チャンギーに生贄と散ったB級戦犯の無念と家族愛
『立ち上がる国祈る 中村鎮雄巣鴨チャンギー日記』
(『祖国と青年』平成20年8月号掲載)
多久善郎
熊本市立田霊園に建つ「鎮魂碑」
私が在住する熊本県には、所謂「戦犯」と呼ばれた熊本県出身者四十七名の冥福を祈る鎮魂碑が建立されており、今も心ある人々の参拝が絶えない。この鎮魂碑は、「戦犯」として犠牲になられた「法務死」の方々の遺族で構成する「白菊会熊本県支部」の手により昭和三十七年に建立されたものだが、建立に当っては当時の熊本県知事寺本広作氏・熊本市長坂口主税氏の支援と自衛隊第8師団の協力が行われている。慰霊碑建立に要したお金は七十万円、内三十万円が石屋さんへの支払いだったという。県知事は援護課を通じ二十万円を寄付、熊本市長も社会課を通じ十万円を寄付されている。更に坂口市長は、鎮魂碑建立地として熊本市が管理する立田山霊園の永代使用を許可し提供している。この時代、県も市もその中心に居た方々は法務死された方々に対して深い同情の思いを抱いていたのであった。碑文には「大東亜戦争ノ終結ニアタリ戦勝国ニヨル一方的軍事裁判ノ結果 戦犯ノ汚名ヲ受ケ 祖国ノ復興ト世界ノ平和ヲ祈念シナガラ従容死ニ就カレタノハ本県出身ノミニテモ四十七士ニ及ンダ ジライ十有七年 我国ハ繁栄シアジアハ独立シタ ソレコソコレラ丈夫ガ献身ト祈念ノ上ニ築カレタモノトイワネバナラナイ ココニ英霊ノ偉烈ヲタタエ 芳名ヲ録シ 断腸ノ遺族白菊会トトモニ碑ヲ建テ以テ後世ニ伝エル次第デアル 昭和三十七年七月 熊本県英霊顕彰会」簡潔ながらも見事に処刑された方々の無念の思いと志の達成、遺族の悲しみが表現されて刻まれている。県知事を始め戦争を体験された方々の「戦犯」として犠牲になられた方々に対する深い同情の思いが伺われる。鎮魂碑建立の中心になられたのは、故中村鎮(しげ)雄(お)陸軍大佐の未亡人俊様だった。そして今は三男の中村達雄氏(熊本県郷友会会長)が鎮魂碑を守られている。だが、昭和五十四年に俊様が逝去された時に、熊本市は「責任者不明・祭祀不明の場合は鎮魂碑用地の更地返還を求める」との無情なる通告を行ったという。歴史に対し無知なる行政担当者にはあきれかつ怒りが湧いてくる。中村達雄氏も高齢になられ、県外在住のご子息が退職後は熊本に戻られて碑を守っていく覚悟を示されてはいるが、個人的に守っていくだけでは不安もある為、鎮魂碑存続に対する憂念を抱かれている。私も、日本会議熊本のお世話をさせて戴く中で中村氏と面識を有する中でこの鎮魂碑にご案内戴き、この碑の存続の為に力を尽くせないかと思っている。
戦後の厳しい状況の中で、市長や知事までも動かしてこの碑の建立に当られた俊奥様の思い、その志を受け継がれているご子息達雄氏の思いを伺うにつけても、処刑された中村鎮雄氏はどんなに素晴らしい方だったのだろうかとの思いを抱き続けて来た。その疑問に答える素晴らしい編書『立ち上がる国祈る 中村鎮雄巣鴨チャンギー日記』(熊日出版)を中村達雄氏が本年二月に出版された。それは、父君の中村鎮雄氏が巣鴨プリズンやチャンギー監獄で記された日記や書簡を集め、手に入るだけの裁判資料をも収集して出版されたものであり、故人の心の内と姿とが偲ばれる素晴らしい内容である。更には、復讐劇を演じた戦勝国イギリスの横暴の様子が実体験として記されており、戦犯裁判の欺瞞性を暴く一級資料となっている。だが、私が最も感動したのは、中村鎮雄大佐の国体に対する揺るぎなき信と生命を翻弄されながらも終生自らの信仰を深め続けて行かれた求道の姿勢である。そして、日記や手紙の端々に溢れ出る家族に対する深い深い愛情だった。『中庸』には「君子の道は、端(はじ)めを夫婦に造(な)して、其の至れるに及びては、天地に察(あき)らかなり」と道徳の始めは夫婦の調和にある事を説いているが、中村家は当に夫婦相和して家族愛に溢れる家庭であった。
書名となった「立ち上がる国祈る」は中村鎮雄氏の辞世の中の言葉である。辞世として中村氏は漢詩一首短歌三首を遺されている。その中の一首からの引用である。
敗戦のにゑと散りゆく我はまた
ただ立ち上がる国祈るのみ
「にゑ」とは「生贄(いけにえ)」の「贄」である。敗戦後の祖国の行く末を気に掛けられつつ死に赴かれた中村氏の無念の思いが伝わって来る辞世である。
何故中村鎮雄大佐は処刑されたのか
明治十八年九月生れの中村鎮雄大佐は済々黌中学を卒業後陸軍士官学校(第十九期)に進まれ、四十年に陸軍歩兵少尉(歩兵第二十三聯隊)任官。剣道・銃剣術に優れていた中村少尉はその後陸軍戸山学校(体育専門の学校で、剣術と体操の実戦的訓練を目的とする)に二度進み、更には教官にもなられている。中佐の時に歩兵第四十五聯隊で満州事変に出征し負傷されている。昭和十年五十一歳で大佐に任官し待命予備役に編入されている。十二年に特別志願で軍務に復帰され配属将校として幾つかの学校に赴任された後、昭和十八年六月二十日から十九年七月二十四日迄、タイの俘虜収容所長を務められた。そのわずか一年余の俘虜収容所長の立場によってB級戦犯として処刑されたのである。大東亜戦争当時、インド洋の制海権を失った日本軍はタイとビルマ(ミャンマー)とを繋ぐ「泰緬鉄道」を敷設してビルマ戦線への補給を確保しようとした。昭和十七年七月から十八年十月にかけて行われたこの敷設工事は、地形の複雑な○○○キロに及ぶジャングル地帯での突貫工事の為、膨大な数の死者を生み出した。当初五年はかかるといわれた工事をビルマ・タイ双方から着工してわずか一年四ヶ月で完成、日本軍一万二千人、連合軍捕虜六万二千人、タイ人労働者数万人、ビルマ人労働者十八万人、マレーシア人労働者八万人、インドネシア人労働者四・五万人が使役された。建設現場は劣悪で特に工事の後半は雨季にも拘らずさらなる迅速さが要求され、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に及び、連合軍捕虜1万2619人が死亡、アジア人労働者も数万人が死亡したとされている。
中村氏がタイ俘虜収容所長を務められたのは、この工事の最後の四ヶ月に過ぎない。前所長の佐々誠少将(シンガポールのオートラム監獄に収監、絞首刑)の時に泰緬鉄道工事は始まったのだから佐々少将だけで充分のはずだが次の所長迄生贄とされたのである。連合国捕虜の使役とその死亡に対して捕虜収容所長が責任を負うべきなのか。この点についての日本軍の機構とイギリス軍の機構の考え方には食い違いが存在する。この本の編者である中村達雄氏はかつて陸上自衛隊に勤務され第六師団副師団長(陸将補)を勤められた事もある方だが、その点についてこう説明して戴いた。イギリス軍の場合、捕虜を労役に使う場合の組織と捕虜の生活を管理する組織(収容所)は明確に分けられており、相方が対等に交渉し責任を負う様になっているが、日本軍では、南方軍の直属だった捕虜収容所が南方軍鉄道司令官の下に配属となった場合、鉄道司令官の下に全てが一元的に管理される組織となり、そこでは捕虜収容所の独立性は失われる。実際、中村氏が所長として赴任した当時、労役に使われた捕虜は、山奥の鉄道沿線に沿って分散する作業所で生活しており、中村所長がそこを全て訪問する事さえ不可能だったのである。各地の鉄道聯隊の管理下に収容所の分所も置かれ、所員は捕虜の世話に当っていたのである。それ故、食糧や医薬品の配給等については南方軍鉄道聯隊の補給に頼らざるを得なかったのである。この様な日本軍の一元管理システムは現在の自衛隊でも運用されているという。
中村鎮雄氏はタイ俘虜収容所に赴任するに当って、当時九州帝国大学法学部に在学していた次男の尚雄さんから国際法に関する知識を得て赴かれたという。中村所長は自らの責任の範囲でやれるだけの事は精一杯尽くされたのだった。それ故、昭和二十一年一月九日に戦犯容疑の呼び出しが自宅に届いた際も亡命を進める人も居たが、「然りと雖も、正しき裁判なりせば、余は直ちに釈放か一年ばかりも入獄すれば晴天白日の身となるに引替え、亡命は終生日陰の身たり。故に亡命を思い止ま」(著書よりの引用)られたのだった。
