「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その5 「葉隠 2」

2013-02-27 18:24:33 | 【連載】武士道の言葉
「武士道の言葉」第五回  葉隠その二 『祖国と青年』24年9月号掲載

曲者は頼もしき者、頼もしきは曲者なり。(略)頼もしきと云ふは、首尾よき時は入らず、人の落ち目になり、難儀する時節、くゞり入りて頼もしするが頼母しなり。左様の人は曲者なり。
(聞書第一 133)

 今回は、武士としての覚悟について述べた言葉を幾つか紹介しよう。葉隠には「曲者」という言葉が出て来る。山本常朝の父親である山本神右衛門が良く使っていたらしく、ここで紹介した言葉も神右衛門の言葉である。今日では「曲者」という言葉は、「手に負えない変わった人物」との意味で、あまり肯定的には使われていないが、葉隠では、サムライの理想的な姿としてこの曲者が使われる。山本神右衛門は男の孫が生れると、まだ幼い時から耳元に口を寄せて「大曲者になって殿様のお役に立ちなさい」と言い続けたという。

 曲者とは如何なる者を言うのか。それは、人の調子が良い時には隠れて姿を見せないが、一旦調子が悪くなって落ち目になって困っている時に、他の者を押し分けてでも現われて、力を尽して助けてくれる、本当に頼りになる者の事だという。何か正義の味方の「月光仮面」の様だが、そんな人物が居れば本当に頼母しいし、有難い。常朝によれば、「曲者」は日頃から、話を聞いたり書物を読んで武士としての覚悟を定め、日々武道を磨いている。勝負の場に臨んでは、勝敗は時の運と達観して、恥をかかない為に、智慧分別を捨て去り、必死の覚悟で相手に立ち向かって戦う。

 イザという時に本当に力になれる人物とは、日頃から覚悟を定め、イザという時の為に自らを磨き続けている人物に他ならない。吾々の回りに「あいつは曲者」だと頼られる人物がどれだけいるだろうか。東洋哲学では、「志を得れば国家の為に力を尽くし、志を得なければ隠棲して自力を養うのみ」と言い、曲者にも通じる。ただ、支那と違って日本では尽す国家が他国に変わる事は決して無い。


万事前方に極め置くが覚の士なり。不覚の士といふは、その時に至つては、たとへ間に合はせても、これは時の仕合せなり。前方の僉鑿せぬは、不覚の士と申すなり。       (聞書第一 21)

 山本常朝は「覚の士」「不覚の士」という事を言う。「覚の士」とは日頃から覚悟を固めた者の事であり。その者こそがサムライと言える。一方「不覚の士」というのは、ただ毎日の生活に追われて何の緊張感も無く生きている者の事である。「覚の士」は全ゆる事について、前もって思いを致し、自らの身の処し方に就いて考えを回らしている人物の事を言って居る。それ故、いざと言う時に見事な対応と出処進退が出来るのである。「不覚の士」は、ある事が生じて何とか切り抜ける事が出来ても、それは偶然の成功であり、僥倖に過ぎない。必ずいつか破綻が生じる。先々を読む事が出来る力が問われている。宮本武蔵の項で「打つ」と「当る」の違いについて述べたが、その事に通じる話である。

 山本常朝は「主君に一大事が生じた時、家来の中でその難局に身を以て当ろうとする者は沢山現われるだろう。しかし、兼ねてからその事を予測して覚悟を定めている者は稀である。兼ねてから覚悟を定めていた者のみが即座に対応可能で一番に名乗り出る事が出来るのである。その即応力は兼ねてからの覚悟によるのだ。(聞書第十一 87)」と述べている。長い時間をかけて培った覚悟が他者に一歩先んじる対応力を生み出すのである。山本常朝にとっては、国家の一大事に際し、誰にも負けずに先んじて踏み出す事が出来る自分であるか否かが、武士としての忠義の証であり、誉れなのであった。

 いざという時の事を何も考えずに、目先の平和を享受するだけの者には、いつか破局が訪れる。「蟻とキリギリス」の寓話は皆知っているが、平和ボケの戦後社会の中では、殆んどの者がイザという時に思いを致す事が出来なくなっている。大震災や原発災害、いじめ問題、竹島問題、尖閣諸島問題等、国家リーダーの日頃の覚悟が問われている。前もって如何に対応すれば問題が解決できるのかとの緻密な対策のシュミレーションを重ねて置く可きなのに、「場当たり的対応」しか出来なくなっている。現代日本を立て直すには、平和ボケの他者依存憲法を速やかに改正し、国民精神の中に「覚悟」を培い得る国家へと脱皮せねばならない。


然れども、武篇は別筋なり。大高慢にて、吾は日本無双の勇士と思はねば、武勇をあらはすことはなりがたし。
(聞書第一 47)
 
