「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

今、甦る『明治の精神』と日露戦争の真実(『祖国と青年』平成13年5月号掲載)

2020-08-01 12:04:09 | 英霊顕彰
日露戦争一〇〇年を前に
今、甦る『明治の精神』と日露戦争の真実 
                       (『祖国と青年』平成13年5月号掲載)
                                多久善郎

   日露戦争一〇〇年を前に

 明治三十七年(西暦一九〇四年)に日露戦争が勃発して以来、明後年で丁度一〇〇周年を迎える。そのような時、熊本県のある高校が、同窓の出征将兵の手紙を集めた『日露戦争従軍将兵の手紙』を出版し、話題となっている。そこには、国運を賭して戦いに赴いた明治の青年達の志と誇りとそして、戦場での様子が率直に記され、かつ母校の先生や後輩達を思う真心が溢れている。
 その高校の名は済々黌(せいせいこう)、明治十五年(一八八二)に創立され、明年、一二〇周年を迎える。この間、質実剛健の校風の下、数多の人材を世に送り出し、戦前は、陸士・海兵に多数進学している。それ故、日露戦争にも将兵として約三〇〇名が出征し五十一名が散華している。当時の校長は、済々黌育ての親といわれる井芹経平黌長(済々黌では校長は黌長と記す)。

   日露戦争を通した人間教育 
 
 井芹黌長は、日露戦争に従軍した済々黌同窓の将兵一人一人に対し、自ら筆を執り、かつ在校生にも呼びかけて、都合八回の慰問状を送っている。日露戦争という国家未曾有の大戦争に当り、国家の命運を担って出征した同窓将兵と、在校生との精神的な交流を計り、それを通じて、済々黌が目指す「大義を明らかにする(同黌三綱領の一番目)」事を在校生に確実に受け継がせたいとの教育的な信念によるものであった。
 それに対し、戦地から井芹黌長や在校生へ向けて返信が多数寄せられた。日露戦争後、井芹黌長は校内に逸早く、亡くなった同窓将兵の慰霊塔である「忠烈の碑」を建てると共に、戦役記念室を設け、これらの手紙を巻紙にして表装し『日露戦役記念帖』として大切に保存した。その後、昭和六年に熊本県で催された陸軍大演習の際、昭和天皇が同黌に行幸された際には、天覧に供されている。

  平成に甦った明治の精神

 しかし、昭和二〇年の敗戦・占領により、軍人を多数輩出した同黌は占領軍の厳しい監視下に置かれた。事態を憂慮した同黌関係者は、占領軍に没収されそうな歴史史料を分散して隠し、この『日露戦役記念帖』も木箱に入れられ風呂敷に包まれて、校内の何処かに保管された。そして、そのまま時が流れ、いつしかその存在は忘却の彼方へと押しやられてしまっていた。
 だが、明治の先人の魂が引き寄せたのか、平成四年、同黌体育館の新築に当り、旧武道場を「済々黌歴史資料館」として改築する事が決定し、校内の全ゆる所を点検した所、同黌応援同好会部室奥の棚の一番上で、風呂敷に包まれたこの『日露戦役記念帖』の木箱が発見されたのである。その中には、全長二〇メートルの巻紙に、日露戦争時に送られた手紙が、上下二段に装丁されて、ぎっしり詰まっていた。それが、何と十八巻もあったのだった。発見された手紙は、二〇八人・四四三通という莫大な分量に及んだ。

  創立一二〇周年記念事業として

 その後、発見者の片岡先生(東洋史専攻)を中心に解読に着手、解明できた手紙の主の遺族の方を捜し、連絡し、手紙のコピーをお渡しした所大変感激され、同黌には感謝の手紙が次々と寄せられるようになった。思わぬ反響の大きさに、平成十年より、この『日露戦役記念帖』の全てを解読する計画が決定。十二年からは校務として九人の教師による「日露戦役記念帖編集委員会」が組織され、作業は本格化した。遺族の方を捜すという作業も同時並行で行われ、遂には七十五名の方の写真が明らかとなり、本に掲載する事が出来る様になった。これらの成果は同窓会に伝わり、済々黌一二〇周年記念事業の一環としてこの『日露戦争従軍将兵の手紙』の出版が決定し、本年三月二〇日に発刊されたのである。

