とし、満洲各地に中学校を建設している。
根津院長の実践的教え
日露戦争終結後、根津は愈々東亜同文書院の教育に力を注いだ。四十年、外務省から「支那内地調査旅行補助費」として三万円が支出され、それを元に、一年一万円を限度に「支那内地旅行」が開始された。四十一年、根津院長は日露戦争後の華美・驕奢の風潮に卒業生が進路を誤る事を憂慮して、卒業予定の学生を数班に分けて、「倫理の応用」として「身を修め、人に交り、職に従ひ、家を斉ふるの四項」それぞれについて、卑近の例を取り、譬えを引用して詳細な特別授業を行った。それはこの年から恒例となった。
根津院長の教えを、卒業生の回想から幾つか紹介する。
●天下は大物なり、一朝憤激の能く動かす所に非ず、惟だ精を積み誠を蓄へ、始めて動かすことが出来る。
●士は以て弘毅ならざる可からず、任重くして道遠し、大丈夫此志なければ遂に義を忘れ生死の大事を違へ、大節に臨んで役に立たぬ。
●春風桃李花開日、秋雨梧桐葉落時、人間世に処し時を看、機を待つの用意なかる可からず
●其義を正して其道を明かにし、其利を計らずして其理を弁すべし、君子小人の差別王覇の異論、凡て此に発す心せざる可からず
●月は梧桐の上に至り、風は楊柳の辺に来る、人間にこの余裕あれば自然に人を感化し得るものである
●天空しうして鳥の飛ぶに任かせ、海濶うして魚の踊るに委す、大丈夫其志を大にして、天下の物を容るるの覚悟なかる可からず。
修学旅行に赴く学生に、根津院長は次の様に語ったと言う。
●是れ迄は私の教室で皆さんに倫理の講義をして、一通り人の行ふべき道は説き尽して置いたが、まだ私がそれを行つて皆さんに示す機会がなかつた。今回は幸に漢口まで同船するので、此の三日間の船中で私が行ふことを、皆さんによく見て貰ひ度いと思ふ。私が実地に行へぬことは皆さんには強ひません
当に、知行合一・言行一致の根津院長の面目躍如の言葉である。愛知大学の東亜同文書院大学記念センターには根津の次の書が掲示されている。
「至誠如神」・「飲水冷暖自知」(自分の事は自分だけが知る)・「失諸正鵠求諸其身」(『中庸』・〔射は君子に似たり、〕これを正鵠に失すればこれを其の身に反求す)。
漢学・陽明学を通して背筋の通った道義的人材を生み出す事が根津院長の理想だった。身を以て教え導く根津院長には人間としての温かみが根底に流れていた。ある学生は、寝坊して仮病を装った時、根津院長が真剣に身体を心配して下さった事を回想して、心底反省した事を記している。生徒の就職に当って会社側から「どうかよき卒業生を」と言われれば、根津院長は、必ず「私の方の学生は何れもよいのです。」と答えられたと言う。
日本精神界救済の志と実行計画
根津は、京都隠棲の頃より「日本の精神界の堕落に対し憂慮する所あり。之れを救済せん」と思いを回らしていたが、多忙の為着手出来ないでいた。
明治四十二年、五十歳を迎えた根津は「精神界及び政治界を同時に救済するの案」を立てて実行に移さんとした。それは、百万円の資金を元に、東京に「一大精神寄宿学校」を建てて東京の大学以下中学までの特志学生を寄宿させて「精神教育を此の学校にて施し、此の学生精神薫陶の結果を以て」他の学生まで感化を及ぼして「東京学生界の精神界を振興し、此の学校を本部とし」て、全国四十七府県に支部と分校を作って、其の所在地の中等学校学生を収容して薫陶し、更に感化を回りに及ぼして学生の精神を振興させ、更には「其の子弟の父兄は皆県会議員なるを以て間接に其の子弟に感化せられ、随つて県会の風儀も矯正せられ、此の精神団の尽力にて毎県一名づつの県内一等の人物を国会議員として選挙し、斯くの如き議員約五十名一団となりて中央議会の風儀を矯正するに至らば、即ち日本の政界及び精神界を同時に救済するを得べし」というもので、「一誠兆人を動かしむる」壮大なる構想だった。根津は資金目標と行動計画迄考案した。
だが、根津の構想は中止せざるを得なくなる。四十四年(一九一一)に辛亥革命が勃発して内戦が始まり、大正二年七月二九日に、北軍軍艦の砲弾にて東亜同文書院の建物が全焼したのである。