この事を予期されていたのか、中村氏はこの年の一月一日より、B5版のノートに日記を記し始められた。一月二十一日に熊本を出発、二十六日に巣鴨に収監、・シンガポールへの移動中は万年筆で、チャンギーの中では鉛筆で記されている。処刑によるこのノートの紛失を恐れた中村氏は、面会に来た同郷の後輩の矢野大佐に託して昭和二十二年九月に熊本の遺族の下に届けられたのである。日記は一月一日~四月二日まで記され、その後、十月十九日から翌二十二年三月二十三日で終了している。公判が十月二十一日に開始され二十七日の終了し、十二月三日に死刑判決が言い渡されているので、中村氏はノートの節約の意味で公判が始まる迄の記述を止められたのではないか。
敗戦国日本に対する憂い
中村氏の日記からの中から幾つかを紹介したい。巣鴨時代の日記には、当時の世評に対する中村氏の憂国の思いが綴られた箇所が出てくる。
二月八日 本日四日の新聞を見る(朝日)。然るに、日本に於て自発的に戦犯人を逮捕し、裁判するとのことにて岡田東海軍管区司令官はじめ参謀長等多数上級将校に及ぶとか。本件はB29の不時着俘虜を殺したるによるとのことなり。戦争中、爆撃して墜落せし敵飛行士なり。之を自ら発動して裁判するものなり。嗚呼、将来日本が立上がる機会有りとするも、恐らくは粉骨砕身、身命を捧げて御奉公するものはなからん。あゝ悲哉。日本は遂に立ち上り得ざるか。あゝ。
ノートの原文では、かく記された文章の上に赤文字で◎{をつけて、「日本ハ遂ニ立上リ得ザルカ」と大きく記されてある。中村氏の衝撃が伝わって来る。この事は、今年上映された映画「明日への遺言」(俳優の藤田まことが岡田資中将を演じた)の中でも出てきた様に、米軍が裁く前に日本側で裁判を行う事によって法務将校の責任逃れを計ると言う姑息な手段に出たものだった。占領下に於ける同胞相撃つが如き行為の持つ醜さが将来の日本人の精神に深刻な影響を及ぼす事を中村氏は指摘され、こんな事では日本は二度と立ち上がれないようになるとの深い憂いの念を抱かれたのである。又、紀元節の日記にはかく記されてある。
二月十一日 獄中紀元節。午前七時二階と下は戸前に整列、二階よりの指揮により宮城遥拝。次で二階の高橋三吉海軍大将の発声により陛下の万歳三唱、次で君が代一回合唱にて式を終る。一同の君が代、屋内をゆるがし、荘厳なりき。
捕われの身とは雖も、一糸乱れずに皇国の弥栄を祈る将兵の意気が伺われる記述である。
又、共産党の天皇制否定・家族制度解体の動きについても憂いを抱かれ、二月十五日の日記には、「共産党ハ国賊ナリ」と赤文字で記されている。その思いがつのられて二月二十日には「獄中随筆」をノートの後ろに書き始められ「我国体に就て」との長文を認められ、更には「其の一 米国の真意」「其の二 社会党」「其の三 共産党」「其の四 社会党共産党主義者の夫人達の言」「其の五 尾崎行雄の言」と憂慮すべき事どもを記され、最後に次の様に記されている。
結論 之を要するに敗戦のみじめさは我国体の改変に及ぼせり。残念の至りなり。尤も改良せらるべき諸件多々あり。夫は時世に適応せざるべからざるが故なり。然れども根本たる肇国以来の国体と其護持の精神たる大和魂の昂揚と家族制度(相当改変を要す)の確立は日本再建に最も其根底をなすものたるを確信するものなり。
中村氏の獄中での一日は「午前午後とも間々に詩吟、端唄、俚謡、薩摩琵琶をやる。毎朝必ずラジオ体操後、国体篇を吟ずることとせり。」(一月二十九日)と記されている様に、詩吟の国体篇を朗々と唱えられていた。それはチャンギーに行かれても変わらず、処刑前にも国体篇を吟詠されている。国体篇は旧制第七高等学校長の岩崎行親氏が詠じられたもので、「邈たり二千六百秋 日東国を肇むる神籌に基づく 国体の優風土の美 宇内万邦匹儔無し 豊葦原の瑞穂の国は 是れ我が子孫の君臨域なり 行くませ爾就いて之を治めせ 宝祚は天壌とともに窮極無からん 神訓炳として日星の如し 之を万世に施して民心寧し 三種の神器君道を教ゆ 之を無窮に伝えて帝徳馨し 我が皇神孫姓氏無く 日本を家と為し君を父に比す 億兆斉しく仰ぐ一家の君 義は乃ち君臣情は父子 親に孝ならんと欲する者は須く君に忠なるべし 国を愛せんと欲する者は須く君を尊ぶべし 忠孝一致君国一なり 我が国の憲法古文に存す 嗚呼美なる哉日東君子の国 上下心を同じうして其の徳を一にす 嗚呼優なる哉万世一系の君 列聖相承けて功勲を垂れたもう」という内容である。我が国の国体に対する不動の信を詠み込んだものであり。毎朝吟じられるこの言葉こそが中村氏の国体信仰の叫びであった。
チャンギー監獄・英軍の横暴
四月三日以降に英軍が管理するシンガポールのチャンギー監獄に収監された。チャンギー監獄の悪名はBC級戦犯について勉強した者には鳴り響いている。田中宏巳『BC級戦犯』(ちくま新書)には、「私的制裁の横行については、英軍が管理するシンガポールのチャンギー刑務所とオートラム刑務所に関する伝聞が非常に多い。シンガポールの両刑務所では一日中、殴る、打つ、蹴るという拷問の音が響き、日本人のうめき声が絶えることがなかったといわれる。拷問の一手段として食糧を支給しないという手段を使ったのは、英軍が最初であった。こうした私的制裁によって多数の死者が出たのは、両刑務所に収容されていた帰還者の説明で明らかだが、しかし実際にどれだけの犠牲者が出たか、英軍が発表するはずもなく今日まで不明である。」「戦犯裁判を行った七ヶ国は、当然死刑を認めていない。容疑者に対する嫌がらせ、いじめはどこでもあったが、死亡するまで暴行を加えたのはイギリスとオランダの二国が管理した収容所に顕著であった。この二国は、終戦時まで捕虜収容所で収容されていた自国兵を、そのまま日本兵収容所の警備兵に採用したり、戦犯裁判の検察官等に任用した。つまり復讐による私刑が行われてもおかしくない状況を作っていたのである。」と書かれている。又茶園義男編『BC級戦犯・チャンギー絞首台』にはチャンギーで服役帰還した伊野権谷氏の言として「殴り込みは実に残酷この上もありませんネ。昼のうちに誰をやるか目をつけているのです―あいつは現住民虐殺で裁判、絞首だ、いや終身刑だと言えば起訴の段階からはげしく、裁判進行中はより酷い。チャンギー監獄から、法廷に連行する看守(監視兵)が先ず法廷の証人の証言などで興奮して帰るわけ―これが直ぐ伝わる訳です。私と同じ監房にいた憲兵軍曹も徹底的にやられ、(略)何日か目の夜には遂に帰って来ませんでした。」と証言している。
これらの直接的な暴行は問題化し、時を経るに従って少しは沈静した様だが、中村氏の日記にもそのいやがらせの事が幾つか記されている(中村氏の日記は四月初めに収監されて以来十月十八日までは欠落しているのでその間の虐待については解らない)。
十一月五日 例の伍長、本日午後は凶暴性を現せり。背負投一本やり度気分す。
十一月三十日 夜三時、ジャガ(看守)が便所や洗面所で大きな響をさせ、又足音高く歩き回り、且つ高声に話して余等の安眠を大に妨害せり。
中村氏の日記には、当人が俘虜収容所長を経験された為か、獄中の毎日の食事内容についてノートの上欄に細かに記録されている。それを見れば公判前には配給のビスケットなども随分少なく当人を飢餓状態に置き思考を麻痺させ、判決後には絞首刑執行の利便性(絞首刑は本人の体重がかかって頚動脈を絞め上げる為)も考えてか食糧を多く与えて肥え太らせるやり方を取っている様に思われる。この点については食品の専門家の方に分析してもらいたいと思っている。中村氏は十二月三日に絞首刑が宣告され、死刑に処せられた人々が入れられるPホールに収監された。その後の日記にはこうある。
十二月四日 此処では食事は毎食思う存分に出来る故、寧ろ慎む必要あり。否らざれば却りて健康を害する恐れあり。(略)おじや及汁、茶は常にある故、何時食して可なり。
だが、ここでも虐待があった。
一月六日 食糧虐待再開。一月四日より。十二月末より食事は悪しくなりしが、一月四日より俄然悪しくなれり。
それでも一月十一日には普通の状態に戻っている。
中村氏は処刑宣告がなされた三月二十五日に、宣告に来た英軍に対し意見表明をされている。中村氏の最後については三名の方から遺族に宛てられた手紙が残っており、それがこの本の三章「絞首台へ」に掲載されている。その中の鴻澤又彦氏の手紙に次の様に記されている。「印度人将校一、英軍下士官一来り、明二十六日午前九時より中村鎮雄大佐以下五名の死刑宣告をなす。中村大佐左記の言を発表す (1)刑務所の待遇不良且非人道的なること。(2)戦犯裁判の非理不公平なることを米軍のそれに比較して訴え英軍に之を改める明なきを惜しむ、と述ぶ。彼等は苦笑を以て之を迎うるのみなり。刑務所待遇不平の点に付、更に調査せられ、大佐自己の待遇不当労働リンチ等の他、戦友に対する既往の例を挙げて陳述せり。」
かかる思いは日記を記されたノートの最後に「チャンギー戦犯一同の希望」と題する文章に最も良く表れている。矢野大佐に渡される直前に書かれたのか文字は後に従って走り書きとなっている。全文を紹介する。
一、我等は身命を捧げ、御奉公をなした。戦に勝ちてさえ居れば相当の恩賞にさえあずかる者なり。殊に余は感状を頂き居る由、さすれば金鵄勲章功三級位と思わる。敗戦なるが故に囹圄の身となりしなり。
二、チャンギー入獄以来の英蘭兵による虐待は言語に絶す。殊に英兵に於て然り。或は漸く生る丈の食糧を与えたり。労働、殴打、蹴る、突く等々枚挙に遑あらず。オートラム刑務所にては毎夜なぐり込みにて各室悲鳴絶えず。之が為、腸を切断して死したるものさえありしと。戸の開く音聞ゆれば生きた心地はなかりし由なり。
三、十二月末、印度兵(下士官以下)交替せしにより大に監視はよくなり私刑絶無となれり。
四、裁判は既に刑を定め形式になすのみ。而して裁判に非ずじて報復行為たるなり。此の少数の人々に対し終戦後報復行為を思い切て断行するとは非人道的行為なり。
五、死刑囚は彼等の不当なる報復に対しては到底甘んじ難き悲憤の情堪えざるも、死に対しては大悟徹底実に堂々たる態度を以て執行さる。平常の通り談笑しつつ詩歌を吟じ万歳を高唱して行く。
六、執行の前日は壮行演芸会を死刑囚一同で行う。行く者も送る者も放歌高吟をなす。
七、執行の朝は行く者は各人の部屋に対して「今から行きます。左様なら。御機嫌よく」と叫び、残留者は「左様なら。元気で行け」と交わす。何という悲壮なる光景ぞや。残留者の悲憤の涙留め難し。
八、死刑囚は皆堪え難き残念さを以て日々過し居るなり。国民よ、余等の苦しみ、此堪え難き侮辱、敗戦国家の犠牲者として国家を代表して死して逝くなり。どうか之をして犬死さするな。必ず時局定まりし上は一大人道問題として提議の要ありと信ず。又死刑されし人々は戦死者として取扱うことを希望して止まざるなり。吾等は決して国家の犯人には非らざるなり。世が世なりせば殊勲者たりしものなり。
又、永友吉忠陸軍中佐から遺族に宛てられた手紙には次の様に記されている。「執行の直後、その前祝を過したる監房の白壁には墨痕鮮かなる次の文句が残されあるを発見仕り候。『大英帝国よ、戦犯者に対し反省せよ。必ず吾吾の霊魂は二十年内に英国の滅亡を予言す。天必ず英国を許さざるべし。滅亡火を見るよりも明なり』。死に行く者の英国に対する共通の呪かと存ぜられ候。」
弄ばれた生命・異例の裁判長による減刑進言
実は、中村大佐の場合、十二月三日の死刑判決の際、裁判所が減刑を請願している。その事は十二月三日の日記にも記されているが、この本の第二章に「公判の記録」として在英ジャーナリスト冨山泰が入手された裁判資料が英文・訳文で紹介されており、資料②として、裁判長のフォーサイス英軍中佐が確認官にあてた中村大佐減刑嘆願の文書の写真と日本語訳「確認官あて 当法廷は、被告人中村鎮雄大佐(日本帝国陸軍)の罪一等を減ずるように進言する。その理由は、彼はコレラで死に瀕していた捕虜一人を射殺した日本軍将校を懲戒したことにより、指揮官としての地位を追われたからである シンガポールで 一九四六年十二月三日 裁判長 フォーサース中佐」が掲載されている。この中で紹介されているのは「藤井事件」でこの本の注釈には「泰俘虜収容所俘虜の間にコレラが発生し、感染を恐れた鉄道隊藤井中隊長が、軍医に重症患者の英国人俘虜の一人を殺害するように命じた。軍医はこれを拒否したが、藤井中隊長の拳銃を俘虜の将校が借りて俘虜一人を殺害した事件。中村鎮雄俘虜収容所長は、国際法違反のおそれがあるため、この件を軍の上層部へ報告し、同中隊長は軍法会議で処分された。軍上層部への報告は、捕虜取扱について慎重であるべきとしたためだが、南方軍司令部は中村所長を解任して内地勤務とした。」と書かれてある。この事が、中村所長の人道的俘虜取り扱いを証明する事となり、法廷も無視できなかったのである。中村氏は日記に冷静にこう記している。
十二月三日 (略)減刑請願などせずとも裁判長が適当の判決を下せば可なり。絞首刑を言渡し、減刑請願する所に大に政治的意味あることを証するに足る。(略)
此判決は大に政治的意味ありと思う。何となれば、之迄の泰俘は殆んど死刑なり。而して今度にて泰俘を打切るに就ては〆括を明にし、世界的有名なる泰緬線俘虜解決の為めにはどうしても所長、分所長に相当の責任罰を科し極刑に処し、以て世論に報い終局を明にしたものなりう。元来余の絞首刑はひど過ぎるなり。(略)此政略的判決なる故、余の減刑運動を裁判所がすることとなりたるなり。明日の紙上と英国議会への報告は世論に対し、彼之言うものなきが故なり。余は斯く判断す。余に対する極刑は無理なる事は裁判所が認めあるなり。
かくて、中村氏はPホールに入れられるも減刑が行われる事にわずかな希望を見出す日々を過すことになる。弁護士も死刑になる事は無いので安心するが良いと述べる。だが、この裁判長による減刑請願は実らなかった。中村達雄氏によると、英本国で当時の俘虜たちが温情あふれつ中村大佐の除名嘆願をしたり、タイムスにも減刑要求の記事が掲載され、英本国軍司令官の釈放命令が出されたとの記事もあるが、冨山氏の公判資料調査ではその記録は見つかっておらず、この間の経緯については英国側からも日本政府からも何ら説明もなければ陳謝もなく、真相は不明であるとの事である。中村達雄氏は「おわりに」の中で「父は日記・手紙の中に判決は政略的なものだと喝破していました。世界を股にかけたアングロサクソン特有の偽善で裁判し、判決し、助命嘆願し、時既に遅しの茶番で紳士面をしながら個人を弄んだだけにすぎない。『大英帝国よ、反省せよ』の父の最後の一語は重く、意味を持つ実感の叫びだと思います。」と述べている。
信仰の深まり
中村大佐は毎朝「国体篇」を詠じ君が代を斉唱されていたが、十二月三日の死刑判決(裁判所の減刑請願)以後、日課の中に観音経の謹写や般若心経の暗誦などを組み込んで死生観を陶冶して行かれた。この間、中村大佐の胸には「減刑請願」に対する一抹の不安がよぎり、死への覚悟を深められている。
一月二十一日 (略)余の減刑はどうも単なる法廷宣伝にて、上司は泰収容所長たるの故を以て許可せざるに非ざるや。其懸念頗る濃厚なり。何れは覚悟を要するなるべきも、一旦弛みたる信念は中々苦痛を感ず。余は自己の死よりも家族の愛に悩むものなり。
中村大佐は十二月末に、同囚の馬杉一雄中佐(四十四歳)から生長の家の信仰について教示を受け一月に『信の力』『甘露の法雨』『生命の実相』を読み始められ、だんだんと生長の家の教えに共感されて行く。一月二十三日の日記には「甘露の法雨を浄写。神想観を教えて貰う。」とあり、「神想観実施要領」を記されている。その後も「天使の言葉」を浄写されている。特に「神想観」は、朝は時間を合わせる事が出来ないが、夕方は生長の家総裁の谷口雅春先生の祈りの時間と同時刻に行じられている。この様な行的な信仰の深まりと共に二月・三月と日記には生長の家の「天地万物と和解せよ」との教えを自らに体現せんと課していかれた事の記述が幾度も出て来る。この間奥様宛に四通の手紙を認められてたものが残っているが、その中でも奥様に生長の家の信仰を熱心に薦められている。尚、中村大佐が浄書された観音経や甘露の法雨・天使の言葉も遺族の下に届けられ、私も見せて戴いた。
一旦死から生への希望が見出された後にあって、再び死の覚悟を固めるのは並大抵の事では無いと思われる。中村大佐自身十二月二十日に記された「戦犯発表より判決宣告に至る心並に覚悟の動向」と題する文章の中で「現在の心境は死刑は免れたとの観念に支配され死に対する覚悟は全く薄くなりたり。(四)故に減刑なくして絞首となる時は、一度挫けたる決心・覚悟を元通りの覚悟に引き直すことは余としても苦痛たるなり。改めて覚悟を仕切り直しせざるべからず。」と記されていた。
その覚悟の仕切り直しが、三月二十二日にやって来る。その前に予感があったのか三月十四日にノートの日記は打ち切り、奥様宛の手紙と日記ノートを弁護人に依頼して矢野大佐に預けられている。そして、愈々二十二日を迎える。
三月二十二日 (略)余の減刑請願は却下されしものと思わる。然し尚、一縷の望は捨てざるなり。減刑に決定したるやも知れずと思わる。然し、月曜日に判決通知あれば遺書は書かれぬ故、念の為めに明夕は書くつもりなり。
そして、翌日最期の日記が記される。
三月二十三日 (略)本日更に連絡ありて、中村、石井、オートラム分は来週執行だろうとのことを聞き、愈々決心を固めたり。然れども、矢張り明朝の宣告を受ける迄は最後の頑張りをなすつもり。死に対しては何等のこともなし。「ガタン」の音と共に長えに天国に行くこととなるのだ。其界目はただ一瞬である。余は直に子飼(筆者註 中村大佐の実家のある熊本市の町名)へ向け飛んで行くこととする。(略)さらば、家族の人々よ。天国よりお前方の幸福を祈り、中村家の弥栄を祈ることを念じつつ、筆を措くこととする。
最後の姿
三月二十五日の最後の夜の晩餐の様子と二十六日午前九時十分の処刑までの中村大佐の様子については、本書第三章に掲載されている三名の方からの遺族に宛てられた手紙に詳しく記されている。刑執行の朝にも斎戒沐浴後国体篇・君が代及び今様を朗誦され、断頭台上に於いては天皇陛下の万歳を三唱し、其の後神想観を唱えつつ従容と死出の道に旅立たれたのだった。その懐中には、獄にあっても毎朝夕家族の幸せを祈り続けた家族写真を抱かれていた。
辞世は次の二首である。
陽言正義漠如夢(陽言スル正義漠トシテ夢ノ如シ)
悵恨無殲樟宜空(悵恨殲(つ)キル無シ樟宜(チャンギー)ノ空)
五薀皆空帰大本(五薀皆空大本ニ帰ス)
極天護皇土興隆(極天皇土ノ興隆ヲ護ラン)
敗戦のにゑと散りゆく我はまたただ立ち上がる国祈るのみ
である。死しても日本を守り去く意志を示され、日本の再興を祈り続けて従容として亡くなられたのである。
家族愛と中村家の支え
中村大佐を支えて居たのは、国と家とに対する深い愛情であった。中村達雄氏の小学校二年生の時の思い出に満州事変に出征中の中村鎮雄中佐が負傷野戦病院に入院された報せを受けて、俊子奥様や婦人会の方々と共に、約二十キロ離れた妙円寺(当時は鹿児島在住)迄徒歩で参詣し、戦傷回復祈願のお百度参りと一週間のお籠り祈願をした事が記されているが、その時、母は子供に「父はお国のための負傷だが、わが家にとっては唯一の大黒柱だ。何としても回復元気になってもらわなければならない。一生懸命、家族一丸となってお詣りするほかに道はない。これが家族というものだし、親子の絆だし、家長を支える中村家を皆でつくろうではないか。」と教えたと言う。この家族の支えあって中村大佐は安心して戦われたのである。中村大佐の家族愛は日記の端々に表現されているし、奥様に宛てられた手紙にはその思いの深さが溢れ出ている。
それ故にこそ、中村大佐の日記や手紙が多数奇跡的に遺族の下に届き、その言葉の数々がこの様にして歴史の貴重なる証言として伝わって行くのである。長男の鎮大氏はレイテ島で戦死され、次男の尚雄氏は医者として長崎の原爆患者救急治療に当る中で自らも放射能に感染して亡くなった為に、三男の達雄氏が家を継がれた。陸軍士官学校58期の達雄氏は、戦後精米業で家計を支える傍ら、お父さんの日記を清書して座右の銘として行かれたのだった。昭和二十八年には未亡人の俊子奥様が発起人になって熊本出身の四十七人の法務死者の遺族に呼びかけて白菊会熊本県支部を設立し、慰霊碑建立を企画された。この事は小文の冒頭で紹介したが、県や市の協力を得て見事三十七年に建立にこぎつけられたのである。俊子様は昭和五十四年に逝去される迄、この鎮魂碑を守り慰霊を続けられたのだった。達雄氏は昭和二十九年には陸上自衛隊に入隊されていたが五十五年に退官して熊本に戻られ、お母さんの志を受け継いで鎮魂碑を守り、更には本格的に遺稿の整理に着手されたのだった。
熊本では、平成九年に長井魁一郎遺稿刊行会の手によって『大東亜戦争BC級戦犯 熊本県昭和殉難者銘録』が出されている。長井氏は五十五年に及ぶ同人誌歴に終止符を打って、晩年、この著書に精魂を傾けられた。B級戦犯として処刑された堀内豊秋海軍大佐の生家であった歴史資料館「御馬下の角小屋」の館長時代の平成五年に「鎮魂碑」に参拝された際、四十七烈士の名前が刻まれている事に物足りなさを感じられ、爾来、殉難者の生家や縁故を辿って個別に訪ねられ行脚紀行を記されていく中で、この冊子に殉難者の事蹟を纏められて行ったものであり、完成間近の平成七年に亡くなられたのだった。その遺志を受け継いで三回忌に併せて出版されたものである。この様な長井氏の努力も中村氏の父上の顕彰作業に勇気を与えたという。
平成十五年八月にテレビ熊本で「天上の父よ…中村家・語り継ぐ戦争」という番組が制作され、中村鎮雄大佐が取り上げられた。翌年中村達雄氏は娘さんと共にシンガポールを訪れた。そこで目にしたものは、日本人墓地の片隅に建つあまりにもお粗末な殉難者墓標であった。大きさは十センチ角、高さ九十センチ位のしめやかな物で、「殉難納骨百三十五柱」とのみ記されたもので厚生省の手で昭和三十年に建てられたものだという。チャンギー監獄で処刑された人々は監獄の南南東にある埋葬地に番号を記して埋められていたが、昭和三十年三月に現地政府から日本政府にご遺体発掘埋葬の要請があり、厚生省が現地で発掘して日本人墓地に改葬し、遺体の一部は本国に持ち帰って遺族に届けたという。だが、中村家には届いていない。それ以外の遺体は纏めて日本人墓地の殉難者墓標の周辺に埋葬されているという。今や遺体を確認する手だてさえ無いのである。中村達雄氏は厚生労働省は一日も早く遺骨収集を行い、処刑された方々に縁の深い本土のお寺で埋葬して欲しいと語られている。シンガポールには立派な英・豪軍墓地があり、戦死者一人一人の墓標が刻まれているという。私も数年前にインドの居んパールとコヒマを訪れた際に、英軍墓地の立派さに比して日本人の慰霊碑が殆んどなく、日本政府の無策に深い悲しみを抱いた記憶があるが、シンガポールでもこの様な状態だったのである。
俘虜研究を
中村鎮雄大佐の日記や書簡類は、英軍の日本人俘虜の扱いとBC級戦犯裁判の欺瞞性を明らかにするものであり、よくもこれだけの資料が手元に届けられたものだと思う。中村鎮雄氏は親ら俘虜収容所長を経験されている。その目で、自らが俘虜となった時の収容所の様子を観察され、その非道性を告発されているのである。そこに中村大佐文書の特筆性がある。大東亜戦争で敗北した日本軍は戦勝国によって俘虜虐待の野蛮国との烙印を押され、未だに自縄自縛に陥っているが、俘虜虐待の伝統を持つのはどちらなのか。日本近代史には俘虜を優遇した人道的な話が数多く残されている。その研究が今こそ必要なのではないのか。又、大東亜戦争後に武装解除されて収容された日本軍将兵に対する暴行や虐殺についても日本政府は調査し直す必要があるのではないか。私が読んだ書物でも、無人島に日本人を押し込め食糧も与えず自活生活を強いた話があり、ピエズ島では悪性マラリア蚊やアミーバ赤痢などの為四十%以上が亡くなったと推測されている。これらの死者はどの様に扱われているのか。彼等は「戦犯」でも何でもない、その上「戦死」した訳でも無いのである。言うならば戦後連合国によって「虐殺死」させられたのである。収容された日本人将兵に対して米軍以外は食糧の補給能力が無かったと言われている。又、収容所での処刑目撃の中には歴史に残されていない日時の日本人の処刑が証言されている。彼等は一体どの様な扱いとなっているのだろうか。チャンギーやオートラムでは多数の日本人がリンチによって殺されているが、公式の記録では病死が各一名、自決が一名と二名、事故死は各二名となっている。だが、真相は刑死の中にそれらのリンチによる死者を入れ込んで発表しているのではないだろうか。日本政府は今こそ国家を挙げて戦後の連合国による日本人虐待の真相解明に取り組み、そのい非道性を当事国に訴え、国際社会に知らしめるべきだと思う。その事によってのみ、中村大佐が「チャンギー戦犯一同の希望」に記した「国民よ、余等の苦しみ、此堪え難き侮辱、敗戦国家の犠牲者として国家を代表して死して逝くなり。どうか之をして犬死さするな。必ず時局定まりし上は一大人道問題として提議の要ありと信ず。」との悲痛なる叫びに応え、戦犯として犠牲になられた方々に報いる道ではないのか。
『立ち上がる国祈る 中村鎮雄巣鴨チャンギー日記』
