河原操子 その二 (『祖国と青年』平成26年11月号掲載)
天命と信じて日支親善に尽さん
この重任を天の使命と信じて、あらん限りの力を尽すべき(蒙古土産)
十二月二十一日、河原操子はカラチン王府に到着した。翌日操子は王妃に会って、女学校設立の具体的な構想を語った。王妃は約一ヶ月余の準備期間での開校を勧めたが、操子は「時日を先延ばししている内に様々な困難が生じて私の任務遂行が難しくなる事もありうる」と考えて、一週間後の二十八日に開校式を挙げる事を強く進言し、了解を得た。だが、日記によると、その日は旅の疲れと寒さによって頭痛が酷く遂に床に就いてしまった、とあるので、病を押して王妃に面会し、開校の速やかなる事を進言しているのである。すさまじい気力である。
次の日から操子は驚異的なスピードでカラチン初の女学校開校に向けて諸準備を進めた。学校の名は「毓正女学堂」毓は育と同字で、正しく育むとの意味である。
【学科】修身(課本・口授)蒙文(講読・拼語・作文・文法)漢文(講読・拼語・作文・文法)日文(読本・会話・作文・文法)歴史(中国・外国)地理(中国・外国)算術(珠算・筆算)理科(博物・衛生・生理)図画(自在画)家政(礼式・衣服・装束・烹調(ほうちょう)・料理・住居・使役・簿記・看護・育児)裁縫(縫法・裁法・完成法・畳蔵法)音楽(唱歌・洋琴)体操(遊戯・普通体操)
【年限】尋常科四年・高等科四年・専修科三年・補習科二年である。
操子は自ら日文・算術・日語・唱歌・体操・図画・家政・裁縫を教えた。かくて開校時には二十四名の生徒が集まった。
開校式で操子は「不才の自分が果してこの重任を全うして王妃の御期待に副い得るか否か、甚だ不安に感じるが、日支親善の国家的要求に応じるため身を献げる覚悟にて、先年来清国女子教育に従事して来たものであれば、この重任を天の使命と信じて、あらん限りの力を尽したい」旨を述べた。
いざという時には自分で生命を絶つ
人の手などにかゝりて最後を遂げんこと口惜しければ、見事自刃せん覚悟にて(蒙古土産)
操子には、内蒙古の地の利を活かした日露戦争の支援という、もう一つの国家的な使命があった。
明治三十七年二月、日露開戦となるや、カラチンにもロシア側のスパイが多数出没し情報収集に当る様になる。それを操子は出来るだけ委しく調べて本国に報告した。奥地から来る通信は操子自ら区分けして、熱河から電報をすべきものはその手配をし、北京まで直送すべきものは特使を発した。特別任務班の入蒙の際は、秘密裏に連絡をとって任務遂行を助けた。
操子は記す。「とにかくこの地には私一人しか居ないので、女ながらも双肩に母国の安危を担っている心地がして、躊躇していては彼等(ロシア側)に機先を制せられる事もあるかも知れないと、心も心ならずに、時には王、王妃に請うて、特に飛脚を出して戴いた事もあり。自分でその大胆さに驚くほどの事も行なった。この様な重大事に関しては、微力な自分では何のお役にも立つ事は出来ないかもしれないが、至誠の祈り心を以て、日本と朝鮮との関係などを王に説明申し上げ、王様もうなずいてお聞き頂いた。」と。
周りにはロシアの手の者も多く、操子を罵り排撃せんとする者も居たが、操子は王室教育顧問の待遇の為、安易には手を出せなかった。操子はその時の覚悟の程を次の様に記している。
「そうはあっても私は、ロシアに好意を寄せる王府内の多数の人々に憎悪されているので、いついかなるどのような危難が私の身に迫るか予測も出来ない。その様な場合、他人の手にかかって最期を遂げる様な事があったら口惜しいので、その時は見事に自刃しようと覚悟し、入蒙の際に父から送られた懐剣を寸時も放さず持ち、又護身用のピストルも常に側に備えて置いた。更に、何時変事が生じても差しさわりの無い様に、常に荷物の整理をして、表裏両面の事業に心を砕いた。」と。
操子の父忠は手紙で、操子の入蒙を喜び励ますと共に、武士らしくわが娘に万一の時の覚悟を諭していた。
忠は「昔烈女木蘭は、男装して戦地へ出発した。お前も祖国の為に大切な任務を帯びて入蒙するのだから、千危万難は覚悟の前であろうが、万一の時は此懐剣を以て処決し、日本女子の名を汚すな」と書いて、一口の懐剣を贈った。その懐剣を操子は肌身離さず持っていた。
決死の勇士達への優しい心づくし
生命をかけて御国の為に特別の任務を果さんとせらるゝ、雄々しくも頼もしき方々を、明日は御慰めいたさん(蒙古土産)