根津は、「是れ実に書院存亡の危機なり、今之れを廃せんか対支経営を如何、然らば即ち万難を排して之れが復興を計らざるべからず」と書院再建を決意した。根津五十四歳の時である。根津は若い時から大酒していたが、この時、書院再建までの禁酒を決意し実行する。
根津は先ず内地の大村に講習所を設置して学生の修学の場を確保し、その間上海で卒業生の助力と知人からの借財を得て仮校舎の建設を行い、追って支那政府と交渉して賠償金を得て新校舎を建設するとの計画を指し示した。意気消沈する職員に根津は「斯く処理する時は各学年生の進退には少しも故障変更なく、又志気を損することなかるべく、斯かる大変の時に方り一度び志気を失墜するときは、全体土崩瓦解に至るものなれば此の点最も大切にすべし」と訓示した。そして書院再建に向け先頭に立った。
更には、「此の困苦欠乏の場合を利用し、充分教育に尽力せば却て平時より効果を収むべし」と、学生と起居を共にし、特課授業を行って学生を導いた。後に根津は「此の間の苦心は人の知る所にあらず」と記している。大正六年四月二十二日、遂に東亜同文書院新校舎が完成した。だが、支那の内戦の騒擾は続き、八・九年にも書院は争乱に巻き込まれる危機に直面する。根津院長は病躯を圧して皆に「正門はわしが守り、一同を指揮するにより安心せよ」と語ったという。
院長退任と已まぬ精神界救済の志
大正九年には書院創立満二十年記念祝典と共に、根津の還暦祝賀式が挙行された。十年には専門学校令により修学が四年に延長される。根津は、書院の万一に備えて三十万円の基本金募集事業に着手し、それを完了させた大正十二年三月に院長の職を辞した。四半世紀に近い在任だった。
●これで自分は此の書院を去るが、道は何処の土地に在りても通ずるものである。何も憂ふることはない。ただ世の中が此くの如くなり来れる上は、議論も学説も役には立たぬものである。そんなことで世の中が救へるものではない。世の中の此くの如き状態を済ふには、ただただ志士仁人が各其の立場立場に於て身を捨てることのみである。此れより外に之れを救済する道はないものである。
院長を辞した根津は、京都桃山の家に隠棲した。根津は「わしにも住む家が有つたか」と述べたという。
だが、根津は今こそ旧来の志の実現に着手すべき時と、「此の度は資金に依らず、単独にて精神的に長年月を期して経営すべく」「全国高等小学校の所在地を遍歴し、一年三百日とし、六十五日を予備とし、毎日高等小学校三箇所に講演し、五年間にて全国の高等小学校を講演し終るべく、かくて毎日講演終らば、小学校の小使室に宿泊し、夜は教職員と充分懇談して其の主意を徹底せしめ、以て学校教職員、町村職員、其の他有志家を以て社員とし、斯くて精神的に全国の社員を糾合し終らば、東京に於て一大精神的寄宿学校を設立」して、五十歳時に考案した計画を実現する事を立案する。根津一人でも着手出来る精神復興運動だった。
晩年、根津は門人の懇請で「自叙伝」を口述し、最後に次の様に述べた。
●余は今健康益々宜しく、日々日課を定め、朝より晩に至るまで経書、歴史、政治、経済書の外に、折り折り参考として新しき出版物を研究することを怠らず。爾後十年間、斯の如く研究を継続し、前途日本の精神界の救済必要なれば、今一度奮つて其の救済に微力を尽すべく、若し必要なければ三部の書を著し、後世に残すの考へにて、其の腹案略ぼ成れり。然し其の前に天命尽くれば、其の事途中に終るも、少しも遺憾を感ぜざる覚悟なり。元来余は不生、不滅の真理を深く確信せるものなるを以て、幾度びも更る更る生れ来りて力を道徳の事に竭さんとす。
更に、根津は病床で次の様に語ったという。
●日本国民といふものはさう軽薄なものではないから話せば判る、其内病気が癒つたら草鞋穿きで全国を遊説して回り一戸一戸よく諭して歩く積りだ。
昭和二年二月、根津は自らの寿命の終りを自得する。
●未来は心配なし、安心を乞ふ、更に告ぐべき事なし。
臨終二日前には夫人を呼び「今日からはここを離れぬやうに」と述べた。二月十八日薨去、享年六十八歳、法名は、生前自撰していた「精進院徹道一貫居士」である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます