英霊は今、インドの大地で インパール・コヒマの地を訪れて
靖国神社で出会う兄弟の御霊
「皆様其後御変りなきことゝ存じます 小官千数百粁の山岳地帯を行軍 今尚志気極めて旺盛 御奉公致して居ります 父母上様 稔子の写真入手致し 殊更懐しく私と共に戦ひ 共に露営をしてをります 隆司(※弟の名前)も南の第一線に進出 家門の誉と考へて居ります 昔の隆司を思出し 再開の日は不明なれど場所は靖国の御社と約しました 当地も『ノースアメリカン』がよく来襲しますが敵の断末魔のあがきの如く見えます 印度を臨み大いに自重自愛忠の道に励み孝を致したいと思ひます」
「私も相変らず深山の中に猿や豹の声を聞いて元気に御奉公致して居ります(略)本書を以て或は当分最后の便となるやも知れず 常々御願ひしある事等宜敷く御配慮下さい 小さき我身も青史の一頁を飾る大東亜建設の礎と化せば満足です 『散りて甲斐ある命なりせば』です」
これらは、昭和十九年三月に開始されたインパール作戦を前に、ビルマの山中から父親と家族一同に宛てた、小山幸一陸軍大尉の手紙の一節である。京都府宮津町出身の小山大尉は、この年の五月二〇日にインドで戦死した。二十五歳であった。弟の小山隆司陸軍軍曹も、同年九月九日にニューギニアで戦死している。二人は、約束の地靖国神社で再会し、二人の魂は今尚、祖国の行く末を見守っている。
だが、今日の日本では、鎮まります英霊の魂を引き裂くが如き蛮行―靖国神社に代わる国立追悼施設の建設を政府が行なわんとしているのである。かかる企みは決して許されない、私も日本会議熊本の同志と共にその阻止へ向けて微力を尽くして来た。その様な中で数多英霊の眠る東インドのインパール・コヒマを訪れる機会を得た。昨年の十一月二十四日から二十八日にかけての事である。
インパール作戦について
インパール作戦の準備が決定したのは昭和十八年の八月、当時、日本軍が駐留するビルマの北側には、重慶にある蒋介石政権を支援する「援蒋ルート」がインドから本格的に構築されようとし、かつ米軍の支援を受けたインド在住英軍がビルマ奪回を目指し本格的な反攻作戦に移ろうとしていた。その拠点がインパールだった。日本軍にとってビルマ防衛・援蒋ルート遮断の意味でも、西から迫る英軍に対応する必要性があった。更には、日本軍の支援の下、民族の指導者チャンドラ・ボースを司令官に迎えて士気の上がるインド国民軍の、祖国独立闘争を推進する事により、大東亜戦争の持つ意味を明らかにするという政治上の目的もあった。しかし、当時既に制空権は完全に奪われた中で、ビルマ・インドの国境地帯に、南北に幾重にも伸びる三千メートル級のアラカン山脈を越えてのインパール進撃には、武器弾薬・食糧補給の点で問題が多く、インパール作戦には始めから困難が山積していた。昭和十九年三月十五日に作戦は開始された。インパールへは、アッサム州の州都のディマプール(鉄道が走っている)からコヒマ(インパール北方約百キロ)経由で物資や人員の補給が行われる為、第三十一師団(烈)にはコヒマを占領して補給を断つ任が与えられ、インパールに対しては、東方から第十五師団(祭)、南方からは第三十三師団(弓)が迫って、包囲し占領するというものだった。インド国民軍約一万人もインパールを目指した。だが、ビルマから進撃した日本陸軍第十五軍七八、三九六名は、コヒマ・インパールを包囲しつつも、補給の続かない中で決定的な打撃力を加えるに至らずに長期化し、雨季を迎え、飢餓と疫病に苦しみつつ撤退のやむなきに至った。戦死者は四八、九三〇名に及んだ。
インパールの地にはインド国民軍と共に欧米のアジア支配を打ち破らんとした先人達の大いなる志と、敵との圧倒的な火力の落差の中で奮闘した血の滲むような労苦と、志半ばにして撤退せざるを得なかった無念の涙が刻まれている。
広大な盆地インパール
成田空港からインド航空に乗り、バンコク経由で十二時間、デリーに到着した。一泊し、翌朝国内便で東へ向い、コワハティ経由三時間半でインパール空港に到着する。インド最東部、ミャンマーとの国境地帯にあるインパール・コヒマは、今尚治安が悪い為、街中でも装甲車が走り、郊外に出れば要所要所で銃を携行した兵士が警備の任に就いていた。
インパールに着いて先ず驚いたのはインパール盆地の広大さであった。広さは日本の濃尾平野位だと聞いていたが、アッサム高原の中にあるとは思えない程の広さである。一七〇〇平方キロ・四〇万人の人口と言う。盆地では農業が営まれ田園が広がっている。朝市を見に行ったが、米やジャガイモ・豆類・野菜などの様々な農作物や魚類(淡水魚)が所狭しと並べられていた。しかし、電力事情は悪く、宿泊したホテルでは、何度も停電した。
顕彰される事無き「インド平和記念碑」
私達は、様々な戦跡を訪れたが、最も印象に残った事は、勝った側の英軍墓地の立派さに較べ、日本軍及びインド国民軍の慰霊施設の貧弱さであった。
インパールでは、市街北部にあるインパールホテル近くの広大な敷地に、英軍の為の「インパール戦争共同墓地(Imphal War Cemetery)」が作られ、十字架を中心に英印軍(英軍に所属した英人将校及びインド人将兵)戦死者一人一人の墓標が地面に並んでいた。石の上に据えられた金属板の墓標には、十字架が描かれ、戦死した将兵の名前と日時、更には肉親の言葉が刻まれている。又、「彼らの名前は永遠に生き続ける(THEIR NAME LIVETH FOR EVERMORE)」と刻まれた碑も建てられていた。勿論「彼ら」には日本軍は含まれていない。私達はこの共同墓地を早朝に訪れたが、朝日の差す風景は荘厳であった。