ロシア軍の後方を攪乱すべくシベリア鉄道破壊の任務を帯びた「特別任務班」の中の三班は二月から三月にかけてカラチンに入り、装備を調達し最終調整して任地へと旅立って行った。その中には、後にロシアに捕われて処刑される際に、自らの所持金をロシア赤十字に寄付する事を申し出て、欧米人に感動を与えた横川省三や沖禎介も居た。彼等の最終のお世話に操子は当ったのである。
操子は、国の為に決死の覚悟で困難な任務に当ろうとしている方々の心の慰めにでもなればと思い、花瓶を飾って草花を活け、江戸土産の錦絵を掲げ、部屋の飾りを総て純然たる日本風に仕立てて彼らとの面会に臨んだ。烈士の中には恩師の子であり、旧知の脇光三も居た。死を覚悟して任に当る彼等の心中を思い、心からの無事を祈るのだった。
作家の保田與重郎氏は操子の『蒙古土産』を読んで感動し、『改版 日本の橋』の中に「河原操子」という小文を記した。その中の一文を引用する。
「私がこゝに、明治先覚者の一人として、多くの女性のなかから選び出して女史を語るのは、女史のもつてゐた行為への勇気と決意の実践が、つねにわが日本女性の美しい心ばへの伴奏であつたといふ事実を知つたからである。その愛情が、そのまゝにヒユマニズムとして、又国家の理想と合致してゐたのである。己の思ひをかくして行動した女丈夫でなく、己の思ひに自然に泣き、悲しみ、しかもそのまゝに崇高な心情で行為した女性であつた。その文章にも、やさしい日本の女性の心が、どんな行為に付随した身振りも宣伝も伴はずに自然に描かれてゐる。何といはうか、それはある命目を立ててなされたやうな行為ではなかつたのである。最も立派で勇気のあることが、淡々と極めて自然に、さうしてやさしいさまで行はれた。」
河原操子は決して女丈夫では無く、優しい心根の繊細な女性であった。
三島由紀夫氏は「日本人の誇り」の中で「日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。」と述べられているが、河原操子は正にその様な文武の精神が結合した人格の持ち主であった。
教師たる自分は、常に成長し続けねばならない
時勢後れの身にて長くこゝに留まらんは、蒙古の為にも、我国のためにも善き事ならねば(蒙古土産)
日露戦争が終わった後、河原操子はその功績を讃えられて勲六等に叙せられた。女性では初めての事である。
だが、操子は言う。「これは然し、私の愛国心が特に強かった為ではなく、日本婦人であるなら誰でも、この様な国家非常の際に、御国にとって大切な役目を申し付けられましたら、一身の安危など考えて躊躇することはないでしょうと存じます。いざ火事という場合は、女でも意外に大力の出るものでございます。」(『新版蒙古土産・序編』)
三十七年末に王・王妃に随伴して北京に入京した折、友人や先輩からは帰国を勧められたが、操子は王妃の篤い信任と生徒等の愛情にほだされ、かつ未だ学校の基礎が強固でない事を思い、帰国を辞退してカラチンに戻った。三十八年には学校の基礎も漸く固まり、日露戦争も終結して平和を恢復し、裏面の任務も終了する。
そこで操子は自らの事を静かに考えた。蒙古に来て二年、上海から数えれば三年、未開辺鄙な土地で過ごし、新しい知識を吸収する事も読書に励む事も出来て居ない。それ故「頭脳は次第に時勢後れとなって来ている感じがする。時勢後れの身で長くここに留まる事は、蒙古の為にも、我国のためにも善い事ではないと思われる。とにかく一旦帰朝し、良い代りの人が居れば交替して、一・二年間日本で勉強し直し、新知識と新抱負とを持って再び入蒙しよう」との結論に至る。
確かに三年もの間新しい知識の吸収が出来ないならば、自らの教育力は確実に低下するであろう。私は三十歳前後に妻子を実家に戻して二年間、全国を飛び回って上映会や遊説を行い、殆ど休む事のない生活を送った。その直後に研修局長となり、書物をむさぼる様に読破して行った。活動の中で魂の渇きと新知識への欲求が高まっていたのだ。感化力は日々の努力と成長によってのみ維持する事が出来る。
三十九年一月、操子は帰国を果した。側にはカラチンの将来を担う三人の蒙古子女を同伴していた。少女達は下田歌子の実践女学校で学び、後に毓正女学堂の教師となって行く。
三十一歳になった操子は、結婚を薦められ、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長一宮鈴太郎夫人となって渡米する。それから十五年間、日米の懸け橋となって活躍した。
天命と信じて日支親善に尽さん
