「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

何故「陽明学」は日本人の哲学となったのか 

2012-04-07 11:44:44 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第三十四回(『祖国と青年』24年2月号)

 何故「陽明学」は日本人の哲学となったのか

 儒学の理想は日本で実践され、日本人の求道心が陽明学と合致した

 連載「先哲に学ぶ行動哲学」も次号で終了する。そこで今回は「総論」として、中国に誕生した陽明学が、わが日本で多くの偉大な先達の思想の柱となった理由を考えたい。

 中江藤樹や熊沢蕃山は、思想を論じるに当って、「時・処・位」の違いを重視した。中国やインドと日本とは「水土」が違うので、日本人は儒学や仏教を学びつつも、あくまでも神道をその中心に立てるべきであると主張した。「水土」とは今日いう「風土」であり、それぞれの国家や民族の居住地の環境がそこに生きる人間の思想に大きな影響を与える事は今日様々な書物によって解明されている。

日本文明と中国文明が全く異なる事はS・ハンチントン『文明の衝突』等、世界の識者の多くが認めている。王少鋒は『日・韓・中三国の比較文化論』の中で「島国の日本は受信文化・融合文化」「半島の韓国は通路文化・徹底文化」「大陸の中国は発信文化・並存文化」として島国・半島・大陸にそれぞれ「融合」「徹底」「並存」の言葉を配している。中国大陸には様々な価値観が複雑に並存しているのだ。金文学は『島国根性・大陸根性・半島根性』の中でそれぞれの国を流れる川の濁り具合に着目し、中国・濁流文化(長江6380キロ・黄河5464キロ)、朝鮮・半清流文化(洛東江525キロ・漢江514キロ・鴨緑江790キロ)、日本・清流文化(最長の信濃川でも367キロしかない)と分類した。中国人の底の知れない心の中と日本人の「清明心」との比較を川の濁りに象徴させている。

 私は、昨年のある時期、中国・明代の学者洪自誠の『菜根譚』を日々播き「古教照心」して居たが、様々に教えられると共に、一種の違和感を覚える言葉もあった。例えば「巧を拙に蔵し、晦を用いて而も明に、清を濁に寓し、屈を以って伸となす。真に世を渉るの一壺にして、身を蔵するの三窟なり。(才能を秘めながら無能をよそおい、明察でありながら知恵をひけらかさず、濁流に身をおきながら清廉を保ち、身を屈して将来の飛躍に備える。このような態度こそ、「中流の一壺」や「狡兎三窟」の教えにかなう処世の秘訣である。)」という教えがある。教え自体は深い洞察から生れたものであり、なるほどとは思うが、自らの本質を覆い隠して他を欺き、時期を待つという生き方には何か違和感を覚えた。

当時、並行して武士道の書を読んでいたからかも知れない。武士道では、諫死をも厭わない剛直を鏡としていた。『菜根譚』は「儒教・仏教・道教」の教えを総合し、「武士道」は「神道・儒教・仏教」の融合されたものであり、神道と道教の違いがそうさせているのであろう。

中国思想を考える場合、中国の歴史に見られる治乱興亡のすさまじさと、権力闘争の熾烈さを抜きにしては考えられない。北方民族の侵入に備えた万里の長城のみならず、中国の都市は常に他の脅威に備えかつ人民を囲い込む為の「城塞」を築き、夜には城門を固く閉ざした。町の中の家屋も同じ様な構造になっていた。私は、南京や西安の城壁を訪れた事があるが、壁の高さは十メートルを優に超え、城壁の幅も同程度のとても分厚いものである。異民族の襲来掠奪は壮絶さを極め、敗北は滅亡を意味していた。

それ故、中国では、必ず勝利する為の「兵法」が研究され、孫子や呉子、諸葛孔明など戦略・戦術の天才が生れている。「三十六計逃げるにしかず」という言葉があるが、『兵法三十六計』は「勝戦の計」「敵戦の計」「攻戦の計」「混戦の計」「併戦の計」「敗戦の計」それぞれに六計があり、三十五計を尽くし果した後、「走為上」(逃げるをもって上策となす)と為している。この三十六計は中国人の常識だという。日本人の単純さに比し、中国人の複雑さは計り知れない。

この様な風土の中で、何故儒学が誕生したのか。儒学を体系化した孔子が生きたのは春秋時代である。周王朝の力が衰微し、諸侯の中に実力者が生まれて権力を持ち権威が崩壊して行く時代である。孔子は中国の古代国家の堯帝・舜帝を聖人と仰ぎ、周を起こした文王・武王・周公の業績を崇め、周公が行った政治を理想と仰いだ。だが、孔子の理想はいずれの国でも実現されなかった。更に、孟子が生きたのは、戦国の七雄と言われる覇者の時代である。「仁義」を重視する孟子の政治学は殆んど顧みられなかった。

