【連載】「日本の誇り」復活―その戦ひと精神(三十五)
非道なる戦犯裁判を歴史に埋もらせるな!
『戦犯裁判の実相』・「遺書」の祖国帰還・戦犯救出の国民運動
八月十四日早朝、熊本『祖国と青年』の会のメンバー五名で遺族の方と共に熊本県出身「戦犯」四十七名を慰霊する「鎮魂の碑」の清掃奉仕を行つた。BC級戦犯が受けた受難について学べば学ぶ程、私には大西郷遺訓の「西洋は野蛮ぢや」との言葉が思ひ起こされてならない。
BC級戦犯裁判で西欧諸国が行つた非道は、世界史に於いて記録され糾弾されるべき蛮行である。昭和二十七年五月十二日に巣鴨法務委員会が発行した七百ページに及ぶ『戦犯裁判の実相』には、アジア各地で行はれた戦犯裁判(米・英・豪・蘭・仏・中・比の7カ国49法廷、起訴された日本人5700人、死刑934人、有期刑3413人)の実態について、巣鴨に移送された受刑者全員からの調査に基づき詳しく記されてゐる。そこでは、無実の容疑に対する抗弁も認めず、「違ふ」と言ひ張れば拷問し、反対証言や反対尋問も認めず、わづか一・二日の裁判で筋書き通りに「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」が宣告されるのだ。
収監者の次の和歌がその実態を伝へてゐる。
口惜くば戦に勝てとうそぶきし検事の言葉またも憶ひぬ(比島 横山公男)
四十一人次々に絞首刑を受けければ遂に泣き伏す女弁護士(横浜 吉原 剛)
神の御名によりて裁くと云ひ放てど復讐の眼吾は見にけり(メダン 森重義雄)
人種による裁き
BC級戦犯裁判は見せしめの為に処刑する「人種裁判」に他ならなかつた。「英領地区戦犯裁判」の章には、「共通に体験した所謂虐待なるもの」として「あらゆる罵詈雑言、殴打、拷問体操、懲罰の名を以てする不当な拷問、集団処罰、独房への殴り込み、見世物的行進等」と記されてゐる。収監された者には「一日二食、朝はビスケット二枚にさ湯のような汁一杯、午後はメリケン粉と唐(とう)玉(もろ)蜀(こし)の粉を混合した粥一杯約二合半」しか与へられず。「慢性的飢餓」の状態に置いて暴行を加えるのだ。
オートラムやチャンギー刑務所独房での夜間襲撃暴行の様子も生々しく証言されてゐる。更に「蘭印地区戦争裁判」の処には次の様な虐待証言が見える。「炎天の獄庭に全員褌(ふんどし)のみの全裸体とし、午前十時~午後五時迄不動のまま整列(勿論水も昼食も与えず)、倒れれば足蹴り、銃で殴打。」「二・三時間天皇拝み(不動の姿勢にて太陽を直視すること)をさせる。眼を逸(そ)らすと殴る。」「取調べを受けて帰つて来た者何れも人相が変る程顔が変形。」「唯一の食器である各自の飯盒(はんごう)を以て糞尿の中に入れて其れを汲み出させ配食時間迄作業を続けて僅かの時間に身体と飯盒を洗ひ其の飯盒で食事せしめる。」「刑務所から裁判所に行く間一本の鎖に十名の者が連鎖され市中を徒歩で連行、見世物にする。」「大小便の用便時間を制限し大便等の長き者は脊(せ)や頭を抜刀の背で叩く」等々。
かかる虐待の結果、刑死者以外に、自殺者(未決囚)23名・自殺者(既決後)4名・被虐待死5名・事故死6名・病死79名総計117名が亡くなつてゐる。但し「此の外に『戦犯指名の不名誉感と収容中の被虐待』による自殺未遂及逃亡死(南方の各地)は計数し得ざる程多数あり。」「被虐待が原因し不具となりたる者相当数あり。」とある。
死刑囚の遺書を守り伝へた日本人
全く酷(むご)い仕打ちであつた。だが、かかるBC級戦犯の死刑囚の無念の思ひを書き綴つた遺書だけでも遺族の下に届けんと尽力した人々が居た。昨年出版された田中日淳編『日本の戦争 BC級戦犯60年目の遺書』(アスコム)によれば、田中日淳師などチャンギー刑務所の教誨師(きょうかいし)達が死刑囚の遺書を密かに持ち出した。発覚すれば処罰される為、ヒンズー語を覚えて印度人の番兵と仲良くなつて顔パスとなつたり、刑務所内の関門を突破する為に死刑囚の世話をしてゐた日本兵と連携して受け取つたりと工夫されてゐる。更に毎晩それを書き写して万全を期された。遺品は処刑後総てボイラーで燃やされる。その直前にボイラー係の日本兵によつて抜き取られ持ち出された物もあつた。