(『祖国と青年』平成20年8月号掲載)
多久善郎
熊本市立田霊園に建つ「鎮魂碑」
私が在住する熊本県には、所謂「戦犯」と呼ばれた熊本県出身者四十七名の冥福を祈る鎮魂碑が建立されており、今も心ある人々の参拝が絶えない。この鎮魂碑は、「戦犯」として犠牲になられた「法務死」の方々の遺族で構成する「白菊会熊本県支部」の手により昭和三十七年に建立されたものだが、建立に当っては当時の熊本県知事寺本広作氏・熊本市長坂口主税氏の支援と自衛隊第8師団の協力が行われている。慰霊碑建立に要したお金は七十万円、内三十万円が石屋さんへの支払いだったという。県知事は援護課を通じ二十万円を寄付、熊本市長も社会課を通じ十万円を寄付されている。更に坂口市長は、鎮魂碑建立地として熊本市が管理する立田山霊園の永代使用を許可し提供している。この時代、県も市もその中心に居た方々は法務死された方々に対して深い同情の思いを抱いていたのであった。碑文には「大東亜戦争ノ終結ニアタリ戦勝国ニヨル一方的軍事裁判ノ結果 戦犯ノ汚名ヲ受ケ 祖国ノ復興ト世界ノ平和ヲ祈念シナガラ従容死ニ就カレタノハ本県出身ノミニテモ四十七士ニ及ンダ ジライ十有七年 我国ハ繁栄シアジアハ独立シタ ソレコソコレラ丈夫ガ献身ト祈念ノ上ニ築カレタモノトイワネバナラナイ ココニ英霊ノ偉烈ヲタタエ 芳名ヲ録シ 断腸ノ遺族白菊会トトモニ碑ヲ建テ以テ後世ニ伝エル次第デアル 昭和三十七年七月 熊本県英霊顕彰会」簡潔ながらも見事に処刑された方々の無念の思いと志の達成、遺族の悲しみが表現されて刻まれている。県知事を始め戦争を体験された方々の「戦犯」として犠牲になられた方々に対する深い同情の思いが伺われる。鎮魂碑建立の中心になられたのは、故中村鎮(しげ)雄(お)陸軍大佐の未亡人俊様だった。そして今は三男の中村達雄氏(熊本県郷友会会長)が鎮魂碑を守られている。だが、昭和五十四年に俊様が逝去された時に、熊本市は「責任者不明・祭祀不明の場合は鎮魂碑用地の更地返還を求める」との無情なる通告を行ったという。歴史に対し無知なる行政担当者にはあきれかつ怒りが湧いてくる。中村達雄氏も高齢になられ、県外在住のご子息が退職後は熊本に戻られて碑を守っていく覚悟を示されてはいるが、個人的に守っていくだけでは不安もある為、鎮魂碑存続に対する憂念を抱かれている。私も、日本会議熊本のお世話をさせて戴く中で中村氏と面識を有する中でこの鎮魂碑にご案内戴き、この碑の存続の為に力を尽くせないかと思っている。
戦後の厳しい状況の中で、市長や知事までも動かしてこの碑の建立に当られた俊奥様の思い、その志を受け継がれているご子息達雄氏の思いを伺うにつけても、処刑された中村鎮雄氏はどんなに素晴らしい方だったのだろうかとの思いを抱き続けて来た。その疑問に答える素晴らしい編書『立ち上がる国祈る 中村鎮雄巣鴨チャンギー日記』(熊日出版)を中村達雄氏が本年二月に出版された。それは、父君の中村鎮雄氏が巣鴨プリズンやチャンギー監獄で記された日記や書簡を集め、手に入るだけの裁判資料をも収集して出版されたものであり、故人の心の内と姿とが偲ばれる素晴らしい内容である。更には、復讐劇を演じた戦勝国イギリスの横暴の様子が実体験として記されており、戦犯裁判の欺瞞性を暴く一級資料となっている。だが、私が最も感動したのは、中村鎮雄大佐の国体に対する揺るぎなき信と生命を翻弄されながらも終生自らの信仰を深め続けて行かれた求道の姿勢である。そして、日記や手紙の端々に溢れ出る家族に対する深い深い愛情だった。『中庸』には「君子の道は、端(はじ)めを夫婦に造(な)して、其の至れるに及びては、天地に察(あき)らかなり」と道徳の始めは夫婦の調和にある事を説いているが、中村家は当に夫婦相和して家族愛に溢れる家庭であった。
書名となった「立ち上がる国祈る」は中村鎮雄氏の辞世の中の言葉である。辞世として中村氏は漢詩一首短歌三首を遺されている。その中の一首からの引用である。
敗戦のにゑと散りゆく我はまた
ただ立ち上がる国祈るのみ
「にゑ」とは「生贄(いけにえ)」の「贄」である。敗戦後の祖国の行く末を気に掛けられつつ死に赴かれた中村氏の無念の思いが伝わって来る辞世である。
何故中村鎮雄大佐は処刑されたのか
明治十八年九月生れの中村鎮雄大佐は済々黌中学を卒業後陸軍士官学校(第十九期)に進まれ、四十年に陸軍歩兵少尉(歩兵第二十三聯隊)任官。剣道・銃剣術に優れていた中村少尉はその後陸軍戸山学校(体育専門の学校で、剣術と体操の実戦的訓練を目的とする)に二度進み、更には教官にもなられている。中佐の時に歩兵第四十五聯隊で満州事変に出征し負傷されている。昭和十年五十一歳で大佐に任官し待命予備役に編入されている。十二年に特別志願で軍務に復帰され配属将校として幾つかの学校に赴任された後、昭和十八年六月二十日から十九年七月二十四日迄、タイの俘虜収容所長を務められた。そのわずか一年余の俘虜収容所長の立場によってB級戦犯として処刑されたのである。大東亜戦争当時、インド洋の制海権を失った日本軍はタイとビルマ(ミャンマー)とを繋ぐ「泰緬鉄道」を敷設してビルマ戦線への補給を確保しようとした。昭和十七年七月から十八年十月にかけて行われたこの敷設工事は、地形の複雑な○○○キロに及ぶジャングル地帯での突貫工事の為、膨大な数の死者を生み出した。当初五年はかかるといわれた工事をビルマ・タイ双方から着工してわずか一年四ヶ月で完成、日本軍一万二千人、連合軍捕虜六万二千人、タイ人労働者数万人、ビルマ人労働者十八万人、マレーシア人労働者八万人、インドネシア人労働者四・五万人が使役された。建設現場は劣悪で特に工事の後半は雨季にも拘らずさらなる迅速さが要求され、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に及び、連合軍捕虜1万2619人が死亡、アジア人労働者も数万人が死亡したとされている。
中村氏がタイ俘虜収容所長を務められたのは、この工事の最後の四ヶ月に過ぎない。前所長の佐々誠少将(シンガポールのオートラム監獄に収監、絞首刑)の時に泰緬鉄道工事は始まったのだから佐々少将だけで充分のはずだが次の所長迄生贄とされたのである。連合国捕虜の使役とその死亡に対して捕虜収容所長が責任を負うべきなのか。この点についての日本軍の機構とイギリス軍の機構の考え方には食い違いが存在する。この本の編者である中村達雄氏はかつて陸上自衛隊に勤務され第六師団副師団長(陸将補)を勤められた事もある方だが、その点についてこう説明して戴いた。イギリス軍の場合、捕虜を労役に使う場合の組織と捕虜の生活を管理する組織(収容所)は明確に分けられており、相方が対等に交渉し責任を負う様になっているが、日本軍では、南方軍の直属だった捕虜収容所が南方軍鉄道司令官の下に配属となった場合、鉄道司令官の下に全てが一元的に管理される組織となり、そこでは捕虜収容所の独立性は失われる。実際、中村氏が所長として赴任した当時、労役に使われた捕虜は、山奥の鉄道沿線に沿って分散する作業所で生活しており、中村所長がそこを全て訪問する事さえ不可能だったのである。各地の鉄道聯隊の管理下に収容所の分所も置かれ、所員は捕虜の世話に当っていたのである。それ故、食糧や医薬品の配給等については南方軍鉄道聯隊の補給に頼らざるを得なかったのである。この様な日本軍の一元管理システムは現在の自衛隊でも運用されているという。
中村鎮雄氏はタイ俘虜収容所に赴任するに当って、当時九州帝国大学法学部に在学していた次男の尚雄さんから国際法に関する知識を得て赴かれたという。中村所長は自らの責任の範囲でやれるだけの事は精一杯尽くされたのだった。それ故、昭和二十一年一月九日に戦犯容疑の呼び出しが自宅に届いた際も亡命を進める人も居たが、「然りと雖も、正しき裁判なりせば、余は直ちに釈放か一年ばかりも入獄すれば晴天白日の身となるに引替え、亡命は終生日陰の身たり。故に亡命を思い止ま」(著書よりの引用)られたのだった。
