「日本の誇り」復活・その戦ひと精神第二回
家訓に刻まれた土佐南学中興の祖、谷秦山の生き方と覚悟
―全国に先駆けた四国ブロック結成式に参加して―
七月三日、高知県土佐山田町に座す八王子宮に於て、日本協議会では全国初のブロック組織となる四国ブロックの結成式が執り行はれ、私も本部を代表して参加した。
ブロックの舵取り役となるブロック理事長には、香川県在住の小田雅則氏が就任した。小田氏はこの春に三菱重工を定年退職された方で、在職中神戸に居た頃から論語の素読会などに参加して漢文の素養を磨かれて来た学究肌のリーダーである。小田氏は六月末の天皇皇后両陛下サイパン行幸啓に合はせて行はれた日本会議慰霊奉迎団にも勇躍参加された。四国ブロックでは会員で手分けして千羽鶴を作成し、サイパンに持参してゐる。その千羽鶴に今年の歌会始の御製「幸」を記した短冊を付けてゐた所、皇后陛下が御目をとめられてお声をかけて戴く幸に浴したと言ふ。
このサイパン奉迎の感動的な報告が小田氏から行はれた。終戦六十年に際し御身を以て英霊慰霊の重大さをお示しになられた両陛下、その大御心にお応へしたいとの熱き思ひで吾らが同志達はサイパンまで駆けつけたのであつた。皇后陛下は平成八年の終戦記念日に
海くが陸のいづへを知らず姿なきあまたのみたま御霊国護るらん
とお詠みになられた。日本を護る「姿なきあまたの御霊」を両陛下は見つめ続けられてゐるのである。大御心に副ひ奉る自らの有り方を求め続けて行く事こそが、日本協議会の綱領にある「皇室を敬ひ、永遠の日本を確信する愛国者たらんことを期す」生き方である。
四国ブロック結成式の前には、高知県在住の利根洋一氏から「土佐勤皇思想の源流」と題する研究発表も行はれた。非常に感銘深い発表だつたので、以下その内容を紹介したい。
幕末にたけちずいざん武市瑞山・中岡慎太郎・坂本龍馬などの土佐勤王党を生み出したのは、土佐の地に脈々と流れる「とさなんがく土佐南学」の道統であつた。その源流は、鎌倉時代末の名僧といはれたむそうそせき夢窓疎石禅師の土佐滞在に発する。室町後期には周防のみなみむらばいけん南村梅軒が土佐に渡り朱子学を伝へる中で、禅学と朱子学の一致を説く学問が興り、南村梅軒に学んだたにじちゅう谷時中が江戸時代に「土佐南学」を確立した。その後、藩家老ののなかけんざん野中兼山ややまさきあんさい山崎闇斎などに受け継がれるが、四散してしまふ。しかし、その南学を再興する人物が現れる。たにじんざん谷秦山(1663~1718)である。谷秦山によつて再興された「土佐南学」は幕末まで流れて土佐勤王党を生み出し、国を変へる大きな力となる。谷家は歴代神官職の家柄で、秦山の父は「君に仕へることが大和民族の生きる道である」との訓へを常に示してゐたといふ。秦山は上京してあさみけいさい浅見絅斎や山崎闇斎に入門し、儒学と国学を柱とする「土佐南学」を興す。その学風は精神力を尚び、実践躬行を主とするものであつた。その後も谷家は学統を受け継ぐ人材を輩出して行く。明治時代に軍人・政治家として活躍したたにたてき谷干城もその子孫である。谷干城遺稿には谷秦山の次の家訓が記されてゐる。
「万一にも、京都に事変が起きたと聞いたならば、どんなことをしてゐても、直ちに京都に上れ。旅費がなかつたら、乞食をしてもよろしい。京都に着いたならば、御所を護り奉れ。もしも何んの力もなくて、思ふことができねば、御所の壁により掛かつて死ね。死んで御所の塀の土となつて、お護りせよ。」
すさまじばかりの尊皇精神の発露である。この訓へは谷家の子孫たちの胸にしつかり刻まれて行つた。子孫たちはその志を自らの名前に刻んだ。谷秦山の長男は、御所の御垣を守る「みがきもり御垣守」を自らに任じ、たにかきもり谷垣守と名乗つた。更に前出の谷干城の名前もこの訓へに基づいてゐる。(詩経の「きゅうきゅう赳赳たる〔筋肉が引き締まって強い様〕武夫は公侯〔大名・諸侯〕の干城〔国家を守る武士・軍人〕」より)。谷秦山の魂が尊皇の家系を導き続けたのである。