  四四二通の史料的価値

 日露戦争では、将兵が戦地から出す手紙については、郵送料がかからず、夥しい数の手紙が出されている。しかし、それが今日まで保存されている例は極めて少なく、現在まとまった形で出版されているものは数点にすぎない。しかもその殆どは、地域出身の兵士達の手紙である。それに比して、今回の『日露戦役記念帖』の特質は、手紙を書いた二〇八名中一四七名(七一%)が将校であり、各自が一定の世界観を持っており、手紙の中にも世界情勢への目配りが随所に見られる事だ。又、母校の恩師や後輩という親しい相手に対してかなり本音で率直に心情を述べている点にある。

 それでは、これらの手紙の中からいくつかを紹介していこう。(一部原文を読みやすくする為、送りがなを加えたりしています。)

   銃後の支援への感謝

 井芹黌長を始め多くの生徒達による心情あふれる慰問状は、戦地での将兵の心を如何に励ました事か。ある手紙には「陣中ニ最モ歓迎サルルモノ」として「一、書簡 二、近来流行ノ慰問袋 三、恤兵品中主ニ絵端書」と記されている。
 小坂武雄砲兵大尉は「野生(自分)等ノ未来ニ於テハ勇往邁進ノ気象ニ富マルル諸君ノ在ルアリ。野生等ノ後方ニハ強大ナル国民一致ノ後援アリ。野生等ハ何等ノ顧慮ナク一意専心、来ルベキ大決戦ニ向フベク候。」と記しているが、実際、殆どの手紙に、この戦争の勝利は、陛下の御稜威と国民の一致の支援によるものだとの言葉が記されている。日露戦争に従軍した将兵たちの明治国家への絶大なる信が伺われる。

   高い士気

 それは、当然日本軍の高い士気を生み出す。木下宇三郎砲兵中佐は、戦闘で負傷し内地の病院で療養中にもかかわらず、次の様に記している。「小生の病気も漸次快方に赴き、爾後の戦場には参加出来る様致したき心組にて、日夕、神かけて黒鳩(ロシアの司令官クロパトキンの事)が退却せざる様、又露国が内政の関係上過早の頭を下げざる様、祈り居り申し候」と、その士気の高さには驚かされる。
 
   ロシア軍の実態―強さと弱さ

 士気の高い日本軍の前に立ちふさがるロシア軍は、当時世界最強の陸軍と言われていた。その名に劣らぬ、防御陣地の素晴らしさについて、渡邊友松砲兵少尉は感嘆して、こう記している。「首山堡(遼陽ヨリ二里)南方敵ノ陣地ハ実ニ其ノ防禦工事スバラシキモノニテ、我工兵隊等ノ到底作業シ得ベカラザル程度ニテ、私等ガ士官学校ニテ築城学ノ模型ヲ見ル様デス。実ニ立派ナ工事デス。ソシテ単ニ工事ガ巧ミナルノミデナク、能ク地形ヲ有利ニ戦術的ニ利用シテ居ル事ノ上手ナ事モ感服シマシタ。」と。
 又、石川喜代見砲兵中尉は「得利寺の戦闘の際の如きは、彼が砲兵を撲滅するに、如何に我が砲兵が苦心せしかは筆紙に尽し難く候。殊に其の砲兵の射撃正確なるには驚き申し候。」と驚嘆している。しかし、何故ロシア軍は敗北するのか、続けてこう記している。「而し常に彼れが兵の運用妙期を失し、又積極的の攻撃精神に欠ぐる所あるは、敵ながら残念に存じ候。」と、敵の弱点はその運用のあり方であり、消極性にありと喝破している。
 ロシア兵の士気は戦闘を重ねる毎に低下して行った。明治三十七年八月九日付けの緒方整粛陸軍通訳の手紙にはこう記されている。「戦えば必ず敗を取る露兵等の間には、此頃日本兵には到底如何なる手段を用ひても戦勝絶対的に六ヶ敷と噂とりどりなりと。又日本兵の姿さえ見れば、敵対の勇気頓に挫けるとの事に候とは、小生の訊問に答えし或捕虜の言に御坐候。」
 三十八年一月二十五日付けの平田早苗歩兵中尉の手紙によると「是マデ、下士卒デハ往々単独投降シ来ルモノアリシガ、作今将校ニボツボツ投降シ来ルモノモアル由ニ御座候。」この事は「旅順陥落ノ結果カモ知レザルベク候」と記している。