この事を予期されていたのか、中村氏はこの年の一月一日より、B5版のノートに日記を記し始められた。一月二十一日に熊本を出発、二十六日に巣鴨に収監、・シンガポールへの移動中は万年筆で、チャンギーの中では鉛筆で記されている。処刑によるこのノートの紛失を恐れた中村氏は、面会に来た同郷の後輩の矢野大佐に託して昭和二十二年九月に熊本の遺族の下に届けられたのである。日記は一月一日~四月二日まで記され、その後、十月十九日から翌二十二年三月二十三日で終了している。公判が十月二十一日に開始され二十七日の終了し、十二月三日に死刑判決が言い渡されているので、中村氏はノートの節約の意味で公判が始まる迄の記述を止められたのではないか。
敗戦国日本に対する憂い
中村氏の日記からの中から幾つかを紹介したい。巣鴨時代の日記には、当時の世評に対する中村氏の憂国の思いが綴られた箇所が出てくる。
二月八日 本日四日の新聞を見る(朝日)。然るに、日本に於て自発的に戦犯人を逮捕し、裁判するとのことにて岡田東海軍管区司令官はじめ参謀長等多数上級将校に及ぶとか。本件はB29の不時着俘虜を殺したるによるとのことなり。戦争中、爆撃して墜落せし敵飛行士なり。之を自ら発動して裁判するものなり。嗚呼、将来日本が立上がる機会有りとするも、恐らくは粉骨砕身、身命を捧げて御奉公するものはなからん。あゝ悲哉。日本は遂に立ち上り得ざるか。あゝ。
ノートの原文では、かく記された文章の上に赤文字で◎{をつけて、「日本ハ遂ニ立上リ得ザルカ」と大きく記されてある。中村氏の衝撃が伝わって来る。この事は、今年上映された映画「明日への遺言」(俳優の藤田まことが岡田資中将を演じた)の中でも出てきた様に、米軍が裁く前に日本側で裁判を行う事によって法務将校の責任逃れを計ると言う姑息な手段に出たものだった。占領下に於ける同胞相撃つが如き行為の持つ醜さが将来の日本人の精神に深刻な影響を及ぼす事を中村氏は指摘され、こんな事では日本は二度と立ち上がれないようになるとの深い憂いの念を抱かれたのである。又、紀元節の日記にはかく記されてある。
二月十一日 獄中紀元節。午前七時二階と下は戸前に整列、二階よりの指揮により宮城遥拝。次で二階の高橋三吉海軍大将の発声により陛下の万歳三唱、次で君が代一回合唱にて式を終る。一同の君が代、屋内をゆるがし、荘厳なりき。
捕われの身とは雖も、一糸乱れずに皇国の弥栄を祈る将兵の意気が伺われる記述である。
又、共産党の天皇制否定・家族制度解体の動きについても憂いを抱かれ、二月十五日の日記には、「共産党ハ国賊ナリ」と赤文字で記されている。その思いがつのられて二月二十日には「獄中随筆」をノートの後ろに書き始められ「我国体に就て」との長文を認められ、更には「其の一 米国の真意」「其の二 社会党」「其の三 共産党」「其の四 社会党共産党主義者の夫人達の言」「其の五 尾崎行雄の言」と憂慮すべき事どもを記され、最後に次の様に記されている。
結論 之を要するに敗戦のみじめさは我国体の改変に及ぼせり。残念の至りなり。尤も改良せらるべき諸件多々あり。夫は時世に適応せざるべからざるが故なり。然れども根本たる肇国以来の国体と其護持の精神たる大和魂の昂揚と家族制度(相当改変を要す)の確立は日本再建に最も其根底をなすものたるを確信するものなり。
中村氏の獄中での一日は「午前午後とも間々に詩吟、端唄、俚謡、薩摩琵琶をやる。毎朝必ずラジオ体操後、国体篇を吟ずることとせり。」(一月二十九日)と記されている様に、詩吟の国体篇を朗々と唱えられていた。それはチャンギーに行かれても変わらず、処刑前にも国体篇を吟詠されている。国体篇は旧制第七高等学校長の岩崎行親氏が詠じられたもので、「邈たり二千六百秋 日東国を肇むる神籌に基づく 国体の優風土の美 宇内万邦匹儔無し 豊葦原の瑞穂の国は 是れ我が子孫の君臨域なり 行くませ爾就いて之を治めせ 宝祚は天壌とともに窮極無からん 神訓炳として日星の如し 之を万世に施して民心寧し 三種の神器君道を教ゆ 之を無窮に伝えて帝徳馨し 我が皇神孫姓氏無く 日本を家と為し君を父に比す 億兆斉しく仰ぐ一家の君 義は乃ち君臣情は父子 親に孝ならんと欲する者は須く君に忠なるべし 国を愛せんと欲する者は須く君を尊ぶべし 忠孝一致君国一なり 我が国の憲法古文に存す 嗚呼美なる哉日東君子の国 上下心を同じうして其の徳を一にす 嗚呼優なる哉万世一系の君 列聖相承けて功勲を垂れたもう」という内容である。我が国の国体に対する不動の信を詠み込んだものであり。毎朝吟じられるこの言葉こそが中村氏の国体信仰の叫びであった。
チャンギー監獄・英軍の横暴
四月三日以降に英軍が管理するシンガポールのチャンギー監獄に収監された。チャンギー監獄の悪名はBC級戦犯について勉強した者には鳴り響いている。田中宏巳『BC級戦犯』(ちくま新書)には、「私的制裁の横行については、英軍が管理するシンガポールのチャンギー刑務所とオートラム刑務所に関する伝聞が非常に多い。シンガポールの両刑務所では一日中、殴る、打つ、蹴るという拷問の音が響き、日本人のうめき声が絶えることがなかったといわれる。拷問の一手段として食糧を支給しないという手段を使ったのは、英軍が最初であった。こうした私的制裁によって多数の死者が出たのは、両刑務所に収容されていた帰還者の説明で明らかだが、しかし実際にどれだけの犠牲者が出たか、英軍が発表するはずもなく今日まで不明である。」「戦犯裁判を行った七ヶ国は、当然死刑を認めていない。容疑者に対する嫌がらせ、いじめはどこでもあったが、死亡するまで暴行を加えたのはイギリスとオランダの二国が管理した収容所に顕著であった。この二国は、終戦時まで捕虜収容所で収容されていた自国兵を、そのまま日本兵収容所の警備兵に採用したり、戦犯裁判の検察官等に任用した。つまり復讐による私刑が行われてもおかしくない状況を作っていたのである。」と書かれている。又茶園義男編『BC級戦犯・チャンギー絞首台』にはチャンギーで服役帰還した伊野権谷氏の言として「殴り込みは実に残酷この上もありませんネ。昼のうちに誰をやるか目をつけているのです―あいつは現住民虐殺で裁判、絞首だ、いや終身刑だと言えば起訴の段階からはげしく、裁判進行中はより酷い。チャンギー監獄から、法廷に連行する看守(監視兵)が先ず法廷の証人の証言などで興奮して帰るわけ―これが直ぐ伝わる訳です。私と同じ監房にいた憲兵軍曹も徹底的にやられ、(略)何日か目の夜には遂に帰って来ませんでした。」と証言している。
これらの直接的な暴行は問題化し、時を経るに従って少しは沈静した様だが、中村氏の日記にもそのいやがらせの事が幾つか記されている(中村氏の日記は四月初めに収監されて以来十月十八日までは欠落しているのでその間の虐待については解らない)。
十一月五日 例の伍長、本日午後は凶暴性を現せり。背負投一本やり度気分す。
十一月三十日 夜三時、ジャガ(看守)が便所や洗面所で大きな響をさせ、又足音高く歩き回り、且つ高声に話して余等の安眠を大に妨害せり。
中村氏の日記には、当人が俘虜収容所長を経験された為か、獄中の毎日の食事内容についてノートの上欄に細かに記録されている。それを見れば公判前には配給のビスケットなども随分少なく当人を飢餓状態に置き思考を麻痺させ、判決後には絞首刑執行の利便性(絞首刑は本人の体重がかかって頚動脈を絞め上げる為)も考えてか食糧を多く与えて肥え太らせるやり方を取っている様に思われる。この点については食品の専門家の方に分析してもらいたいと思っている。中村氏は十二月三日に絞首刑が宣告され、死刑に処せられた人々が入れられるPホールに収監された。その後の日記にはこうある。
十二月四日 此処では食事は毎食思う存分に出来る故、寧ろ慎む必要あり。否らざれば却りて健康を害する恐れあり。(略)おじや及汁、茶は常にある故、何時食して可なり。
だが、ここでも虐待があった。
一月六日 食糧虐待再開。一月四日より。十二月末より食事は悪しくなりしが、一月四日より俄然悪しくなれり。
それでも一月十一日には普通の状態に戻っている。
中村氏は処刑宣告がなされた三月二十五日に、宣告に来た英軍に対し意見表明をされている。中村氏の最後については三名の方から遺族に宛てられた手紙が残っており、それがこの本の三章「絞首台へ」に掲載されている。その中の鴻澤又彦氏の手紙に次の様に記されている。「印度人将校一、英軍下士官一来り、明二十六日午前九時より中村鎮雄大佐以下五名の死刑宣告をなす。中村大佐左記の言を発表す (1)刑務所の待遇不良且非人道的なること。(2)戦犯裁判の非理不公平なることを米軍のそれに比較して訴え英軍に之を改める明なきを惜しむ、と述ぶ。彼等は苦笑を以て之を迎うるのみなり。刑務所待遇不平の点に付、更に調査せられ、大佐自己の待遇不当労働リンチ等の他、戦友に対する既往の例を挙げて陳述せり。」