 三島由紀夫氏は『葉隠入門』の中で、「四十八の精髄」の第一に「エネルギーの賛美」として「夜陰の閑談」の中の次の言葉を紹介している。「一口に申さば、御家を一人して荷ひ申す志出来申す迄に候。同じ人間が誰に劣り申すべきや。惣じて修業は、大高慢にてなければ役に立たず候。我一人して御家を動かさぬとかからねば、修業は物にならざるなり。」である。ここにも「大高慢」の言葉が出て来る。

 山本常朝は人としての生き方に於いて、謙譲や自省が大切な事には一般論としては同意するが、ただ、ただ、「武士たる者はそれだけでは駄目なのだ」と言う。武士には主君のお役に立ち、国家を担い守り治める事の出来る能力が求められている。その為には、人並みでは駄目なのである。「大高慢」にて「自分こそは天下無双の大勇士だ」と「自任」する事が第一歩であり、それを裏付ける日々の覚悟と修練を怠らない事が求められる。その結果「武勇を表す」事が可能となるのである。この「高慢」は人間を限りなく生長せしめる良い意味での高慢であり、無限のエネルギーを人間の中に生み出す。一方、「高慢」によって驕りが生じ、生長がストップし堕落するのは、悪い意味の高慢である。常朝は、この良き「大高慢」に生きた。

彼は言う。「本気にては大業はならず。気違ひになりて死狂ひするまでなり。又武道に於て分別出来れば、はやおくるゝなり。忠も孝も入らず、武士道に於ては死狂ひなり。この内におのづから籠るべし。(聞書第一 114)」と。正に吉田松陰も実践した「狂」の思想である。本気を超える莫大なるエネルギーを生み出す事こそが武士なのだと言う。

 私が大学生の頃は、学内で日本の近代史を擁護したり、天皇陛下の事を言おうものなら、左翼過激派の学生に総攻撃を受けた。それ故、彼らの出す批判ビラに決して負けまいと必死で勉強し、反論ビラを書いて訴える日々だった、そして、祖国日本を否定する彼らに対して「生き方」に於いて決して負けてはならないと覚悟し、自らを鍛え上げた。左翼学生のみならず、学内の大学生、全国の学生の総てが「生き方」のライバルであり、絶対に負けぬとの「大高慢」を抱いていた。その結果、幾分かの武勇を残し得た。


武士道といふは死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわつて進むなり。(略)毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。 
   (聞書第一 2)

 葉隠の中で最も有名な言葉である。死を覚悟した者と覚悟出来ない者が対峙した時には、当然前者に勝利の女神が輝く。私は、戦記物をよく読むが、「死が怖い」と逃げ回った者程、戦死の確率が高かったそうである。葉隠は、元禄太平の世の中で生を貪る武士達に、「死の覚悟」という劇薬をつきつけた。元来、死は生の裏返しであり、生の終わりは必ず来て我々は死から逃れる事は出来ない。死の覚悟が出来た人間は「胸すわって進む」事が出来る様になる。「毎朝毎夕死を覚悟する事により、生が充実して輝き、武士道に自由を得て一生落ち度無く務めを果す事が出来るのだ。」と説く。「死」という劇薬こそが「生」を輝かしめる。

 今日でも、大病を患ったり大難に出会った人間は、それを乗り越えた後の生の輝きが違ってくると言われる。私は、その様な大病や大難に遭遇した事は無いが、若い頃に死を覚悟して行動した体験は幾度か積んでいる。その事によって現在の「志」が鞏固なものとなって来た。西郷南洲の言う「幾度か辛酸を経て志始めて固し」である。

 今回は、葉隠の中から「覚悟」について述べた言葉を幾つか取り上げた。最後に、葉隠の中の興味深い逸話を紹介したい。

それは、「高木何某打ち果し候時女房働きの事(聞書第九 39)」という話である。

高木という武士が近所の百姓三人と口論になった末、みじめにも田の中に叩き伏せられて帰って来た。それを見た女房が、夫に対して「「御手前は死ぬ事を御忘れ候ては御座なきや。」と言った。そして、自分で百姓達の居場所を探り、自ら夫の先に立って松明を点し、脇差を差して、相手の所に踏み込み夫婦協力して敵を斬り伏せたという話である。主人たるもの妻から「あなたは、死の覚悟が出来ていないからその様な恥をかくのです。」と言われたら立つ瀬が無いが、佐賀の女性の面目が良く表れている。

私の学生運動の頃も、佐賀大学では、女性の方が男性より覚悟が定まっており、佐賀の女性は確りしていると感心した事がある。葉隠の「覚悟」の精神は佐賀の女性を通して今日に伝えられているのかも知れない。その様な母によって葉隠武士は育まれたのである。

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