それでは、日本軍将兵を悼む施設はどうだろうか。皆無ではない。インパールの西南十六キロのロトパチン村に「インド平和記念碑」が建立されている。この記念碑の場所はレッドヒル(2926高地)の麓である。レッドヒルとは、ここで激戦となり多くの日本軍将兵の血が流され、丘が血で真っ赤に染まった事から名付けられたという。このレッドヒルを最後に丘陵は終わり後はインパールまで平地となる。ここまで進出したのは第三十三師団の笹原大隊である。東方より丘陵伝いに進撃した日本軍は、英印軍の圧倒的な戦車や火砲の前に為す術が無く、前進を阻まれ膠着状態に陥るのだった。インパール作戦の記録を読めば、弾薬・火砲の補給の無い日本軍の無念さが痛切に伝わってくる。
この「平和記念碑」の建立の由来は、昭和五十六年から日本政府がインド政府に交渉し、平成四年六月の宮沢首相とインドのラオ首相の日印首脳会談で合意され、平成六年(一九九四年)十月七日に建立されたという。建立者としては、三井建設の鬼沢 正(オニザワナオシ)頭取の名前が刻まれていた。碑文には「さきの大戦においてインド方面で戦没した人々をしのび 平和への思いをこめるとともに 日本インド両国民の友好の象徴としてこの碑を建立する」と日英両語で刻まれている。私達は、日本から持参した水・清酒・線香と花を捧げてアジア解放に尽力された日印両国の英霊をお偲びした。更に、この記念碑の近くには、ロトパチンの村民が昭和五十二年(一九七七年)十二月十二日に建立した「インパール作戦戦没勇士の碑」があり、大きな日本語で「英霊よ この地で安らかにお眠り下さい」と記されている。建立の中心となられた村長さんは既にお亡くなりになったが、村民がこの碑を守っているという。インパール作戦から三十三年間は、この地には慰霊の碑は一つもなく、更に日本人が建立したのは、戦後五十四年が過ぎた後の事であった。平成の御代になるまで建立されなかったのである。しかも、「インド平和記念碑」には簡単な碑文だけしか記されていない。これでは、何故日本軍が遥かインパールまでやって来たのか、この戦争が何故「日印の友好の象徴なのか」は全く解らない。記念碑を建立するだけでは、記憶を伝える人が居なくなった時、碑の意味は失われ風化してしまうのではないだろうか。
壊された忠霊塔―サンジャック戦争記念碑
インパール作戦において、コヒマを目指した三十一師団の精鋭宮崎兵団は、途中ウクルルを陥し、その南方に位置するサンジャックも攻撃した。インパールの北東約六十キロの山の中に位置するサンジャックには、英印軍の強固な陣地があり、ここを陥すのに、宮崎兵団は多くの犠牲を強いられている。私達はそのサンジャックを訪れた。生憎の雨模様で雲が流れ、眺望は全く利かなかった。それでも、戦跡に立つ教会の近くに行き、往時を偲ぶ事が出来た。教会下の広場には、「西田 将(すすむ)大尉会館(CAPT.SUSUMU NISHIDA HALL)」が建てられていた。西田大尉とは、サンジャック攻略時の五十八連隊第十一中隊長の西田中尉の事で、西田中隊長はサンジャック攻略の中心部隊として活躍し、自ら重症を負っている。その西田氏が一九八二年に来訪されて、この記念館を建立されたのだった。しかし残念な事に、中には数葉の写真と本が数冊置いてあるだけで、往時を偲ぶよすがとなるものではなかった。
一方英印軍については、近くの丘に立派な「サンジャック戦争記念碑(SHANGSHAK WAR MEMORIAL)」が建っている。この碑の場所は、かつて日本軍が忠霊塔を建てていた所であり、其の後、英軍が記念碑を建て、更に、二〇〇二年に地元のアッサムライフル連隊がこの碑に代えたとの事であった。しかし、記念碑の壁面にはこの地で無くなった英印軍将兵の名前のみが刻まれていた。
記念碑皆無のコヒマ
第三十一師団が攻略したコヒマは、丘の上に町が連なる山上都市のような形をしていた。九州に住む私には、コヒマは長崎、インパールは佐賀平野の様に思われた。コヒマで私達が滞在したホテルは、往時の日本軍の「司令部高地」にあり、目の前に日本軍が攻略した高地群が見えていた。それらの高地はそんなに高い訳ではない。丘と呼ぶほどの高さしかない。しかし、一番奥の「イヌ高地」は遂に攻略できなかったのである。そのイヌ高地(ガリソン丘)の中腹に巨大な十字架が建てられ、英軍の「コヒマ戦争共同墓地」となっている。かつて日英の激戦が繰り返された「テニスコート」跡地には今尚、線が引かれ、往時を偲ぶよすがとなっていた。ここでも、インパールと同様に、英印軍将兵一人一人の墓石が作られ、名前が刻んである。この高地の下が、「三叉路」となっており、コヒマの補給地であるディマプール方面への道との分岐点である。その道沿いに大きな英文の石碑が建てられている。そこには、十字架と「あなたが御国に帰った時 祖国の明日の為に本日命を捧げる我々の事を伝えて下さい(WHEN YOU GO HOME TELL THEM OF US AND SAY FOR YOUR TOMORROW WE GAVE OUR TODAY)」との英軍兵士の言葉が刻まれコヒマの代表的なモニュメントとなっている。私達は、この石碑の木製ミニチュアを記念品として観光課の方からいただいた。石碑に刻まれたこの思いは、日本軍将兵にも共通の思いであったであろう。