この重任を天の使命と信じて、あらん限りの力を尽すべき(蒙古土産)
十二月二十一日、河原操子はカラチン王府に到着した。翌日操子は王妃に会って、女学校設立の具体的な構想を語った。王妃は約一ヶ月余の準備期間での開校を勧めたが、操子は「時日を先延ばししている内に様々な困難が生じて私の任務遂行が難しくなる事もありうる」と考えて、一週間後の二十八日に開校式を挙げる事を強く進言し、了解を得た。だが、日記によると、その日は旅の疲れと寒さによって頭痛が酷く遂に床に就いてしまった、とあるので、病を押して王妃に面会し、開校の速やかなる事を進言しているのである。すさまじい気力である。
次の日から操子は驚異的なスピードでカラチン初の女学校開校に向けて諸準備を進めた。学校の名は「毓正女学堂」毓は育と同字で、正しく育むとの意味である。
【学科】修身(課本・口授)蒙文(講読・拼語・作文・文法)漢文(講読・拼語・作文・文法)日文(読本・会話・作文・文法)歴史(中国・外国)地理(中国・外国)算術(珠算・筆算)理科(博物・衛生・生理)図画(自在画)家政(礼式・衣服・装束・烹調(ほうちょう)・料理・住居・使役・簿記・看護・育児)裁縫(縫法・裁法・完成法・畳蔵法)音楽(唱歌・洋琴)体操(遊戯・普通体操)
【年限】尋常科四年・高等科四年・専修科三年・補習科二年である。
操子は自ら日文・算術・日語・唱歌・体操・図画・家政・裁縫を教えた。かくて開校時には二十四名の生徒が集まった。
開校式で操子は「不才の自分が果してこの重任を全うして王妃の御期待に副い得るか否か、甚だ不安に感じるが、日支親善の国家的要求に応じるため身を献げる覚悟にて、先年来清国女子教育に従事して来たものであれば、この重任を天の使命と信じて、あらん限りの力を尽したい」旨を述べた。
いざという時には自分で生命を絶つ
人の手などにかゝりて最後を遂げんこと口惜しければ、見事自刃せん覚悟にて(蒙古土産)
操子には、内蒙古の地の利を活かした日露戦争の支援という、もう一つの国家的な使命があった。
明治三十七年二月、日露開戦となるや、カラチンにもロシア側のスパイが多数出没し情報収集に当る様になる。それを操子は出来るだけ委しく調べて本国に報告した。奥地から来る通信は操子自ら区分けして、熱河から電報をすべきものはその手配をし、北京まで直送すべきものは特使を発した。特別任務班の入蒙の際は、秘密裏に連絡をとって任務遂行を助けた。
操子は記す。「とにかくこの地には私一人しか居ないので、女ながらも双肩に母国の安危を担っている心地がして、躊躇していては彼等(ロシア側)に機先を制せられる事もあるかも知れないと、心も心ならずに、時には王、王妃に請うて、特に飛脚を出して戴いた事もあり。自分でその大胆さに驚くほどの事も行なった。この様な重大事に関しては、微力な自分では何のお役にも立つ事は出来ないかもしれないが、至誠の祈り心を以て、日本と朝鮮との関係などを王に説明申し上げ、王様もうなずいてお聞き頂いた。」と。
周りにはロシアの手の者も多く、操子を罵り排撃せんとする者も居たが、操子は王室教育顧問の待遇の為、安易には手を出せなかった。操子はその時の覚悟の程を次の様に記している。
「そうはあっても私は、ロシアに好意を寄せる王府内の多数の人々に憎悪されているので、いついかなるどのような危難が私の身に迫るか予測も出来ない。その様な場合、他人の手にかかって最期を遂げる様な事があったら口惜しいので、その時は見事に自刃しようと覚悟し、入蒙の際に父から送られた懐剣を寸時も放さず持ち、又護身用のピストルも常に側に備えて置いた。更に、何時変事が生じても差しさわりの無い様に、常に荷物の整理をして、表裏両面の事業に心を砕いた。」と。
操子の父忠は手紙で、操子の入蒙を喜び励ますと共に、武士らしくわが娘に万一の時の覚悟を諭していた。
忠は「昔烈女木蘭は、男装して戦地へ出発した。お前も祖国の為に大切な任務を帯びて入蒙するのだから、千危万難は覚悟の前であろうが、万一の時は此懐剣を以て処決し、日本女子の名を汚すな」と書いて、一口の懐剣を贈った。その懐剣を操子は肌身離さず持っていた。
決死の勇士達への優しい心づくし
生命をかけて御国の為に特別の任務を果さんとせらるゝ、雄々しくも頼もしき方々を、明日は御慰めいたさん(蒙古土産)
