【連載】「日本の誇り」復活―その戦ひと精神(三十九)
新渡戸稲造を導いた117人の先人達
八十三年を経て再刊された『一日一言』
広島『祖国と青年』の会からの要請で始めた、日本陽明学派の先人達に学ぶ連続「日本の誇りセミナー」も2年10回を数へた。又昨年は、秋田で3回、仙台で2回、鹿児島でも2回、同様にセミナーを開催した。
陽明学を学ぶ事は、王陽明及びその脈流に居る多くの日本人の生き方と残した言葉とを学ぶ事であり、「致良知」「知行合一」「事上磨錬」「万物一体の仁」など王陽明が指し示した言葉を自らの生き方に昇華させる事に他ならない。その中から他に惑はされない、自らの本心(良知)のみに依拠して生きる力強い生き方が確立されて行くのである。
私は、朱子学と陽明学の違ひについて、キリスト教の「カソリック(旧教)」と「プロテスタント(新教)」の様なもので、朱子学は教義を重んじたが、陽明学は自らの心の良知に絶対を求めた為に、プロテスタントの如く多種多様の陽明学が生まれた、と説明してゐる。かつて、三島由紀夫氏の「革命哲学としての陽明学」を否定した自称陽明学者の裁判官が居たが、それは奢りといふもので、その裁判官流とは別に、生死を超える力強い三島流陽明学は確かに存在した。その意味で、私のは多久流陽明学である。セミナーで私が紹介してゐる先人達の生き方と言葉は、それが受講者の糧となり、生き方に消化されて行つた時に、それぞれ独自の陽明学が生まれて来るのだ。陽明学の学びでは、人のコピーには決してならない。
昨年最後の広島セミナーでは新渡戸稲造博士を取り上げた。明治を代表する国際人である新渡戸稲造は、クリスチャンであり、陽明学と何の関係があるのかといぶかる人も居るだらうが、私の捉へ方で言へば新渡戸稲造は紛れも無く日本陽明学派の道統に連なる真日本人である。新渡戸は、著書『武士道』の中でも王陽明について詳しく述べ、王陽明の言葉が武士道に大きな影響を与へた事を記してゐるし、「武士道」を「平民道」に昇華すべく、一般大衆の修養の為に記した数多くの著書の中にも陽明学の言葉が頻出する。
新渡戸稲造はクリスチャン(祈祷の行を重視するフレンド派)としてひたすら神に祈り、自らの心の中の神である「内なる光」に従つて生きた。この生き方は、陽明学の「良知」を致す生き方と相通ずる所がある。日本陽明学派の始祖と言はれてゐる中江藤樹は、宇宙の根元神としての「大上天尊大乙神」を祀り、孝経を毎日唱へて自らの「良知」を磨く生き方を貫き、後世の人から「隠れキリシタン」と誤解されたりしてゐる。又、西郷南洲の座右銘「敬天愛人」は、現代ではクリスチャンの学校で信條として愛用されてゐる。この様に、陽明学とキリスト教には相通ずるものがある。
明治初期の青年たちのキリスト教熱は、圧倒的な文明開化の渦の中で、日本独自の価値を否定されそれに代はる価値を教へられなかつた青年たちの魂の乾きの中で、西洋文明の奥にある「霊性」に魅かれて行つた為に生じた現象である。新渡戸稲造を含め明治のクリスチャンは、その殆んどが武士の家庭で育ち、幼い頃から高い道義心と忠誠心が養はれてゐた。それ故、日本人としての誇りと熱烈なる愛国心を抱いてゐた。
新渡戸稲造について、関西学院大学長を務めたカナダ人のC・J・Lベイツ氏はかう回想してゐる。「新渡戸博士の心細やかな礼儀は、博士に出会ふ栄に浴したすべての人の心を魅了したし、博士の透きとおるばかりの正直は、博士と関はりをもつすべての人の信頼をかちえた。にもかかはらず博士は、およそ祖国に加へられた中傷や不正には、すぐさま憤りを発し怒りを燃やす心をもつてをられた。」と。