日本軍の慰霊碑はどこにあるのか。私達は、ガイドの案内で、日本軍の旧野戦病院跡という斜面の草地に行き、そこで清酒や水・線香・花を捧げてコヒマでの戦歿者の冥福を祈った。かつて、戦死した日本軍の御遺骨が焼かれ埋葬されていた所である。それらの御遺骨は、昭和五十年に収集されて日本へ戻っているという。もう一箇所、かつての激戦地アラズラ高地に建つアトラス教会に連れて行かれた。私達は、その敷地の中に建つ日本語の碑文を見る事が出来た。それには次の様に記されていた。「(前略)このたび、カトリックの聖堂がコヒマに建立され朝夕亡き勇士にミサを捧げてくださることは、誠に有難いことです。又地元の皆様が司教様と一緒に末永く往時の勇士を偲んでくだされ、彼らが願った平和と繁栄の為に精進くださるならば、これに優る供養はございません。
茲に、私達生き残り戦友並びに遺族相諮り、聖堂建立資金を集めて奉納する次第です。」
日付は一九八九年一月吉日となっている。結局日本軍の慰霊は、カトリックの司教にお願いしたままになっているのである。
インパールからコヒマに向かう途中の街道で私達は慰霊の為に三ヶ所で降車した。セングマイ・カングラトンビ・ミッションで、日本軍と関係ある土地だった。しかし、セングマイにあるという日本軍の慰霊塚の所在は解らなかった。カングラトンビでは、川の南岸の近くに、かつて日本軍戦死者の遺体を焼却したという草地があり慰霊を行った。ミッションでは、橋の欄干の上に花や線香を供えて、英霊の冥福を祈った。かつて日本軍が通って来たであろう近くの丘には、「ダラモンダラ」という名の黄色いヒマワリが一面に咲き盛っていた。
隔絶させられた親日の土地東インド
このように、東インドの地では、旧日本軍の慰霊施設は非常に限られているのが現状である。その要因としては、今でもそうだが、インパールがある東インドは、バングラディシュとミャンマーにはさまれた、飛び地の位置にあり、政情不安定な為、外国人の入境が極めて制限されている事が上げられよう。今では人数制限はないようだが、昭和六十三年当時では、インパール・コヒマへの日本人入国ビザは政府間協定により年間三十名と限られていた(松岡義昌『謎の国・印度 インパール・コヒマ紀行』)という。今でも、インド入国ビザと別にマニプール州・ナガラント州それぞれに、入境ビザが必要であり、空港や州境では、パスポート・ビザの厳しいチェックが行われた。
しかし、日本人に対する住民感情は極めて親日である。コヒマでは、ホテルのロビーに居た時、私達が日本人と解って握手を求めて来た人もいた。インド国民軍記念館のあるモイランでは、若い青年が記念館近くの自分の家に寄ってくれと誘ってくれた。インパールのロトパチンでも記念碑の近くで握手を求め話しかけてくる方がおられた。この間、インパールの日本語学校の校長先生のマンガンさんが随行してくれたが、コヒマの英印軍墓地で、「自分はここに日本軍の墓地を作りたいんだ」と力を込めて語った姿が今でも印象に残っている。インパールではマンガンさんの教え子の男女四名の青年が行動を共にしてくれた。サンジャックでは、かつて藤原機関と行動を共にした事があるというシーシャクさんが、同行してお話しをして下さり、自宅では、かつての日本軍の写真を見せたりして歓迎してくれた。
インパールを攻略した日本軍の精強さに就いては、先に引用した『謎の国印度』の中で二つの証言が引用されているので、ここでも紹介したい。ひとつは英軍司令官のスリム中将の回顧録の言葉である。「望みなき戦いを続ける分別は別として、あくまで任務を遂行しようとする日本陸軍の勇気と大胆とは疑う余地はない。この意味で日本軍に比肩できる陸軍は、他のいかなる国にも存在しないであろう。」
もう一つは、中根千枝女史のインド未開民族地帯調査の『未開の顔・文明の顔』に紹介されたエピソードである。戦後十年目に初めてこの地を訪れた中根女史は、現地のナガ族が土まんじゅうを添えて葬っていた英霊にひざまずいた時の体験をこう記している。
……連れの青年のひとりは、静かな口調で私に語った。
「日本の兵隊は、実に勇敢でした。英印軍には立派な武器がありました。そして、飛行機も。日本の兵隊は銃剣一つで立ち向かっていきました。死ぬことを少しもこわがっていないようでした。それにとても軍律がきびしかった。」(中略)
「私たちは負けたとはいえ、日本軍のあの勇敢さと軍律のきびしさを、今でも尊敬しています。」……
インド国民軍の顕彰はいかに
私は、インパール作戦の日本軍将兵の慰霊を行うと共に、日本軍と共に戦ったインド国民軍がインドにおいてどのような評価を受けているかにも関心があった。
インパール南方約四〇キロにあるモイランは、インド国民軍(INA)がインパールで最初に国旗(自由インド仮政府)を立てた所で、INA記念館が建てられている。前庭には、かつて国旗を建てた掲揚台が保存され、インド国民軍総裁チャンドラ・ボースの銅像と、かつてシンガポールに建てられていたというインド国民軍戦争記念碑のレプリカが建てられている。記念館の中には、チャンドラ・ボースに関する多くの写真が展示され、インド国民軍と日本軍の遺品が展示されていた。記念館では、昭和十八年(一九四三年)十月二十一日のインド仮政府樹立から五〇年目の日に盛大な祝祭が行われ、その際に発行された「記念誌」を、私達にも贈呈して下さった。
インド独立戦争博物館