自らも土佐勤皇思想の継承者たらんとの決意のこもる利根氏の発表を聞きつつ、道統継承の意義について改めて深く感じる所があつた。日本協議会(日本青年協議会)は、戦後生れの学生・青年によって昭和四十年代初頭に誕生した。その誕生は偶然ではなく、学園紛争といふ混乱した時代背景の中で、祖国日本を求める青年の求道心と情熱によつて齎されたものである。青年が祖国日本に目覚めるには、敗戦を超えて受け継がれ示し続けられて来た「学問の水脈」が流れてゐなければ不可能である。「学問の水脈」に触れる事によつて汲み取り、学び自らの思想・信念まで高め上げる事が出来たのである。敗戦に動ぜずに節を貫かれた多くの先達の導きがあつたればこそ、吾々は祖国日本のいのちに連なる確固たる人生を選択する事が出来たのであつた。
日本協議会は、今や、椛島会長を筆頭に国民運動の推進者としての人材を多数輩出して来てゐる。更には、「祖国のいのちに連なる高き志を次代に伝える責任者」たる事を綱領に銘記した。吾々が諸先生方から教へを受けて志を確立した如く、今度は吾々自らが次の世代の胸に熱き炎を灯して行かねばならない。その為には、吾々の生き方の質が問はれてくる。国家を変へていく実際行動としての国民運動、日本の誇りを次代に伝へていく為の教育事業。吾らにとつての教育事業とは、祖国を思ふ熱き志の発露に他ならない。その意味で、家訓に表はされた如き谷秦山の生き方と覚悟が、後の土佐勤王党を生み出し、明治維新の大業を成し遂げた如く、日本協議会に連なる吾らの生き方と覚悟が、将来の日本を救ふ維新回天の人材を輩出して行く事に繋がる事を肝に銘じたい。四国ブロックに於てもこの夏に「四国まほろば合宿」が誕生する。「維新は四国から」を合言葉とする日本協議会四国ブロックの同志たちの活躍を祈りたい。
初めてのブロック組織の生まれ出づ維新生みなすここ土佐の地ゆ
脈々と継がれし土佐の南学の勤皇のたま魂こもる土地かも
いざ立ちて国の誇りを世の人に子らに伝へむ吾らがわざ業で
家訓に刻まれた土佐南学中興の祖、谷秦山の生き方と覚悟
―全国に先駆けた四国ブロック結成式に参加して―
七月三日、高知県土佐山田町に座す八王子宮に於て、日本協議会では全国初のブロック組織となる四国ブロックの結成式が執り行はれ、私も本部を代表して参加した。
ブロックの舵取り役となるブロック理事長には、香川県在住の小田雅則氏が就任した。小田氏はこの春に三菱重工を定年退職された方で、在職中神戸に居た頃から論語の素読会などに参加して漢文の素養を磨かれて来た学究肌のリーダーである。小田氏は六月末の天皇皇后両陛下サイパン行幸啓に合はせて行はれた日本会議慰霊奉迎団にも勇躍参加された。四国ブロックでは会員で手分けして千羽鶴を作成し、サイパンに持参してゐる。その千羽鶴に今年の歌会始の御製「幸」を記した短冊を付けてゐた所、皇后陛下が御目をとめられてお声をかけて戴く幸に浴したと言ふ。
このサイパン奉迎の感動的な報告が小田氏から行はれた。終戦六十年に際し御身を以て英霊慰霊の重大さをお示しになられた両陛下、その大御心にお応へしたいとの熱き思ひで吾らが同志達はサイパンまで駆けつけたのであつた。皇后陛下は平成八年の終戦記念日に
海くが陸のいづへを知らず姿なきあまたのみたま御霊国護るらん
とお詠みになられた。日本を護る「姿なきあまたの御霊」を両陛下は見つめ続けられてゐるのである。大御心に副ひ奉る自らの有り方を求め続けて行く事こそが、日本協議会の綱領にある「皇室を敬ひ、永遠の日本を確信する愛国者たらんことを期す」生き方である。
四国ブロック結成式の前には、高知県在住の利根洋一氏から「土佐勤皇思想の源流」と題する研究発表も行はれた。非常に感銘深い発表だつたので、以下その内容を紹介したい。