新渡戸は国連事務局次長を終へて帰国後に昭和天皇の前でご進講を行ふなど、昭和天皇を深く尊敬し、昭和天皇からも絶大なる信頼を得てゐた。昭和7年、満州事変後の日米の確執の中、七十一歳の新渡戸は昭和天皇のご意向を受けて、日本の立場への理解を広める為に渡米、約一年間全米を講演して回つてゐる。又、太平洋問題調査会の日本代表として、上海で開催された太平洋会議では、支那代表の誹謗中傷に真つ向から異論を唱へ反駁してゐる。非公式の場では、支那代表の胸ぐらをつかんで激しく抗議したといふ。一見温和で優しく紳士の代表の様な新渡戸だが、不正に対しては烈火の如く怒り、不正義を正す勇気を生涯貫いた。
新渡戸稲造は翌昭和八年にカナダのバンフでの太平洋会議終了後病床に付き、十月十六日に亡くなつた。最後の言葉は、「まだ、死ぬわけにはいかない。祖国への奉仕が終はつてしまふまでは死ぬわけにはいかないんだ」であつた。
新渡戸稲造は大正3年に盛岡でバスの転落事故に遭ひ、その病床で「一日に一言の文章を読むことで修養を高める事が出来ないか」と想を練つて、自らの好きな道徳に関する小文を三百六十六編選び翌年出版したのが『一日一言』である。私は、全集や(財)新渡戸基金から出されたもので愛読してゐたが、昨年秋にPHPから『【新訳】一日一言』として83年を経て出版された。
この中で新渡戸は117人(百人は日本人)から引用し、4百首を越す和歌を紹介してゐる。一番多いのは明治天皇で20回、次はキリストの9回、北条時頼の6回、一休和尚・橋本佐内・松平定信の4回、楠木正成・熊沢蕃山・沢庵和尚・徳川家宣・ナポレオン・藤原良経の3回と続いてゐる。勿論、孟子・王陽明や中江藤樹・佐藤一斎・大塩平八郎・西郷南洲・吉田松陰等の言葉もある。その博学と先人に対する深い憧憬とが窺はれる素晴らしい書物である。
新渡戸稲造はその生き方を月に託して和歌で示してゐる。
見る人の心ごころにまかせおきて高嶺に澄める秋の夜の月
わづかなる庭の小草の白露を求めて宿る秋の夜の月
孤高の潔白なる生き方と、全ての人に降り注ぐ慈愛の生き方の双方を併せ持つたのが新渡戸稲造だつた。「内なる光」=「良知」のみに依拠した生き方を貫いた新渡戸稲造は正に新渡戸流陽明学を生き抜いた、代表的な日本人である。
新渡戸稲造を導いた117人の先人達
八十三年を経て再刊された『一日一言』
広島『祖国と青年』の会からの要請で始めた、日本陽明学派の先人達に学ぶ連続「日本の誇りセミナー」も2年10回を数へた。又昨年は、秋田で3回、仙台で2回、鹿児島でも2回、同様にセミナーを開催した。
陽明学を学ぶ事は、王陽明及びその脈流に居る多くの日本人の生き方と残した言葉とを学ぶ事であり、「致良知」「知行合一」「事上磨錬」「万物一体の仁」など王陽明が指し示した言葉を自らの生き方に昇華させる事に他ならない。その中から他に惑はされない、自らの本心(良知)のみに依拠して生きる力強い生き方が確立されて行くのである。
私は、朱子学と陽明学の違ひについて、キリスト教の「カソリック(旧教)」と「プロテスタント(新教)」の様なもので、朱子学は教義を重んじたが、陽明学は自らの心の良知に絶対を求めた為に、プロテスタントの如く多種多様の陽明学が生まれた、と説明してゐる。かつて、三島由紀夫氏の「革命哲学としての陽明学」を否定した自称陽明学者の裁判官が居たが、それは奢りといふもので、その裁判官流とは別に、生死を超える力強い三島流陽明学は確かに存在した。その意味で、私のは多久流陽明学である。セミナーで私が紹介してゐる先人達の生き方と言葉は、それが受講者の糧となり、生き方に消化されて行つた時に、それぞれ独自の陽明学が生まれて来るのだ。陽明学の学びでは、人のコピーには決してならない。
昨年最後の広島セミナーでは新渡戸稲造博士を取り上げた。明治を代表する国際人である新渡戸稲造は、クリスチャンであり、陽明学と何の関係があるのかといぶかる人も居るだらうが、私の捉へ方で言へば新渡戸稲造は紛れも無く日本陽明学派の道統に連なる真日本人である。新渡戸は、著書『武士道』の中でも王陽明について詳しく述べ、王陽明の言葉が武士道に大きな影響を与へた事を記してゐるし、「武士道」を「平民道」に昇華すべく、一般大衆の修養の為に記した数多くの著書の中にも陽明学の言葉が頻出する。