ロシア軍の後方を攪乱すべくシベリア鉄道破壊の任務を帯びた「特別任務班」の中の三班は二月から三月にかけてカラチンに入り、装備を調達し最終調整して任地へと旅立って行った。その中には、後にロシアに捕われて処刑される際に、自らの所持金をロシア赤十字に寄付する事を申し出て、欧米人に感動を与えた横川省三や沖禎介も居た。彼等の最終のお世話に操子は当ったのである。
操子は、国の為に決死の覚悟で困難な任務に当ろうとしている方々の心の慰めにでもなればと思い、花瓶を飾って草花を活け、江戸土産の錦絵を掲げ、部屋の飾りを総て純然たる日本風に仕立てて彼らとの面会に臨んだ。烈士の中には恩師の子であり、旧知の脇光三も居た。死を覚悟して任に当る彼等の心中を思い、心からの無事を祈るのだった。
作家の保田與重郎氏は操子の『蒙古土産』を読んで感動し、『改版 日本の橋』の中に「河原操子」という小文を記した。その中の一文を引用する。
「私がこゝに、明治先覚者の一人として、多くの女性のなかから選び出して女史を語るのは、女史のもつてゐた行為への勇気と決意の実践が、つねにわが日本女性の美しい心ばへの伴奏であつたといふ事実を知つたからである。その愛情が、そのまゝにヒユマニズムとして、又国家の理想と合致してゐたのである。己の思ひをかくして行動した女丈夫でなく、己の思ひに自然に泣き、悲しみ、しかもそのまゝに崇高な心情で行為した女性であつた。その文章にも、やさしい日本の女性の心が、どんな行為に付随した身振りも宣伝も伴はずに自然に描かれてゐる。何といはうか、それはある命目を立ててなされたやうな行為ではなかつたのである。最も立派で勇気のあることが、淡々と極めて自然に、さうしてやさしいさまで行はれた。」
河原操子は決して女丈夫では無く、優しい心根の繊細な女性であった。
三島由紀夫氏は「日本人の誇り」の中で「日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。」と述べられているが、河原操子は正にその様な文武の精神が結合した人格の持ち主であった。
教師たる自分は、常に成長し続けねばならない
時勢後れの身にて長くこゝに留まらんは、蒙古の為にも、我国のためにも善き事ならねば(蒙古土産)
日露戦争が終わった後、河原操子はその功績を讃えられて勲六等に叙せられた。女性では初めての事である。
だが、操子は言う。「これは然し、私の愛国心が特に強かった為ではなく、日本婦人であるなら誰でも、この様な国家非常の際に、御国にとって大切な役目を申し付けられましたら、一身の安危など考えて躊躇することはないでしょうと存じます。いざ火事という場合は、女でも意外に大力の出るものでございます。」(『新版蒙古土産・序編』)
三十七年末に王・王妃に随伴して北京に入京した折、友人や先輩からは帰国を勧められたが、操子は王妃の篤い信任と生徒等の愛情にほだされ、かつ未だ学校の基礎が強固でない事を思い、帰国を辞退してカラチンに戻った。三十八年には学校の基礎も漸く固まり、日露戦争も終結して平和を恢復し、裏面の任務も終了する。
そこで操子は自らの事を静かに考えた。蒙古に来て二年、上海から数えれば三年、未開辺鄙な土地で過ごし、新しい知識を吸収する事も読書に励む事も出来て居ない。それ故「頭脳は次第に時勢後れとなって来ている感じがする。時勢後れの身で長くここに留まる事は、蒙古の為にも、我国のためにも善い事ではないと思われる。とにかく一旦帰朝し、良い代りの人が居れば交替して、一・二年間日本で勉強し直し、新知識と新抱負とを持って再び入蒙しよう」との結論に至る。
確かに三年もの間新しい知識の吸収が出来ないならば、自らの教育力は確実に低下するであろう。私は三十歳前後に妻子を実家に戻して二年間、全国を飛び回って上映会や遊説を行い、殆ど休む事のない生活を送った。その直後に研修局長となり、書物をむさぼる様に読破して行った。活動の中で魂の渇きと新知識への欲求が高まっていたのだ。感化力は日々の努力と成長によってのみ維持する事が出来る。
三十九年一月、操子は帰国を果した。側にはカラチンの将来を担う三人の蒙古子女を同伴していた。少女達は下田歌子の実践女学校で学び、後に毓正女学堂の教師となって行く。
三十一歳になった操子は、結婚を薦められ、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長一宮鈴太郎夫人となって渡米する。それから十五年間、日米の懸け橋となって活躍した。
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