皆が死刑囚達の無念の思ひを遺族に伝えたいと願つてゐた。田中師は帰国に当つても、港で復員者の手荷物検査・没収が行はれるので、船長に事情を話して頼み、遺書を入れた鞄(かばん)は復員者上陸地の佐世保では下ろさず、広島の宇品港まで運んで貰ひ、自らは汽車で広島に行き無事受け取つてゐる。更には、汽車に乗り込んで復員者の世話に当る大学生達に事情を話して、遺族の下に届ける様に依頼した。誰もが協力した。殺された「戦犯」の無念に皆が共感してゐたのだつた。
国民運動が比島戦犯を救ひ出した
今夏出版された小林弘忠『天に問う手紙』(毎日新聞社)には、フィリピンのモンテンルパ刑務所に入れられた百人超の比国戦犯(内死刑囚79名)の方々の助命・救済に精魂を傾けた復員局・植木信吉事務官と現地で救済嘆願に死力を尽くされた教誨師加賀(かが)尾(お)秀(しゅう)忍(にん)師の生き様が描かれてゐる。二人とも自らの意思で異動や任期切れを拒否して、最後迄服役囚救済の為に尽力された。一担当官に過ぎない植木氏だが、運動の核となる家族の団結を計るべく「比島戦犯留守家族会」を結成し、植木氏と加賀尾師との往復書簡を軸に会報誌『問天(もんてん)』を発刊し、経済界・政界に支援者を獲得し、街頭署名活動を行つたり、服役囚の手記を『文藝春秋』や『サンデー毎日』に掲載したり、マスコミにも働きかけて全国民に救出嘆願・慰問品の輪を広げて行く。
又、人形を比国の子供達に贈る活動などで比国世論の理解も計り、更には服役囚の作詞・作曲の「あゝモンテンルパの夜は更けて」が生まれ大ヒットする。次々と運動を切り拓いて、家族会の運動を全国民共感の運動と為し、遂に比国大統領を動かして昭和28年7月に服役囚全員の帰還を実現する。植木氏は自らの給与の3分の2は活動費につぎ込んだと云ふ。「国の為に戦つた同胞を見捨てるわけには参りません」との植木氏と加賀尾師の人生を賭した行動が国と世界を動かしたのだ。正に国民運動の手本ともいふべき戦ひだつた。
非道なる戦犯裁判を歴史に埋もらせるな!
『戦犯裁判の実相』・「遺書」の祖国帰還・戦犯救出の国民運動
八月十四日早朝、熊本『祖国と青年』の会のメンバー五名で遺族の方と共に熊本県出身「戦犯」四十七名を慰霊する「鎮魂の碑」の清掃奉仕を行つた。BC級戦犯が受けた受難について学べば学ぶ程、私には大西郷遺訓の「西洋は野蛮ぢや」との言葉が思ひ起こされてならない。
BC級戦犯裁判で西欧諸国が行つた非道は、世界史に於いて記録され糾弾されるべき蛮行である。昭和二十七年五月十二日に巣鴨法務委員会が発行した七百ページに及ぶ『戦犯裁判の実相』には、アジア各地で行はれた戦犯裁判(米・英・豪・蘭・仏・中・比の7カ国49法廷、起訴された日本人5700人、死刑934人、有期刑3413人)の実態について、巣鴨に移送された受刑者全員からの調査に基づき詳しく記されてゐる。そこでは、無実の容疑に対する抗弁も認めず、「違ふ」と言ひ張れば拷問し、反対証言や反対尋問も認めず、わづか一・二日の裁判で筋書き通りに「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」が宣告されるのだ。
収監者の次の和歌がその実態を伝へてゐる。
口惜くば戦に勝てとうそぶきし検事の言葉またも憶ひぬ(比島 横山公男)
四十一人次々に絞首刑を受けければ遂に泣き伏す女弁護士(横浜 吉原 剛)
神の御名によりて裁くと云ひ放てど復讐の眼吾は見にけり(メダン 森重義雄)
人種による裁き
BC級戦犯裁判は見せしめの為に処刑する「人種裁判」に他ならなかつた。「英領地区戦犯裁判」の章には、「共通に体験した所謂虐待なるもの」として「あらゆる罵詈雑言、殴打、拷問体操、懲罰の名を以てする不当な拷問、集団処罰、独房への殴り込み、見世物的行進等」と記されてゐる。収監された者には「一日二食、朝はビスケット二枚にさ湯のような汁一杯、午後はメリケン粉と唐(とう)玉(もろ)蜀(こし)の粉を混合した粥一杯約二合半」しか与へられず。「慢性的飢餓」の状態に置いて暴行を加えるのだ。