かかる思いは日記を記されたノートの最後に「チャンギー戦犯一同の希望」と題する文章に最も良く表れている。矢野大佐に渡される直前に書かれたのか文字は後に従って走り書きとなっている。全文を紹介する。
一、我等は身命を捧げ、御奉公をなした。戦に勝ちてさえ居れば相当の恩賞にさえあずかる者なり。殊に余は感状を頂き居る由、さすれば金鵄勲章功三級位と思わる。敗戦なるが故に囹圄の身となりしなり。
二、チャンギー入獄以来の英蘭兵による虐待は言語に絶す。殊に英兵に於て然り。或は漸く生る丈の食糧を与えたり。労働、殴打、蹴る、突く等々枚挙に遑あらず。オートラム刑務所にては毎夜なぐり込みにて各室悲鳴絶えず。之が為、腸を切断して死したるものさえありしと。戸の開く音聞ゆれば生きた心地はなかりし由なり。
三、十二月末、印度兵(下士官以下)交替せしにより大に監視はよくなり私刑絶無となれり。
四、裁判は既に刑を定め形式になすのみ。而して裁判に非ずじて報復行為たるなり。此の少数の人々に対し終戦後報復行為を思い切て断行するとは非人道的行為なり。
五、死刑囚は彼等の不当なる報復に対しては到底甘んじ難き悲憤の情堪えざるも、死に対しては大悟徹底実に堂々たる態度を以て執行さる。平常の通り談笑しつつ詩歌を吟じ万歳を高唱して行く。
六、執行の前日は壮行演芸会を死刑囚一同で行う。行く者も送る者も放歌高吟をなす。
七、執行の朝は行く者は各人の部屋に対して「今から行きます。左様なら。御機嫌よく」と叫び、残留者は「左様なら。元気で行け」と交わす。何という悲壮なる光景ぞや。残留者の悲憤の涙留め難し。
八、死刑囚は皆堪え難き残念さを以て日々過し居るなり。国民よ、余等の苦しみ、此堪え難き侮辱、敗戦国家の犠牲者として国家を代表して死して逝くなり。どうか之をして犬死さするな。必ず時局定まりし上は一大人道問題として提議の要ありと信ず。又死刑されし人々は戦死者として取扱うことを希望して止まざるなり。吾等は決して国家の犯人には非らざるなり。世が世なりせば殊勲者たりしものなり。
又、永友吉忠陸軍中佐から遺族に宛てられた手紙には次の様に記されている。「執行の直後、その前祝を過したる監房の白壁には墨痕鮮かなる次の文句が残されあるを発見仕り候。『大英帝国よ、戦犯者に対し反省せよ。必ず吾吾の霊魂は二十年内に英国の滅亡を予言す。天必ず英国を許さざるべし。滅亡火を見るよりも明なり』。死に行く者の英国に対する共通の呪かと存ぜられ候。」
弄ばれた生命・異例の裁判長による減刑進言
実は、中村大佐の場合、十二月三日の死刑判決の際、裁判所が減刑を請願している。その事は十二月三日の日記にも記されているが、この本の第二章に「公判の記録」として在英ジャーナリスト冨山泰が入手された裁判資料が英文・訳文で紹介されており、資料②として、裁判長のフォーサイス英軍中佐が確認官にあてた中村大佐減刑嘆願の文書の写真と日本語訳「確認官あて 当法廷は、被告人中村鎮雄大佐(日本帝国陸軍)の罪一等を減ずるように進言する。その理由は、彼はコレラで死に瀕していた捕虜一人を射殺した日本軍将校を懲戒したことにより、指揮官としての地位を追われたからである シンガポールで 一九四六年十二月三日 裁判長 フォーサース中佐」が掲載されている。この中で紹介されているのは「藤井事件」でこの本の注釈には「泰俘虜収容所俘虜の間にコレラが発生し、感染を恐れた鉄道隊藤井中隊長が、軍医に重症患者の英国人俘虜の一人を殺害するように命じた。軍医はこれを拒否したが、藤井中隊長の拳銃を俘虜の将校が借りて俘虜一人を殺害した事件。中村鎮雄俘虜収容所長は、国際法違反のおそれがあるため、この件を軍の上層部へ報告し、同中隊長は軍法会議で処分された。軍上層部への報告は、捕虜取扱について慎重であるべきとしたためだが、南方軍司令部は中村所長を解任して内地勤務とした。」と書かれてある。この事が、中村所長の人道的俘虜取り扱いを証明する事となり、法廷も無視できなかったのである。中村氏は日記に冷静にこう記している。
十二月三日 (略)減刑請願などせずとも裁判長が適当の判決を下せば可なり。絞首刑を言渡し、減刑請願する所に大に政治的意味あることを証するに足る。(略)
此判決は大に政治的意味ありと思う。何となれば、之迄の泰俘は殆んど死刑なり。而して今度にて泰俘を打切るに就ては〆括を明にし、世界的有名なる泰緬線俘虜解決の為めにはどうしても所長、分所長に相当の責任罰を科し極刑に処し、以て世論に報い終局を明にしたものなりう。元来余の絞首刑はひど過ぎるなり。(略)此政略的判決なる故、余の減刑運動を裁判所がすることとなりたるなり。明日の紙上と英国議会への報告は世論に対し、彼之言うものなきが故なり。余は斯く判断す。余に対する極刑は無理なる事は裁判所が認めあるなり。
かくて、中村氏はPホールに入れられるも減刑が行われる事にわずかな希望を見出す日々を過すことになる。弁護士も死刑になる事は無いので安心するが良いと述べる。だが、この裁判長による減刑請願は実らなかった。中村達雄氏によると、英本国で当時の俘虜たちが温情あふれつ中村大佐の除名嘆願をしたり、タイムスにも減刑要求の記事が掲載され、英本国軍司令官の釈放命令が出されたとの記事もあるが、冨山氏の公判資料調査ではその記録は見つかっておらず、この間の経緯については英国側からも日本政府からも何ら説明もなければ陳謝もなく、真相は不明であるとの事である。中村達雄氏は「おわりに」の中で「父は日記・手紙の中に判決は政略的なものだと喝破していました。世界を股にかけたアングロサクソン特有の偽善で裁判し、判決し、助命嘆願し、時既に遅しの茶番で紳士面をしながら個人を弄んだだけにすぎない。『大英帝国よ、反省せよ』の父の最後の一語は重く、意味を持つ実感の叫びだと思います。」と述べている。
信仰の深まり
中村大佐は毎朝「国体篇」を詠じ君が代を斉唱されていたが、十二月三日の死刑判決(裁判所の減刑請願)以後、日課の中に観音経の謹写や般若心経の暗誦などを組み込んで死生観を陶冶して行かれた。この間、中村大佐の胸には「減刑請願」に対する一抹の不安がよぎり、死への覚悟を深められている。
一月二十一日 (略)余の減刑はどうも単なる法廷宣伝にて、上司は泰収容所長たるの故を以て許可せざるに非ざるや。其懸念頗る濃厚なり。何れは覚悟を要するなるべきも、一旦弛みたる信念は中々苦痛を感ず。余は自己の死よりも家族の愛に悩むものなり。
中村大佐は十二月末に、同囚の馬杉一雄中佐(四十四歳)から生長の家の信仰について教示を受け一月に『信の力』『甘露の法雨』『生命の実相』を読み始められ、だんだんと生長の家の教えに共感されて行く。一月二十三日の日記には「甘露の法雨を浄写。神想観を教えて貰う。」とあり、「神想観実施要領」を記されている。その後も「天使の言葉」を浄写されている。特に「神想観」は、朝は時間を合わせる事が出来ないが、夕方は生長の家総裁の谷口雅春先生の祈りの時間と同時刻に行じられている。この様な行的な信仰の深まりと共に二月・三月と日記には生長の家の「天地万物と和解せよ」との教えを自らに体現せんと課していかれた事の記述が幾度も出て来る。この間奥様宛に四通の手紙を認められてたものが残っているが、その中でも奥様に生長の家の信仰を熱心に薦められている。尚、中村大佐が浄書された観音経や甘露の法雨・天使の言葉も遺族の下に届けられ、私も見せて戴いた。
一旦死から生への希望が見出された後にあって、再び死の覚悟を固めるのは並大抵の事では無いと思われる。中村大佐自身十二月二十日に記された「戦犯発表より判決宣告に至る心並に覚悟の動向」と題する文章の中で「現在の心境は死刑は免れたとの観念に支配され死に対する覚悟は全く薄くなりたり。(四)故に減刑なくして絞首となる時は、一度挫けたる決心・覚悟を元通りの覚悟に引き直すことは余としても苦痛たるなり。改めて覚悟を仕切り直しせざるべからず。」と記されていた。
その覚悟の仕切り直しが、三月二十二日にやって来る。その前に予感があったのか三月十四日にノートの日記は打ち切り、奥様宛の手紙と日記ノートを弁護人に依頼して矢野大佐に預けられている。そして、愈々二十二日を迎える。