更に、私がインド国民軍の戦いの、インド独立運動における意義を強烈に認識させられたのは、インパールの帰路デリーに行ってからであった。デリーの旧市街に聳え立つ「レッドフォート」はムガール帝国時代に建立されたものだが、後には英国のインド支配の牙城としてインド人の前に君臨し、圧政の象徴となった所である。今は、インド国旗が高らかに掲げられ、観光名所と軍の施設として使われている。その中に、「独立戦争博物館」があった。私達が訪れた時もインドの小学生が多数見学に来ていた。二階建ての博物館には、一階にイギリスの圧政を示す様々な展示物があり、二階にはインド国民会議派を中心とする抵抗運動の資料が展示してあった。取り分けて眼を引いたのは、人形を用いた模型展示だった。それは、二つしかなく、それぞれの持つ意味の大きさが偲ばれた。一つは、一階の入って直ぐの所にある。一九一九年四月十三日のガンジー逮捕に抗議して広場に集ったインド人に対する、英人ダイア将軍による無差別銃撃の「アムリトサルの虐殺」の場面であった。そして、もう一つが二階の中央に展示してあった、「インド国民軍将校裁判(INA裁判)」の模様であった。英国は、日本軍の敗戦と共に、自らのインド支配を固定化する為に、日本軍と共に戦ったインド国民軍将校を国家反逆罪で裁こうとした、だがインド人の反発が大きく、結局は宗派の違う三人の将校を選び代表して裁判にかける事とした。「インド国民軍の戦いは、祖国の独立を願うインド人の正当な戦いである」というのが、殆どのインド人の考えであり、インドでは特別弁護団が組織された。この裁判に対するインド国内の反発は大きく暴動が相継いだ。結局英国はINA将校を処刑できずに釈放し、結果的に英国はインド支配を断念せざるを得なくなる。その契機となったのがINA裁判なのだ。そこには、裁かれんとするインド国民軍将校とそれを弁護するネルーを始めとする弁護団の姿が生き生きと描かれていた。この模型展示を見て私は、インド独立運動史におけるインド国民軍の戦いの持つ意味の大きさに改めて気付かせられたのだった。その次の部屋がチャンドラ・ボースとインド国民軍(インパール作戦も含む)の展示場であり多くの写真が展示されていた。日本で語られるような国民会議派の抵抗運動史やガンジーの非暴力主義の歴史だけでは、インド人の魂を揺り動かす真実の独立の「物語」にはならない。祖国の独立の為に武器を執って実際に戦い血を流した歴史、その事実があってこそ「独立」は未来に亙って守られて行くのだ。インド国民軍の戦いの歴史が戦勝国の英国によって冒涜されんとした時、自分たちが戦った戦いの意義を明らかにする為にインドの人々は立ち上がったのである。インド人の生命を賭した独立の叫び、それをこの展示場に聞いた気がする。そして、インド国民軍と共にインパール作戦で戦い散華した多くの日本軍英霊は、この独立インドの歴史に於てその死の意義が贖われ安らぐ事が出来るのである。冒頭に掲げた小山幸一陸軍大尉は、「小さき我身も青史の一頁を飾る大東亜建設の礎と化せば満足です」と記してインパールへと勇躍向かったのである。
無用の長物を建てるよりもっと為すべき事が
今回、インパール・コヒマの地を訪れて胸が痛んだのは、祖国の防衛と大東亜解放・インド独立の為に、かの地で散華された英霊は、日本国と政府から全く顧みられる事も無く、慰霊も行われずに、あまりにも可哀想であるとの思いだった。確かに、長い間日本人の入境制限が行われていた中で、戦友や遺族の方々は定期的に慰霊の為に訪問され私財を投じ、やれるだけの事を尽くして来られたと思うが、民間では限界があるのだ。
政府は、反日国家である中国・韓国からの要人の為に、無宗教の国立追悼施設の建設を企図しているという。そこには戦歿者を悼む心は全く存在していない。日本国の政府なら日本の為に生命を捧げられた方々の為に税金を使うべきである。再来年は終戦六十周年を迎えるが、未だに太平洋海域を始め南方には、回収される事を待っている多くの御遺骨が放置されている。そして、今回私達が訪問したインパールやコヒマでは、慰霊の場さえ、わずかにしか建立されていないのが現状なのである。終戦に際し、昭和天皇は詔書に於て「朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。」とその御無念をお述べになられている。終戦六十年に際し、日本国政府は、この原点に回帰し、日本と共に東亜の解放に起ち上がった国々や人々の顕彰に力を入れるべきではないのか。アジアの友と生死を共にした英霊の顕彰に尽力すべきだと思う。昨年は日印国交樹立五十周年だったが、デリーのテレビでは未だに、韓国放送は流れてもNHKは映らない。日本国政府のインド政策の怠慢が伺われる。日本人が生命を捧げる事で築かれた、親日国家インドとの絆を深める事にもっと眼を向けるべきではないだろうか。
終戦六十周年を機に日印両政府の共同事業として、インパール・コヒマの地に、インド独立戦争記念館を建設し、インド国民軍と日本軍の歴史の顕彰を行い、その意義を世界に発信すると共に、かの地で亡くなった日本軍・インド国民軍の英霊をお祭りする「日本・インド共同慰霊施設」を建立すべきである。英国の支配を否定してインドが独立した今日、何故に英軍墓地の方が盛大で、インド国民軍と日本軍が歴史の隅に追いやられたままでいなければならないのか。あまりにも理不尽ではなかろうか。
靖国神社で出会う兄弟の御霊