新渡戸稲造はクリスチャン(祈祷の行を重視するフレンド派)としてひたすら神に祈り、自らの心の中の神である「内なる光」に従つて生きた。この生き方は、陽明学の「良知」を致す生き方と相通ずる所がある。日本陽明学派の始祖と言はれてゐる中江藤樹は、宇宙の根元神としての「大上天尊大乙神」を祀り、孝経を毎日唱へて自らの「良知」を磨く生き方を貫き、後世の人から「隠れキリシタン」と誤解されたりしてゐる。又、西郷南洲の座右銘「敬天愛人」は、現代ではクリスチャンの学校で信條として愛用されてゐる。この様に、陽明学とキリスト教には相通ずるものがある。
明治初期の青年たちのキリスト教熱は、圧倒的な文明開化の渦の中で、日本独自の価値を否定されそれに代はる価値を教へられなかつた青年たちの魂の乾きの中で、西洋文明の奥にある「霊性」に魅かれて行つた為に生じた現象である。新渡戸稲造を含め明治のクリスチャンは、その殆んどが武士の家庭で育ち、幼い頃から高い道義心と忠誠心が養はれてゐた。それ故、日本人としての誇りと熱烈なる愛国心を抱いてゐた。
新渡戸稲造について、関西学院大学長を務めたカナダ人のC・J・Lベイツ氏はかう回想してゐる。「新渡戸博士の心細やかな礼儀は、博士に出会ふ栄に浴したすべての人の心を魅了したし、博士の透きとおるばかりの正直は、博士と関はりをもつすべての人の信頼をかちえた。にもかかはらず博士は、およそ祖国に加へられた中傷や不正には、すぐさま憤りを発し怒りを燃やす心をもつてをられた。」と。
新渡戸は国連事務局次長を終へて帰国後に昭和天皇の前でご進講を行ふなど、昭和天皇を深く尊敬し、昭和天皇からも絶大なる信頼を得てゐた。昭和7年、満州事変後の日米の確執の中、七十一歳の新渡戸は昭和天皇のご意向を受けて、日本の立場への理解を広める為に渡米、約一年間全米を講演して回つてゐる。又、太平洋問題調査会の日本代表として、上海で開催された太平洋会議では、支那代表の誹謗中傷に真つ向から異論を唱へ反駁してゐる。非公式の場では、支那代表の胸ぐらをつかんで激しく抗議したといふ。一見温和で優しく紳士の代表の様な新渡戸だが、不正に対しては烈火の如く怒り、不正義を正す勇気を生涯貫いた。
新渡戸稲造は翌昭和八年にカナダのバンフでの太平洋会議終了後病床に付き、十月十六日に亡くなつた。最後の言葉は、「まだ、死ぬわけにはいかない。祖国への奉仕が終はつてしまふまでは死ぬわけにはいかないんだ」であつた。
新渡戸稲造は大正3年に盛岡でバスの転落事故に遭ひ、その病床で「一日に一言の文章を読むことで修養を高める事が出来ないか」と想を練つて、自らの好きな道徳に関する小文を三百六十六編選び翌年出版したのが『一日一言』である。私は、全集や(財)新渡戸基金から出されたもので愛読してゐたが、昨年秋にPHPから『【新訳】一日一言』として83年を経て出版された。
この中で新渡戸は117人(百人は日本人)から引用し、4百首を越す和歌を紹介してゐる。一番多いのは明治天皇で20回、次はキリストの9回、北条時頼の6回、一休和尚・橋本佐内・松平定信の4回、楠木正成・熊沢蕃山・沢庵和尚・徳川家宣・ナポレオン・藤原良経の3回と続いてゐる。勿論、孟子・王陽明や中江藤樹・佐藤一斎・大塩平八郎・西郷南洲・吉田松陰等の言葉もある。その博学と先人に対する深い憧憬とが窺はれる素晴らしい書物である。
新渡戸稲造はその生き方を月に託して和歌で示してゐる。
見る人の心ごころにまかせおきて高嶺に澄める秋の夜の月
わづかなる庭の小草の白露を求めて宿る秋の夜の月
孤高の潔白なる生き方と、全ての人に降り注ぐ慈愛の生き方の双方を併せ持つたのが新渡戸稲造だつた。「内なる光」=「良知」のみに依拠した生き方を貫いた新渡戸稲造は正に新渡戸流陽明学を生き抜いた、代表的な日本人である。
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