  ロシア国内騒擾についての情報

 当時の日本の将兵は、情報に聡く新聞なども良く見ていたらしい。一九〇五年(明治三十八年)一月二十二日に露都ペテルブルクで生起した「血の日曜日事件」についても三人の手紙の中で触れられている。二月一日付けの鵜殿輝長歩兵少佐の手紙には「情報ニヨレバ魯本国ニハ大分騒擾シツツアリ。ヤルベシドシドシ。革命ノ起ル事ハ吾人ノ大ニ利益トスル処、間接ニ戦の勝敗ニ関スル事ハ少々ナラズ。」と記されている。

   日露兵士間の友情

 戦争が長期化し、厳冬の中での対陣が長引くに連れ、日露将兵間には様々な交流が生起した。田村 徹砲兵少尉の三十八年一月二日付けの手紙には「最前線到ル処国旗ヲ挙ゲ、尚ホ丘陵ニハ松ト国旗ヲ挙ゲ、国威ノ盛隆ヲ祝シテ敵ニ見セ申シ候。尚ホ或ル処ニテハ絵端書ドモ敵ニ送リ、又タ正月六日ハ敵ノクリスマスニ相当し、充分祝宴ヲ盛ニセヨ、一発モ撃タヌカラト敵ニ申シ遣シ候。」とあり、当時の日本人の優しさが伝わってくる。
 又、次のような感動的な話を、園田保之砲兵少尉は記している。「露の負傷兵に対し我兵が貴き……真に戦場にありては一滴千金にも換へ難き……その貴き水筒の水を与へ、また何程金銭を投じても時機によりては容易に得られぬ巻煙草を惜しげもなく恵むをしばしば目撃致し候。現に摩天嶺の第一回の逆襲(七月四日)の節などは、外国武官は此等の同情ある文明的行為を目睹し、感激の余り小生の傍にて三回までも撮影致し候。」

    厳寒との戦い

 日露戦争は厳寒との戦いであったと良く言われるが、大陸での越年は想像を絶するものであった。坂本逸茂砲兵大尉は満州の冬を歌に託して「呼気氷る鼻水氷るひげ氷る小便氷ればくそも氷けつ」と可笑しく書いている。
 手紙の最後に「筆氷リ、手凍エ、乱筆御免。」と記されたものもある。そのような中で書かれた手紙だと思うとなおさら有り難い思いがこみ上げてくる。
 戦争中最も恐れられたものは凍傷であったが、島崎龍一陸軍一等軍医が三十七年十二月二十六日に出した手紙によると、「各兵は注意周到なる防寒具の為、未だ凍傷患者殆ど皆無に候」とあり備えが万全であった事が解る。
   
   戦争の実態―悲惨と感動

 戦場の様子についても多数記されている。
田村 徹砲兵少尉は次の様に記す。「戦争ト云フモノハ有形無形凡テ極端ニ走ルモノヲ以テ満タシ居リ候如クニ存ゼラレ候。其惨ノ惨タルモノハ友軍ノ死骸散乱セル光景。其壮ノ壮ナルモノハ敵ノ屍山ヲ為シ居ル光景。一番美シキハ敵ノ砲弾ビューバンビューバン来ル時ニ泰然屈セズ射撃ヲナス様。一番心地ヨキハ我砲弾敵ニ命中スル様。一番苦シキハ敵ノ陣地見ヘズ、丸(弾丸)バカリ飛ビ来ル時。一番無遠慮ナルハ敵ノ丸(弾丸)。一番厳粛ナルハ敵前ニ於ケル命令。一番柔和ナルハ戦友間ノ友情等」。
 澤 友彦歩兵少尉は戦場での苦しみと楽しさについて面白い表現をしている。「方程式にて示さば、 困難―(珍しき事+面白き事+可笑しき事)=〇 位にて候。」と。

    後輩への戒め

 これらの手紙は、黌長や在校生からの慰問状に対する返信であり、その中には、当時の中学生達を教え諭すような内容のものも多数見られ、極めて興味深い。 
 先にも引用した園田保之砲兵少尉は、三十八年一月一日付けの生徒宛ての手紙にこのような躍動する文章を記している。「旅順落ちたり旅順落ちたり。歌ひに歌へ。狂ひに狂へ。大に躍り大に跳ねよ。世に馬鹿者あり、曰く戦勝に狂喜するは大国民の襟度にあらずと。敢為の健児!血気の同胞!是等馬鹿者の言を信ずる勿れ。(中略)諸君、戦は真に気を以て遣るものなり。諸君、旅順の戦略的価値を問ふを止めよ。只大に歌ひ、狂ひ、躍り、而して跳ねよ。然れども直に旧に復せよ。宛も昨日何者のありしかを知らざるかの如くに、由来、冷頭と熱頭と併せ有せざる国民は真に大事をなす能はざるなり。(個人に於いても然り)」。なんと言うバランスのとれた感性であろうか。「冷頭」と「熱頭」とをあわせて持つ事が出来るものこそが大いなる力を生み出すのである。