「皆様其後御変りなきことゝ存じます 小官千数百粁の山岳地帯を行軍 今尚志気極めて旺盛 御奉公致して居ります 父母上様 稔子の写真入手致し 殊更懐しく私と共に戦ひ 共に露営をしてをります 隆司(※弟の名前)も南の第一線に進出 家門の誉と考へて居ります 昔の隆司を思出し 再開の日は不明なれど場所は靖国の御社と約しました 当地も『ノースアメリカン』がよく来襲しますが敵の断末魔のあがきの如く見えます 印度を臨み大いに自重自愛忠の道に励み孝を致したいと思ひます」
「私も相変らず深山の中に猿や豹の声を聞いて元気に御奉公致して居ります(略)本書を以て或は当分最后の便となるやも知れず 常々御願ひしある事等宜敷く御配慮下さい 小さき我身も青史の一頁を飾る大東亜建設の礎と化せば満足です 『散りて甲斐ある命なりせば』です」
これらは、昭和十九年三月に開始されたインパール作戦を前に、ビルマの山中から父親と家族一同に宛てた、小山幸一陸軍大尉の手紙の一節である。京都府宮津町出身の小山大尉は、この年の五月二〇日にインドで戦死した。二十五歳であった。弟の小山隆司陸軍軍曹も、同年九月九日にニューギニアで戦死している。二人は、約束の地靖国神社で再会し、二人の魂は今尚、祖国の行く末を見守っている。
だが、今日の日本では、鎮まります英霊の魂を引き裂くが如き蛮行―靖国神社に代わる国立追悼施設の建設を政府が行なわんとしているのである。かかる企みは決して許されない、私も日本会議熊本の同志と共にその阻止へ向けて微力を尽くして来た。その様な中で数多英霊の眠る東インドのインパール・コヒマを訪れる機会を得た。昨年の十一月二十四日から二十八日にかけての事である。
インパール作戦について
インパール作戦の準備が決定したのは昭和十八年の八月、当時、日本軍が駐留するビルマの北側には、重慶にある蒋介石政権を支援する「援蒋ルート」がインドから本格的に構築されようとし、かつ米軍の支援を受けたインド在住英軍がビルマ奪回を目指し本格的な反攻作戦に移ろうとしていた。その拠点がインパールだった。日本軍にとってビルマ防衛・援蒋ルート遮断の意味でも、西から迫る英軍に対応する必要性があった。更には、日本軍の支援の下、民族の指導者チャンドラ・ボースを司令官に迎えて士気の上がるインド国民軍の、祖国独立闘争を推進する事により、大東亜戦争の持つ意味を明らかにするという政治上の目的もあった。しかし、当時既に制空権は完全に奪われた中で、ビルマ・インドの国境地帯に、南北に幾重にも伸びる三千メートル級のアラカン山脈を越えてのインパール進撃には、武器弾薬・食糧補給の点で問題が多く、インパール作戦には始めから困難が山積していた。昭和十九年三月十五日に作戦は開始された。インパールへは、アッサム州の州都のディマプール(鉄道が走っている)からコヒマ(インパール北方約百キロ)経由で物資や人員の補給が行われる為、第三十一師団(烈)にはコヒマを占領して補給を断つ任が与えられ、インパールに対しては、東方から第十五師団(祭)、南方からは第三十三師団(弓)が迫って、包囲し占領するというものだった。インド国民軍約一万人もインパールを目指した。だが、ビルマから進撃した日本陸軍第十五軍七八、三九六名は、コヒマ・インパールを包囲しつつも、補給の続かない中で決定的な打撃力を加えるに至らずに長期化し、雨季を迎え、飢餓と疫病に苦しみつつ撤退のやむなきに至った。戦死者は四八、九三〇名に及んだ。
インパールの地にはインド国民軍と共に欧米のアジア支配を打ち破らんとした先人達の大いなる志と、敵との圧倒的な火力の落差の中で奮闘した血の滲むような労苦と、志半ばにして撤退せざるを得なかった無念の涙が刻まれている。
広大な盆地インパール
成田空港からインド航空に乗り、バンコク経由で十二時間、デリーに到着した。一泊し、翌朝国内便で東へ向い、コワハティ経由三時間半でインパール空港に到着する。インド最東部、ミャンマーとの国境地帯にあるインパール・コヒマは、今尚治安が悪い為、街中でも装甲車が走り、郊外に出れば要所要所で銃を携行した兵士が警備の任に就いていた。
インパールに着いて先ず驚いたのはインパール盆地の広大さであった。広さは日本の濃尾平野位だと聞いていたが、アッサム高原の中にあるとは思えない程の広さである。一七〇〇平方キロ・四〇万人の人口と言う。盆地では農業が営まれ田園が広がっている。朝市を見に行ったが、米やジャガイモ・豆類・野菜などの様々な農作物や魚類(淡水魚)が所狭しと並べられていた。しかし、電力事情は悪く、宿泊したホテルでは、何度も停電した。
顕彰される事無き「インド平和記念碑」
私達は、様々な戦跡を訪れたが、最も印象に残った事は、勝った側の英軍墓地の立派さに較べ、日本軍及びインド国民軍の慰霊施設の貧弱さであった。
インパールでは、市街北部にあるインパールホテル近くの広大な敷地に、英軍の為の「インパール戦争共同墓地(Imphal War Cemetery)」が作られ、十字架を中心に英印軍(英軍に所属した英人将校及びインド人将兵)戦死者一人一人の墓標が地面に並んでいた。石の上に据えられた金属板の墓標には、十字架が描かれ、戦死した将兵の名前と日時、更には肉親の言葉が刻まれている。又、「彼らの名前は永遠に生き続ける(THEIR NAME LIVETH FOR EVERMORE)」と刻まれた碑も建てられていた。勿論「彼ら」には日本軍は含まれていない。私達はこの共同墓地を早朝に訪れたが、朝日の差す風景は荘厳であった。