オートラムやチャンギー刑務所独房での夜間襲撃暴行の様子も生々しく証言されてゐる。更に「蘭印地区戦争裁判」の処には次の様な虐待証言が見える。「炎天の獄庭に全員褌(ふんどし)のみの全裸体とし、午前十時~午後五時迄不動のまま整列(勿論水も昼食も与えず)、倒れれば足蹴り、銃で殴打。」「二・三時間天皇拝み(不動の姿勢にて太陽を直視すること)をさせる。眼を逸(そ)らすと殴る。」「取調べを受けて帰つて来た者何れも人相が変る程顔が変形。」「唯一の食器である各自の飯盒(はんごう)を以て糞尿の中に入れて其れを汲み出させ配食時間迄作業を続けて僅かの時間に身体と飯盒を洗ひ其の飯盒で食事せしめる。」「刑務所から裁判所に行く間一本の鎖に十名の者が連鎖され市中を徒歩で連行、見世物にする。」「大小便の用便時間を制限し大便等の長き者は脊(せ)や頭を抜刀の背で叩く」等々。
かかる虐待の結果、刑死者以外に、自殺者(未決囚)23名・自殺者(既決後)4名・被虐待死5名・事故死6名・病死79名総計117名が亡くなつてゐる。但し「此の外に『戦犯指名の不名誉感と収容中の被虐待』による自殺未遂及逃亡死(南方の各地)は計数し得ざる程多数あり。」「被虐待が原因し不具となりたる者相当数あり。」とある。
死刑囚の遺書を守り伝へた日本人
全く酷(むご)い仕打ちであつた。だが、かかるBC級戦犯の死刑囚の無念の思ひを書き綴つた遺書だけでも遺族の下に届けんと尽力した人々が居た。昨年出版された田中日淳編『日本の戦争 BC級戦犯60年目の遺書』(アスコム)によれば、田中日淳師などチャンギー刑務所の教誨師(きょうかいし)達が死刑囚の遺書を密かに持ち出した。発覚すれば処罰される為、ヒンズー語を覚えて印度人の番兵と仲良くなつて顔パスとなつたり、刑務所内の関門を突破する為に死刑囚の世話をしてゐた日本兵と連携して受け取つたりと工夫されてゐる。更に毎晩それを書き写して万全を期された。遺品は処刑後総てボイラーで燃やされる。その直前にボイラー係の日本兵によつて抜き取られ持ち出された物もあつた。
皆が死刑囚達の無念の思ひを遺族に伝えたいと願つてゐた。田中師は帰国に当つても、港で復員者の手荷物検査・没収が行はれるので、船長に事情を話して頼み、遺書を入れた鞄(かばん)は復員者上陸地の佐世保では下ろさず、広島の宇品港まで運んで貰ひ、自らは汽車で広島に行き無事受け取つてゐる。更には、汽車に乗り込んで復員者の世話に当る大学生達に事情を話して、遺族の下に届ける様に依頼した。誰もが協力した。殺された「戦犯」の無念に皆が共感してゐたのだつた。
国民運動が比島戦犯を救ひ出した
今夏出版された小林弘忠『天に問う手紙』(毎日新聞社)には、フィリピンのモンテンルパ刑務所に入れられた百人超の比国戦犯(内死刑囚79名)の方々の助命・救済に精魂を傾けた復員局・植木信吉事務官と現地で救済嘆願に死力を尽くされた教誨師加賀(かが)尾(お)秀(しゅう)忍(にん)師の生き様が描かれてゐる。二人とも自らの意思で異動や任期切れを拒否して、最後迄服役囚救済の為に尽力された。一担当官に過ぎない植木氏だが、運動の核となる家族の団結を計るべく「比島戦犯留守家族会」を結成し、植木氏と加賀尾師との往復書簡を軸に会報誌『問天(もんてん)』を発刊し、経済界・政界に支援者を獲得し、街頭署名活動を行つたり、服役囚の手記を『文藝春秋』や『サンデー毎日』に掲載したり、マスコミにも働きかけて全国民に救出嘆願・慰問品の輪を広げて行く。
又、人形を比国の子供達に贈る活動などで比国世論の理解も計り、更には服役囚の作詞・作曲の「あゝモンテンルパの夜は更けて」が生まれ大ヒットする。次々と運動を切り拓いて、家族会の運動を全国民共感の運動と為し、遂に比国大統領を動かして昭和28年7月に服役囚全員の帰還を実現する。植木氏は自らの給与の3分の2は活動費につぎ込んだと云ふ。「国の為に戦つた同胞を見捨てるわけには参りません」との植木氏と加賀尾師の人生を賭した行動が国と世界を動かしたのだ。正に国民運動の手本ともいふべき戦ひだつた。
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