中国では、諸子百家といわれる様々な学派が誕生して覇を唱える王に遊説した。戦国乱世を統一したのは、秦の始皇帝で、宰相の李斯は性悪説に立脚する法家の思想を重視し、儒学は焚書坑儒で弾圧した。漢が統一されるに及んで儒学は脚光を浴び、平和な時代の統治術として国教化した。礼と秩序を重んじ、徳による統治を説く儒学は、士大夫の教養とされた。

だが、権力渦巻く中国政治の中で儒学は「たてまえ」に過ぎず、韓非子や孫子など、勝ち抜く為の処世術や隠遁などの保身術が尊重された。科挙制度が出来ると、儒学の四書五経は「受験課目」となり、文章規範として丸暗記が求められ、その生命力は完全に失われた。それ故、中国では、民間の土俗信仰と結びついた道教や仏教が人々の信仰の対象となった。今日でも、中華人民共和国を創建した紅い皇帝・毛沢東は始皇帝を崇拝し「批林批孔」で儒学を弾圧したが、ソ連崩壊に伴い、十年ほど前から論語や孔子が復権し、昨年一月には天安門広場東側の国家博物館の広場に孔子像が建てられた。中国の儒学は権力者の意向で常に利用され続けている。

中国に於ける儒学は実現される事の無い理想=「空想」に過ぎなかった。

      中国文明を取捨選択する日本文明の主体性

 わが国の場合は、四季の織りなす美しい自然、豊かな恵み、海に囲まれ他民族の侵略を防ぐ自然の防波堤の中での平和で穏やかな生活、台風や地震などの自然災害の定期的な襲来など、独特の風土の中で、世界でも稀に見る民族性が培われて来た。坂本太郎は『日本歴史の特性』の中で、日本の歴史の三大特徴を「連綿性」「躍進性」「中和性」と表現した。

日本には、古代から続く様々な文化が今尚存続している。全国各地に長い歴史を有する神社が多数存在する。二千年以上に亘って連綿と存続し皇位が百二十五代を数える皇室は、世界に比類なき最古の王室である。更に日本人は外来文明を積極的に受容し、それを自らのものとして咀嚼して行った。日本文化は「連綿性」という不動の核が存在するが故に、他者に対し寛容かつ貪欲に吸収して行く事が出来た。

日本人は中国から「漢字」を取り入れたが、「仮名」を生み出し、漢字を音読み(中国音)と訓読み(大和言葉)で表現した。漢文も書き下し文という日本語に変換した。更には躾や峠など日本独自の「国字」を一千余字も生み出した。中国に無いものを日本人は自ら補った。幕末維新期には西洋の翻訳語として「自由」や「哲学」などの新造漢語を多数創作している。漢字との格闘は、漢字を完全に日本語へと昇華した。それ故、中国語の漢字の意味と日本語の漢字の意味が全く食い違うものも多々生じて来ている。

日本人は、「革命思想」を否定し、「宦官」「纏足」など美感に合わないものは拒否し、「科挙制度」も取り入れなかった。家村和幸著『闘戦経』によれば、平安時代、兵法の大家として『孫子』等中国の兵法書を管理していた大江家の三十五代匡房は、『孫子』の無批判の受容に危険性を感じて、わが国に古来伝わる「武」の智恵と精神を簡潔に纏めた『闘戦経』を著した。匡房は「この『闘戦経』は「孫子」と表裏す。「孫子」は詭道を説くも、『闘戦経』は真鋭を説く、これ日本の国風なり。」と、孫子を貸し与える時は必ず『闘戦経』を読ませた。勝つ為に手段を選ばぬ中国文明に対する精神の防波堤を築いたのだ。日本人は中国文明の移入に際し必ず取捨選択し、その上で自らの内に取り込み、日本文明として再生させた。儒学に於ても同様だった。

     儒学は江戸期を通じて完全に日本人の倫理となった

 明代に中国で生まれた陽明学は、長い儒学の歴史の中で「最後に咲いた花」と称されている。陽明学は、宋の時代に体系化された朱子学(宋学)の欠点を補うものだった。それ故、朱子学に物足りない有為の人材が王陽明の下に陸続と集まった。朱子学は仏教や道教との理論闘争にも耐えうるだけの宇宙論・人間論を展開する壮大な内容の哲学であった。それ故、旧来の儒学に対し、新儒学と呼ばれた。朱子学は仏教的な要素や道教的な要素も包含する力を有して居た。だが御多分に洩れず、中国では明・清と官学となった朱子学はその生命力を失い、清の亡国の際に殉じる士大夫は一人も出なかったのである。王陽明亡き後の陽明学も右派と左派に分裂し、清代には衰退して行った。