それでは、日本軍将兵を悼む施設はどうだろうか。皆無ではない。インパールの西南十六キロのロトパチン村に「インド平和記念碑」が建立されている。この記念碑の場所はレッドヒル(2926高地)の麓である。レッドヒルとは、ここで激戦となり多くの日本軍将兵の血が流され、丘が血で真っ赤に染まった事から名付けられたという。このレッドヒルを最後に丘陵は終わり後はインパールまで平地となる。ここまで進出したのは第三十三師団の笹原大隊である。東方より丘陵伝いに進撃した日本軍は、英印軍の圧倒的な戦車や火砲の前に為す術が無く、前進を阻まれ膠着状態に陥るのだった。インパール作戦の記録を読めば、弾薬・火砲の補給の無い日本軍の無念さが痛切に伝わってくる。
この「平和記念碑」の建立の由来は、昭和五十六年から日本政府がインド政府に交渉し、平成四年六月の宮沢首相とインドのラオ首相の日印首脳会談で合意され、平成六年(一九九四年)十月七日に建立されたという。建立者としては、三井建設の鬼沢 正(オニザワナオシ)頭取の名前が刻まれていた。碑文には「さきの大戦においてインド方面で戦没した人々をしのび 平和への思いをこめるとともに 日本インド両国民の友好の象徴としてこの碑を建立する」と日英両語で刻まれている。私達は、日本から持参した水・清酒・線香と花を捧げてアジア解放に尽力された日印両国の英霊をお偲びした。更に、この記念碑の近くには、ロトパチンの村民が昭和五十二年(一九七七年)十二月十二日に建立した「インパール作戦戦没勇士の碑」があり、大きな日本語で「英霊よ この地で安らかにお眠り下さい」と記されている。建立の中心となられた村長さんは既にお亡くなりになったが、村民がこの碑を守っているという。インパール作戦から三十三年間は、この地には慰霊の碑は一つもなく、更に日本人が建立したのは、戦後五十四年が過ぎた後の事であった。平成の御代になるまで建立されなかったのである。しかも、「インド平和記念碑」には簡単な碑文だけしか記されていない。これでは、何故日本軍が遥かインパールまでやって来たのか、この戦争が何故「日印の友好の象徴なのか」は全く解らない。記念碑を建立するだけでは、記憶を伝える人が居なくなった時、碑の意味は失われ風化してしまうのではないだろうか。
壊された忠霊塔―サンジャック戦争記念碑
インパール作戦において、コヒマを目指した三十一師団の精鋭宮崎兵団は、途中ウクルルを陥し、その南方に位置するサンジャックも攻撃した。インパールの北東約六十キロの山の中に位置するサンジャックには、英印軍の強固な陣地があり、ここを陥すのに、宮崎兵団は多くの犠牲を強いられている。私達はそのサンジャックを訪れた。生憎の雨模様で雲が流れ、眺望は全く利かなかった。それでも、戦跡に立つ教会の近くに行き、往時を偲ぶ事が出来た。教会下の広場には、「西田 将(すすむ)大尉会館(CAPT.SUSUMU NISHIDA HALL)」が建てられていた。西田大尉とは、サンジャック攻略時の五十八連隊第十一中隊長の西田中尉の事で、西田中隊長はサンジャック攻略の中心部隊として活躍し、自ら重症を負っている。その西田氏が一九八二年に来訪されて、この記念館を建立されたのだった。しかし残念な事に、中には数葉の写真と本が数冊置いてあるだけで、往時を偲ぶよすがとなるものではなかった。
一方英印軍については、近くの丘に立派な「サンジャック戦争記念碑(SHANGSHAK WAR MEMORIAL)」が建っている。この碑の場所は、かつて日本軍が忠霊塔を建てていた所であり、其の後、英軍が記念碑を建て、更に、二〇〇二年に地元のアッサムライフル連隊がこの碑に代えたとの事であった。しかし、記念碑の壁面にはこの地で無くなった英印軍将兵の名前のみが刻まれていた。
記念碑皆無のコヒマ
第三十一師団が攻略したコヒマは、丘の上に町が連なる山上都市のような形をしていた。九州に住む私には、コヒマは長崎、インパールは佐賀平野の様に思われた。コヒマで私達が滞在したホテルは、往時の日本軍の「司令部高地」にあり、目の前に日本軍が攻略した高地群が見えていた。それらの高地はそんなに高い訳ではない。丘と呼ぶほどの高さしかない。しかし、一番奥の「イヌ高地」は遂に攻略できなかったのである。そのイヌ高地(ガリソン丘)の中腹に巨大な十字架が建てられ、英軍の「コヒマ戦争共同墓地」となっている。かつて日英の激戦が繰り返された「テニスコート」跡地には今尚、線が引かれ、往時を偲ぶよすがとなっていた。ここでも、インパールと同様に、英印軍将兵一人一人の墓石が作られ、名前が刻んである。この高地の下が、「三叉路」となっており、コヒマの補給地であるディマプール方面への道との分岐点である。その道沿いに大きな英文の石碑が建てられている。そこには、十字架と「あなたが御国に帰った時 祖国の明日の為に本日命を捧げる我々の事を伝えて下さい(WHEN YOU GO HOME TELL THEM OF US AND SAY FOR YOUR TOMORROW WE GAVE OUR TODAY)」との英軍兵士の言葉が刻まれコヒマの代表的なモニュメントとなっている。私達は、この石碑の木製ミニチュアを記念品として観光課の方からいただいた。石碑に刻まれたこの思いは、日本軍将兵にも共通の思いであったであろう。