三月二十二日 (略)余の減刑請願は却下されしものと思わる。然し尚、一縷の望は捨てざるなり。減刑に決定したるやも知れずと思わる。然し、月曜日に判決通知あれば遺書は書かれぬ故、念の為めに明夕は書くつもりなり。
そして、翌日最期の日記が記される。
三月二十三日 (略)本日更に連絡ありて、中村、石井、オートラム分は来週執行だろうとのことを聞き、愈々決心を固めたり。然れども、矢張り明朝の宣告を受ける迄は最後の頑張りをなすつもり。死に対しては何等のこともなし。「ガタン」の音と共に長えに天国に行くこととなるのだ。其界目はただ一瞬である。余は直に子飼(筆者註 中村大佐の実家のある熊本市の町名)へ向け飛んで行くこととする。(略)さらば、家族の人々よ。天国よりお前方の幸福を祈り、中村家の弥栄を祈ることを念じつつ、筆を措くこととする。
最後の姿
三月二十五日の最後の夜の晩餐の様子と二十六日午前九時十分の処刑までの中村大佐の様子については、本書第三章に掲載されている三名の方からの遺族に宛てられた手紙に詳しく記されている。刑執行の朝にも斎戒沐浴後国体篇・君が代及び今様を朗誦され、断頭台上に於いては天皇陛下の万歳を三唱し、其の後神想観を唱えつつ従容と死出の道に旅立たれたのだった。その懐中には、獄にあっても毎朝夕家族の幸せを祈り続けた家族写真を抱かれていた。
辞世は次の二首である。
陽言正義漠如夢(陽言スル正義漠トシテ夢ノ如シ)
悵恨無殲樟宜空(悵恨殲(つ)キル無シ樟宜(チャンギー)ノ空)
五薀皆空帰大本(五薀皆空大本ニ帰ス)
極天護皇土興隆(極天皇土ノ興隆ヲ護ラン)
敗戦のにゑと散りゆく我はまたただ立ち上がる国祈るのみ
である。死しても日本を守り去く意志を示され、日本の再興を祈り続けて従容として亡くなられたのである。
家族愛と中村家の支え
中村大佐を支えて居たのは、国と家とに対する深い愛情であった。中村達雄氏の小学校二年生の時の思い出に満州事変に出征中の中村鎮雄中佐が負傷野戦病院に入院された報せを受けて、俊子奥様や婦人会の方々と共に、約二十キロ離れた妙円寺(当時は鹿児島在住)迄徒歩で参詣し、戦傷回復祈願のお百度参りと一週間のお籠り祈願をした事が記されているが、その時、母は子供に「父はお国のための負傷だが、わが家にとっては唯一の大黒柱だ。何としても回復元気になってもらわなければならない。一生懸命、家族一丸となってお詣りするほかに道はない。これが家族というものだし、親子の絆だし、家長を支える中村家を皆でつくろうではないか。」と教えたと言う。この家族の支えあって中村大佐は安心して戦われたのである。中村大佐の家族愛は日記の端々に表現されているし、奥様に宛てられた手紙にはその思いの深さが溢れ出ている。
それ故にこそ、中村大佐の日記や手紙が多数奇跡的に遺族の下に届き、その言葉の数々がこの様にして歴史の貴重なる証言として伝わって行くのである。長男の鎮大氏はレイテ島で戦死され、次男の尚雄氏は医者として長崎の原爆患者救急治療に当る中で自らも放射能に感染して亡くなった為に、三男の達雄氏が家を継がれた。陸軍士官学校58期の達雄氏は、戦後精米業で家計を支える傍ら、お父さんの日記を清書して座右の銘として行かれたのだった。昭和二十八年には未亡人の俊子奥様が発起人になって熊本出身の四十七人の法務死者の遺族に呼びかけて白菊会熊本県支部を設立し、慰霊碑建立を企画された。この事は小文の冒頭で紹介したが、県や市の協力を得て見事三十七年に建立にこぎつけられたのである。俊子様は昭和五十四年に逝去される迄、この鎮魂碑を守り慰霊を続けられたのだった。達雄氏は昭和二十九年には陸上自衛隊に入隊されていたが五十五年に退官して熊本に戻られ、お母さんの志を受け継いで鎮魂碑を守り、更には本格的に遺稿の整理に着手されたのだった。
熊本では、平成九年に長井魁一郎遺稿刊行会の手によって『大東亜戦争BC級戦犯 熊本県昭和殉難者銘録』が出されている。長井氏は五十五年に及ぶ同人誌歴に終止符を打って、晩年、この著書に精魂を傾けられた。B級戦犯として処刑された堀内豊秋海軍大佐の生家であった歴史資料館「御馬下の角小屋」の館長時代の平成五年に「鎮魂碑」に参拝された際、四十七烈士の名前が刻まれている事に物足りなさを感じられ、爾来、殉難者の生家や縁故を辿って個別に訪ねられ行脚紀行を記されていく中で、この冊子に殉難者の事蹟を纏められて行ったものであり、完成間近の平成七年に亡くなられたのだった。その遺志を受け継いで三回忌に併せて出版されたものである。この様な長井氏の努力も中村氏の父上の顕彰作業に勇気を与えたという。
平成十五年八月にテレビ熊本で「天上の父よ…中村家・語り継ぐ戦争」という番組が制作され、中村鎮雄大佐が取り上げられた。翌年中村達雄氏は娘さんと共にシンガポールを訪れた。そこで目にしたものは、日本人墓地の片隅に建つあまりにもお粗末な殉難者墓標であった。大きさは十センチ角、高さ九十センチ位のしめやかな物で、「殉難納骨百三十五柱」とのみ記されたもので厚生省の手で昭和三十年に建てられたものだという。チャンギー監獄で処刑された人々は監獄の南南東にある埋葬地に番号を記して埋められていたが、昭和三十年三月に現地政府から日本政府にご遺体発掘埋葬の要請があり、厚生省が現地で発掘して日本人墓地に改葬し、遺体の一部は本国に持ち帰って遺族に届けたという。だが、中村家には届いていない。それ以外の遺体は纏めて日本人墓地の殉難者墓標の周辺に埋葬されているという。今や遺体を確認する手だてさえ無いのである。中村達雄氏は厚生労働省は一日も早く遺骨収集を行い、処刑された方々に縁の深い本土のお寺で埋葬して欲しいと語られている。シンガポールには立派な英・豪軍墓地があり、戦死者一人一人の墓標が刻まれているという。私も数年前にインドの居んパールとコヒマを訪れた際に、英軍墓地の立派さに比して日本人の慰霊碑が殆んどなく、日本政府の無策に深い悲しみを抱いた記憶があるが、シンガポールでもこの様な状態だったのである。
俘虜研究を
中村鎮雄大佐の日記や書簡類は、英軍の日本人俘虜の扱いとBC級戦犯裁判の欺瞞性を明らかにするものであり、よくもこれだけの資料が手元に届けられたものだと思う。中村鎮雄氏は親ら俘虜収容所長を経験されている。その目で、自らが俘虜となった時の収容所の様子を観察され、その非道性を告発されているのである。そこに中村大佐文書の特筆性がある。大東亜戦争で敗北した日本軍は戦勝国によって俘虜虐待の野蛮国との烙印を押され、未だに自縄自縛に陥っているが、俘虜虐待の伝統を持つのはどちらなのか。日本近代史には俘虜を優遇した人道的な話が数多く残されている。その研究が今こそ必要なのではないのか。又、大東亜戦争後に武装解除されて収容された日本軍将兵に対する暴行や虐殺についても日本政府は調査し直す必要があるのではないか。私が読んだ書物でも、無人島に日本人を押し込め食糧も与えず自活生活を強いた話があり、ピエズ島では悪性マラリア蚊やアミーバ赤痢などの為四十%以上が亡くなったと推測されている。これらの死者はどの様に扱われているのか。彼等は「戦犯」でも何でもない、その上「戦死」した訳でも無いのである。言うならば戦後連合国によって「虐殺死」させられたのである。収容された日本人将兵に対して米軍以外は食糧の補給能力が無かったと言われている。又、収容所での処刑目撃の中には歴史に残されていない日時の日本人の処刑が証言されている。彼等は一体どの様な扱いとなっているのだろうか。チャンギーやオートラムでは多数の日本人がリンチによって殺されているが、公式の記録では病死が各一名、自決が一名と二名、事故死は各二名となっている。だが、真相は刑死の中にそれらのリンチによる死者を入れ込んで発表しているのではないだろうか。日本政府は今こそ国家を挙げて戦後の連合国による日本人虐待の真相解明に取り組み、そのい非道性を当事国に訴え、国際社会に知らしめるべきだと思う。その事によってのみ、中村大佐が「チャンギー戦犯一同の希望」に記した「国民よ、余等の苦しみ、此堪え難き侮辱、敗戦国家の犠牲者として国家を代表して死して逝くなり。どうか之をして犬死さするな。必ず時局定まりし上は一大人道問題として提議の要ありと信ず。」との悲痛なる叫びに応え、戦犯として犠牲になられた方々に報いる道ではないのか。
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