朱子学は鎌倉から室町にかけ、陽明学は室町から戦国にかけてわが国に伝わった。そして、元和偃武の江戸太平の下で、幕府は朱子学を官学として重用した。それ以前に仏教は平安時代の山岳仏教で日本の自然に溶け込み、本地垂迹説の様に外来の仏教の神々と日本古来の神々の一体化が進んだ。更には鎌倉時代の禅や念仏教を通じてわが国の庶民にまで広がっていた。仏教を反面教師に樹立された新儒学は、仏教との確執に充分耐える内容を持ち、それ迄禅林の中で埋もれていた儒学は飛躍の時を迎えたのである。日本人の底辺に浸透した仏教的な価値観に対し、儒学は倫理道徳の教えとして矛盾する事無く広がって行った。

江戸時代を通じ、儒学は様々な日本人の心に触れる事により取捨選択が繰り返され、日本独特の儒学が誕生した。そして、それが士道・武士道となって集大成された。科挙を導入しなかったわが国では、四書五経の丸暗記の必要は無く、膨大な分量の五経を学ばずとも四書(大学・中庸・論語・孟子)や小学・孝経などをテキストに素読を行い、その中の象徴的な言葉は自らを磨き上げ実践する鏡となった。儒学の中国臭は捨象され、わが国の精神に適合する教えのみが強調されていくのである。

山鹿素行は「小学」に代るべく日本人の小学「武教小学」を編纂している。一方、中国に於て朱子学を乗り越えるべく誕生した陽明学は、わが国でも朱子学の持つ観念性に満足し切れない人々の心を捉えて行った。

日本陽明学の祖と言われる中江藤樹は朱子学と真剣に向き合う中でその限界を悟り、朱子学を乗り超える学問を求めた。その体験は王陽明と同一だった。藤樹は亡くなる四年前に王陽明全書と出会い、これこそが求めていたものだと歓喜した。朱子学は「理学」と称されたが陽明学は「心学」「心法」と称された。自らの心の有り方を主に求めたからである。江戸期には、陽明学以外にも、古学や古文辞学なども生まれ、朱子学を乗り越える努力がなされた。それらは「儒学の日本化」の営みであった。

更に、江戸中期には儒学を柱に神道・仏教を総合して庶民道徳を説く石門心学(石田梅岩・手島堵庵等)が誕生した。寛政年間から全国各地に藩校が広がり、庶民対象の寺子屋(約一万五千)も各地に広がって行ったのである。ここに儒学は日本人の道徳として「日本文明」の中に完全に溶け込んだのである。これら「心学」の流れは幕末危機の時代にあっては陽明学が再興する底流となった。更に、熊沢蕃山・山鹿素行・山崎闇斎などは、儒学の理想は、革命と動乱を繰り返す中国では決して実現されず、万世一系の皇室を戴くわが国でこそ実現されると考えた。

日本人は、儒学を建前としてでは無く、実現できる「理想」として本気で摂取したのである。

       最も日本人の心に合致した陽明の教え

 ここで王陽明の教えを振り返り、何故日本人の心に浸透して行ったのかを考えたい。

陽明は「万街の人皆聖人」と総ての人が聖人の本質を備えていると説いた。孟子の性善説に繋がる教えであり、人間の本性を信じる所から出発している。それは、他者を信頼する事に基礎を置く、日本人の心性の共感を生むものであった。

又、陽明は、「心即理」を説き、真理に到達する道筋を自らの心の本源に求めた。自分の心を磨き上げる事に主眼を置く学問姿勢は、「技を磨き心を鍛え上げ、道を極めていく」日本人の求道心を揺さぶるものであった。

更に陽明は「人欲を去り天理を存す」不断の行を求めた。「人欲」を祓い清めれば「天理」が輝き出るとの考え方は、神道の「禊ぎ祓い」による「清明心」の磨き上げと共通するものだった。日本人は陽明学の中に「心の鏡を磨き上げる行の哲学」を見たのである。

その行を王陽明は「知行合一」「事上磨錬」の言葉で、日常生活に実践して行く事を強調した。日々の行を自らに課す武士のストイシズムと陽明の事上磨錬は合致するものであったし、「武士に二言無し」「言行一致」の倫理観を抱く日本人には知識と行動の一体を説く「知行合一」は当然の姿として受け止められた。

陽明学の核心は「致良知(良知を致す)」である。陽明は「良知とは心の真実であり、宇宙の真理と繋がるものである。それは本来自らの内に完備されている。他に求むるな。自らの心に求めよ。全ゆる場に於いて自らの心を磨ぎ澄ませ。心の真実のみに従つて生きよ。」と教えた。清明心の伝統に生きる日本人は、陽明の教えを「自己発見の学」と捉え、良知に基く不動の自己を確立し、その上で、何事にも積極果敢に挑戦して行った。

陽明学は人材を生み出す温床の役割を果たした。幕末期には、陽明学を人生の柱とする人物が佐幕討幕双方に於て中心的な役割を担っている。それぞれの立場で「良知」を致し「誠」を尽くす彼等を見た時、陽明学は政治的な立場をも超えた日本人の生き方そのものになっている事を実感するのである。




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