日本軍の慰霊碑はどこにあるのか。私達は、ガイドの案内で、日本軍の旧野戦病院跡という斜面の草地に行き、そこで清酒や水・線香・花を捧げてコヒマでの戦歿者の冥福を祈った。かつて、戦死した日本軍の御遺骨が焼かれ埋葬されていた所である。それらの御遺骨は、昭和五十年に収集されて日本へ戻っているという。もう一箇所、かつての激戦地アラズラ高地に建つアトラス教会に連れて行かれた。私達は、その敷地の中に建つ日本語の碑文を見る事が出来た。それには次の様に記されていた。「(前略)このたび、カトリックの聖堂がコヒマに建立され朝夕亡き勇士にミサを捧げてくださることは、誠に有難いことです。又地元の皆様が司教様と一緒に末永く往時の勇士を偲んでくだされ、彼らが願った平和と繁栄の為に精進くださるならば、これに優る供養はございません。
茲に、私達生き残り戦友並びに遺族相諮り、聖堂建立資金を集めて奉納する次第です。」
日付は一九八九年一月吉日となっている。結局日本軍の慰霊は、カトリックの司教にお願いしたままになっているのである。
インパールからコヒマに向かう途中の街道で私達は慰霊の為に三ヶ所で降車した。セングマイ・カングラトンビ・ミッションで、日本軍と関係ある土地だった。しかし、セングマイにあるという日本軍の慰霊塚の所在は解らなかった。カングラトンビでは、川の南岸の近くに、かつて日本軍戦死者の遺体を焼却したという草地があり慰霊を行った。ミッションでは、橋の欄干の上に花や線香を供えて、英霊の冥福を祈った。かつて日本軍が通って来たであろう近くの丘には、「ダラモンダラ」という名の黄色いヒマワリが一面に咲き盛っていた。
隔絶させられた親日の土地東インド
このように、東インドの地では、旧日本軍の慰霊施設は非常に限られているのが現状である。その要因としては、今でもそうだが、インパールがある東インドは、バングラディシュとミャンマーにはさまれた、飛び地の位置にあり、政情不安定な為、外国人の入境が極めて制限されている事が上げられよう。今では人数制限はないようだが、昭和六十三年当時では、インパール・コヒマへの日本人入国ビザは政府間協定により年間三十名と限られていた(松岡義昌『謎の国・印度 インパール・コヒマ紀行』)という。今でも、インド入国ビザと別にマニプール州・ナガラント州それぞれに、入境ビザが必要であり、空港や州境では、パスポート・ビザの厳しいチェックが行われた。
しかし、日本人に対する住民感情は極めて親日である。コヒマでは、ホテルのロビーに居た時、私達が日本人と解って握手を求めて来た人もいた。インド国民軍記念館のあるモイランでは、若い青年が記念館近くの自分の家に寄ってくれと誘ってくれた。インパールのロトパチンでも記念碑の近くで握手を求め話しかけてくる方がおられた。この間、インパールの日本語学校の校長先生のマンガンさんが随行してくれたが、コヒマの英印軍墓地で、「自分はここに日本軍の墓地を作りたいんだ」と力を込めて語った姿が今でも印象に残っている。インパールではマンガンさんの教え子の男女四名の青年が行動を共にしてくれた。サンジャックでは、かつて藤原機関と行動を共にした事があるというシーシャクさんが、同行してお話しをして下さり、自宅では、かつての日本軍の写真を見せたりして歓迎してくれた。
インパールを攻略した日本軍の精強さに就いては、先に引用した『謎の国印度』の中で二つの証言が引用されているので、ここでも紹介したい。ひとつは英軍司令官のスリム中将の回顧録の言葉である。「望みなき戦いを続ける分別は別として、あくまで任務を遂行しようとする日本陸軍の勇気と大胆とは疑う余地はない。この意味で日本軍に比肩できる陸軍は、他のいかなる国にも存在しないであろう。」
もう一つは、中根千枝女史のインド未開民族地帯調査の『未開の顔・文明の顔』に紹介されたエピソードである。戦後十年目に初めてこの地を訪れた中根女史は、現地のナガ族が土まんじゅうを添えて葬っていた英霊にひざまずいた時の体験をこう記している。
……連れの青年のひとりは、静かな口調で私に語った。
「日本の兵隊は、実に勇敢でした。英印軍には立派な武器がありました。そして、飛行機も。日本の兵隊は銃剣一つで立ち向かっていきました。死ぬことを少しもこわがっていないようでした。それにとても軍律がきびしかった。」(中略)
「私たちは負けたとはいえ、日本軍のあの勇敢さと軍律のきびしさを、今でも尊敬しています。」……
インド国民軍の顕彰はいかに
私は、インパール作戦の日本軍将兵の慰霊を行うと共に、日本軍と共に戦ったインド国民軍がインドにおいてどのような評価を受けているかにも関心があった。
インパール南方約四〇キロにあるモイランは、インド国民軍(INA)がインパールで最初に国旗(自由インド仮政府)を立てた所で、INA記念館が建てられている。前庭には、かつて国旗を建てた掲揚台が保存され、インド国民軍総裁チャンドラ・ボースの銅像と、かつてシンガポールに建てられていたというインド国民軍戦争記念碑のレプリカが建てられている。記念館の中には、チャンドラ・ボースに関する多くの写真が展示され、インド国民軍と日本軍の遺品が展示されていた。記念館では、昭和十八年(一九四三年)十月二十一日のインド仮政府樹立から五〇年目の日に盛大な祝祭が行われ、その際に発行された「記念誌」を、私達にも贈呈して下さった。
インド独立戦争博物館