    戦争熱を戒める

 生徒達からの慰問状の中には、戦争熱に浮かされたような軽薄さが感じられるものもあったのだろうか、天草種雄歩兵大尉は次の様に記している。「戦局の進捗は是を帝国の陸海軍人に佑し、諸君、希はくば冷静なる頭脳を以て清心学生の本分たる学芸に奮励せられん事切望の至に堪えず。(中略)我の親愛する学生諸君!戦争は是を外吹く風ときき流し、大国民的態度を以て其本分に尽砕せられん事、くれぐれも切望に堪えず。」

   語学学習の重要性

 戦地での体験から、語学学習の必要性を後輩達に訴えている手紙も二通ある。園田保之砲兵少尉は「此度小生が戦地に於いて最も感じたるは語学にて御坐候。多くの外国武官、外国新聞記者の間に立混じりたるとき、語学の拙きは赫顔汗背位の事にて相済まず候。(中略) 年若き有篤なる済々黌の健児諸君、決して決して語学をゆるがせにせられざらむことを希望に絶えず候。」。切実なる訴えかけであった。

   在校生の絵はがき
 
 生徒達が戦地に送ったもので、喜ばれたものに「絵端書(絵葉書)」がある。当時の絵葉書とは文字通り、生徒達が葉書に絵を描くのである。それをもらった喜びを平田早苗歩兵中尉は「過日ハ生徒諸君ヨリ御手入ナル絵端書御恵送下サレ、実ニ有難ク、嬉シク珍ラシク、日夜拝見致シ居リ候。訪フ人アレバ必ズ見セル。見ル人毎ニ、嘆賞セザルハナキ有様、小生ノ得意御推察下サレタク候。」
と記している。
  
   日本海海戦一週間前

 海軍御用船「営口丸」の運転士であった中野治朗は、明治三十八年五月二十一日付けで手紙を送っているが、この日は日本海海戦の六日前であり、緊張感が伝わってくる。「敵船も近海に彷徨致し居り候由、我が船隊の邀撃殲滅するは必定の事と確信致し居り候へ共、時下濃霧の期に差し迫り、吾が行動を妨げざらん事をのみ是祈り居り候。」

   久邇之宮殿下の事

 砲兵中尉の杉生 巖は明治三十七年八月二十五日の事として次のエピソードを記している。その日、夜襲にて敵地を占領せんと夕方に宿営地を出発した所、「村端の小高き丘に親しく生等の行軍を見らるる一将校の立ち居られ候。近き見る、此は軍参謀久邇之宮殿下にて、従者もお連れなく生等の出発を送らるにてありき。猛きも情にもろき中隊の兵士共、金枝玉葉御身を以て千辛万苦も御厭なきを拝しては、深く感涙にむせび申し候。殿下の御勇ましき御鳳姿に一層の勇を鼓し、」て進軍したと記している。 
   
 以上、この度発刊された『日露戦争従軍将兵の手紙』から幾つかを紹介してきたが、戦地で記された手紙の行間からは、明治という時代に国家の命運を背負って戦い抜いた青年達の、人間としての質の高さと幅の広さとが感じられる。明治日本の栄光を築き、二つの戦争に勝利する事によって、世界の一等国へ飛躍せんとした、当時の日本人の一途さが伝わってくる。この『日露戦争従軍将兵の手紙』は四百八十二ページに及ぶものであり、巻末には筑波大学の大濱徹也教授の解説も載せられている。出版社は同成社、定価は八千円だが、「祖国と青年」誌を見ての注文と銘記し、済々黌同窓会(電話・FAX 〇九六‐三四六‐三二二五)に直接注文をすれば、同窓生並の特別価格で分けてもらえる。日露戦争の学習者のみならず、日本近代史についてその真実を知らんとする者、必読の一書である。





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