幕末にたけちずいざん武市瑞山・中岡慎太郎・坂本龍馬などの土佐勤王党を生み出したのは、土佐の地に脈々と流れる「とさなんがく土佐南学」の道統であつた。その源流は、鎌倉時代末の名僧といはれたむそうそせき夢窓疎石禅師の土佐滞在に発する。室町後期には周防のみなみむらばいけん南村梅軒が土佐に渡り朱子学を伝へる中で、禅学と朱子学の一致を説く学問が興り、南村梅軒に学んだたにじちゅう谷時中が江戸時代に「土佐南学」を確立した。その後、藩家老ののなかけんざん野中兼山ややまさきあんさい山崎闇斎などに受け継がれるが、四散してしまふ。しかし、その南学を再興する人物が現れる。たにじんざん谷秦山(1663~1718)である。谷秦山によつて再興された「土佐南学」は幕末まで流れて土佐勤王党を生み出し、国を変へる大きな力となる。谷家は歴代神官職の家柄で、秦山の父は「君に仕へることが大和民族の生きる道である」との訓へを常に示してゐたといふ。秦山は上京してあさみけいさい浅見絅斎や山崎闇斎に入門し、儒学と国学を柱とする「土佐南学」を興す。その学風は精神力を尚び、実践躬行を主とするものであつた。その後も谷家は学統を受け継ぐ人材を輩出して行く。明治時代に軍人・政治家として活躍したたにたてき谷干城もその子孫である。谷干城遺稿には谷秦山の次の家訓が記されてゐる。
「万一にも、京都に事変が起きたと聞いたならば、どんなことをしてゐても、直ちに京都に上れ。旅費がなかつたら、乞食をしてもよろしい。京都に着いたならば、御所を護り奉れ。もしも何んの力もなくて、思ふことができねば、御所の壁により掛かつて死ね。死んで御所の塀の土となつて、お護りせよ。」
すさまじばかりの尊皇精神の発露である。この訓へは谷家の子孫たちの胸にしつかり刻まれて行つた。子孫たちはその志を自らの名前に刻んだ。谷秦山の長男は、御所の御垣を守る「みがきもり御垣守」を自らに任じ、たにかきもり谷垣守と名乗つた。更に前出の谷干城の名前もこの訓へに基づいてゐる。(詩経の「きゅうきゅう赳赳たる〔筋肉が引き締まって強い様〕武夫は公侯〔大名・諸侯〕の干城〔国家を守る武士・軍人〕」より)。谷秦山の魂が尊皇の家系を導き続けたのである。
自らも土佐勤皇思想の継承者たらんとの決意のこもる利根氏の発表を聞きつつ、道統継承の意義について改めて深く感じる所があつた。日本協議会(日本青年協議会)は、戦後生れの学生・青年によって昭和四十年代初頭に誕生した。その誕生は偶然ではなく、学園紛争といふ混乱した時代背景の中で、祖国日本を求める青年の求道心と情熱によつて齎されたものである。青年が祖国日本に目覚めるには、敗戦を超えて受け継がれ示し続けられて来た「学問の水脈」が流れてゐなければ不可能である。「学問の水脈」に触れる事によつて汲み取り、学び自らの思想・信念まで高め上げる事が出来たのである。敗戦に動ぜずに節を貫かれた多くの先達の導きがあつたればこそ、吾々は祖国日本のいのちに連なる確固たる人生を選択する事が出来たのであつた。
日本協議会は、今や、椛島会長を筆頭に国民運動の推進者としての人材を多数輩出して来てゐる。更には、「祖国のいのちに連なる高き志を次代に伝える責任者」たる事を綱領に銘記した。吾々が諸先生方から教へを受けて志を確立した如く、今度は吾々自らが次の世代の胸に熱き炎を灯して行かねばならない。その為には、吾々の生き方の質が問はれてくる。国家を変へていく実際行動としての国民運動、日本の誇りを次代に伝へていく為の教育事業。吾らにとつての教育事業とは、祖国を思ふ熱き志の発露に他ならない。その意味で、家訓に表はされた如き谷秦山の生き方と覚悟が、後の土佐勤王党を生み出し、明治維新の大業を成し遂げた如く、日本協議会に連なる吾らの生き方と覚悟が、将来の日本を救ふ維新回天の人材を輩出して行く事に繋がる事を肝に銘じたい。四国ブロックに於てもこの夏に「四国まほろば合宿」が誕生する。「維新は四国から」を合言葉とする日本協議会四国ブロックの同志たちの活躍を祈りたい。
初めてのブロック組織の生まれ出づ維新生みなすここ土佐の地ゆ
脈々と継がれし土佐の南学の勤皇のたま魂こもる土地かも
いざ立ちて国の誇りを世の人に子らに伝へむ吾らがわざ業で
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