更に、私がインド国民軍の戦いの、インド独立運動における意義を強烈に認識させられたのは、インパールの帰路デリーに行ってからであった。デリーの旧市街に聳え立つ「レッドフォート」はムガール帝国時代に建立されたものだが、後には英国のインド支配の牙城としてインド人の前に君臨し、圧政の象徴となった所である。今は、インド国旗が高らかに掲げられ、観光名所と軍の施設として使われている。その中に、「独立戦争博物館」があった。私達が訪れた時もインドの小学生が多数見学に来ていた。二階建ての博物館には、一階にイギリスの圧政を示す様々な展示物があり、二階にはインド国民会議派を中心とする抵抗運動の資料が展示してあった。取り分けて眼を引いたのは、人形を用いた模型展示だった。それは、二つしかなく、それぞれの持つ意味の大きさが偲ばれた。一つは、一階の入って直ぐの所にある。一九一九年四月十三日のガンジー逮捕に抗議して広場に集ったインド人に対する、英人ダイア将軍による無差別銃撃の「アムリトサルの虐殺」の場面であった。そして、もう一つが二階の中央に展示してあった、「インド国民軍将校裁判(INA裁判)」の模様であった。英国は、日本軍の敗戦と共に、自らのインド支配を固定化する為に、日本軍と共に戦ったインド国民軍将校を国家反逆罪で裁こうとした、だがインド人の反発が大きく、結局は宗派の違う三人の将校を選び代表して裁判にかける事とした。「インド国民軍の戦いは、祖国の独立を願うインド人の正当な戦いである」というのが、殆どのインド人の考えであり、インドでは特別弁護団が組織された。この裁判に対するインド国内の反発は大きく暴動が相継いだ。結局英国はINA将校を処刑できずに釈放し、結果的に英国はインド支配を断念せざるを得なくなる。その契機となったのがINA裁判なのだ。そこには、裁かれんとするインド国民軍将校とそれを弁護するネルーを始めとする弁護団の姿が生き生きと描かれていた。この模型展示を見て私は、インド独立運動史におけるインド国民軍の戦いの持つ意味の大きさに改めて気付かせられたのだった。その次の部屋がチャンドラ・ボースとインド国民軍(インパール作戦も含む)の展示場であり多くの写真が展示されていた。日本で語られるような国民会議派の抵抗運動史やガンジーの非暴力主義の歴史だけでは、インド人の魂を揺り動かす真実の独立の「物語」にはならない。祖国の独立の為に武器を執って実際に戦い血を流した歴史、その事実があってこそ「独立」は未来に亙って守られて行くのだ。インド国民軍の戦いの歴史が戦勝国の英国によって冒涜されんとした時、自分たちが戦った戦いの意義を明らかにする為にインドの人々は立ち上がったのである。インド人の生命を賭した独立の叫び、それをこの展示場に聞いた気がする。そして、インド国民軍と共にインパール作戦で戦い散華した多くの日本軍英霊は、この独立インドの歴史に於てその死の意義が贖われ安らぐ事が出来るのである。冒頭に掲げた小山幸一陸軍大尉は、「小さき我身も青史の一頁を飾る大東亜建設の礎と化せば満足です」と記してインパールへと勇躍向かったのである。
無用の長物を建てるよりもっと為すべき事が
今回、インパール・コヒマの地を訪れて胸が痛んだのは、祖国の防衛と大東亜解放・インド独立の為に、かの地で散華された英霊は、日本国と政府から全く顧みられる事も無く、慰霊も行われずに、あまりにも可哀想であるとの思いだった。確かに、長い間日本人の入境制限が行われていた中で、戦友や遺族の方々は定期的に慰霊の為に訪問され私財を投じ、やれるだけの事を尽くして来られたと思うが、民間では限界があるのだ。
政府は、反日国家である中国・韓国からの要人の為に、無宗教の国立追悼施設の建設を企図しているという。そこには戦歿者を悼む心は全く存在していない。日本国の政府なら日本の為に生命を捧げられた方々の為に税金を使うべきである。再来年は終戦六十周年を迎えるが、未だに太平洋海域を始め南方には、回収される事を待っている多くの御遺骨が放置されている。そして、今回私達が訪問したインパールやコヒマでは、慰霊の場さえ、わずかにしか建立されていないのが現状なのである。終戦に際し、昭和天皇は詔書に於て「朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。」とその御無念をお述べになられている。終戦六十年に際し、日本国政府は、この原点に回帰し、日本と共に東亜の解放に起ち上がった国々や人々の顕彰に力を入れるべきではないのか。アジアの友と生死を共にした英霊の顕彰に尽力すべきだと思う。昨年は日印国交樹立五十周年だったが、デリーのテレビでは未だに、韓国放送は流れてもNHKは映らない。日本国政府のインド政策の怠慢が伺われる。日本人が生命を捧げる事で築かれた、親日国家インドとの絆を深める事にもっと眼を向けるべきではないだろうか。
終戦六十周年を機に日印両政府の共同事業として、インパール・コヒマの地に、インド独立戦争記念館を建設し、インド国民軍と日本軍の歴史の顕彰を行い、その意義を世界に発信すると共に、かの地で亡くなった日本軍・インド国民軍の英霊をお祭りする「日本・インド共同慰霊施設」を建立すべきである。英国の支配を否定してインドが独立した今日、何故に英軍墓地の方が盛大で、インド国民軍と日本軍が歴史の隅に追いやられたままでいなければならないのか。あまりにも理不尽ではなかろうか。
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