「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑳河野 寿「今にして時弊を改めずんば皇国の招来は実に暗然たるものあり」

2021-02-23 13:29:00 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
「二・二六事件の青年将校」その1
河野  寿(こうの ひさし)T10卒
「今にして時弊を改めずんば皇国の招来は実に暗然たるものあり」
    
 河野寿は明治40年3月に佐世保市で生まれた。海軍軍人の父の転勤で佐世保や旅順を転住、父の退任後熊本市に落ち着いた。大正10年、済々黌から熊本陸軍幼年学校に進学。昭和3年に陸軍士官学校(第40期)を卒業した。10月に陸軍砲兵少尉・横須賀重砲兵聯隊附となる。8年には千葉県市川市の野戦重砲兵聯隊に転じた。9年2月に航空兵科に転科し、所沢陸軍飛行学校機関科学生となる。10月、卒業と共に満州公主嶺飛行第十二連隊に赴任。10年8月陸軍航空兵大尉進級後に所沢陸軍飛行学校操縦科学生となる。11年2月、在学中に、単身事件に参加した。

 河野はかねてから、二・二六事件の中心となった村中孝次、磯部浅一、栗原安秀中尉ら革新派と盟友であり、急進決行組の一人だった。

 蹶起後の行動は、栗原中尉によって編成された民間人主体の七名の隊員を率いて、神奈川県の湯河原温泉に滞在中の元内大臣の牧野伸顕伯爵を襲撃したが、護衛警官の応戦で果たせなかった。この時、牧野伯はお付の女中の機転で女物の着物をかぶり勝手口から脱出、塀を乗り越えて裏山に逃れた。河野大尉の「女子供は傷つけるな」との命令により助かったと言う。河野大尉は負傷した為に熱海陸軍病院へ入院した。その間に、事件は終結を見た。

 3月1日、入院中の河野大尉は、内閣発表による抗勅免官を知った。自らは東京本隊の抗勅行動の圏外にあったとは言え、同志としてその責任を取り、症状軽快を待ち、3月5日に病室を抜け出して構外松林の中でナイフにより割腹自決を計り、翌早朝に死去した。享年30歳だった。

 自決前日、兄弟三名と面会して生別の宴を持った。覚悟の自決だった。兄の河野司も済々黌出身で、生涯をかけて二・二六事件の蹶起将校達の至純な精神を顕彰すべく資料を集めて編纂し、数多くの出版物を世に出した。
       
【兄弟への別離の言葉】
 いろいろお世話になり有難うございました。武士らしく立派に死にます。御安心下さい。さようなら。

【辞世】
あを嵐過ぎて静けき日和かな
        昭和十一年三月五日   於熱海 河野 寿
 瀬戸軍医殿(熱海陸軍病院院長)

森少佐殿へ
  三月五日最後の昼食を頂きしに対し
ますらをのみちと情をもり上げしひるげの味のいとど身にしむ

所沢陸軍技術学校 井上、中園大尉殿
  生前の御厚情を深謝す
とこしへに変る事なき浪の音を子守唄とし我はねむらん

函館重砲兵大隊 大尉 鴨 雅量殿へ
今日よりは酒の代りにエンマの前で三途の川の水飲まん

横須賀重砲兵連隊 汐中尉殿
永年お世話になった有難ふ 志を得ずして遂に叛徒となり自決する 唯念頭にあるのは七生報国のみ 徳永、尾形に宜敷伝へて呉れ 又将校団中小生の知人に宜敷

【遺書】
国民に告ぐ
時勢の混濁を慨き皇国の前途を憂る余り死を賭して此の源を絶ち、上 皇運を扶翼し奉り、下 国民の幸福を来さんと思ひ遂に二月二十六日未明蹶起せり。然るに事志と違ひ、大命に反抗するの徒となる。悲の極なり。身既に逆徒と化す。何を以て国家を覚醒せしめ得べき。故に自決し、以て罪を闕下に謝し奉り、一切を清め国民に告ぐ
皇国の使命は皇道を宇内に宣布し、皇化を八紘に輝し以て人類平和の基礎を確立するに在り。日清、日露の戦、近くは満州事変により大陸に皇道延び極東平和の基礎漸く成らんとする今日、皇道を翼賛し奉る国民の責務は重且大なり
然るに現下の世相を見るに国民は泰平に慣れて社稷を顧ず、元老、重臣、官僚、軍閥は天寵を恃んで専ら私曲を営む、今にして時弊を改めずんば皇国の招来は実に暗然たるものあり、国家の衰亡が内敵に係るは史実の明記する所なり。更に現時の大勢は外患甚だ多くして速かに陸海軍の軍備を充実し、外敵に備ゆるに非んば光輝ある歴史為に汚辱を受けん事明らかなり、軍縮脱退後の海軍の現状は衆知の事にて、陸軍は兵器資材の整備、殊に航空の充実を図り至急空軍を独立せしめ列強空軍と対立せしむるを要す。右 軍備充実の為には国民の負担は実に大なるものあらんも、非常時局に直面し皇道精神を更生し以て喜んで之の責務に堪へ、又 政を翼賛し奉る者は国家経済機構の改革を断行し、貧を援け富より献ぜしめ、以て国内一致団結し皇事に精進されん事を祈る。今、自決するも七生報国尽忠の誠を致さん

陸軍大臣閣下
一、蹶起及自決の理由、別紙遺書の如し
二、遺書中、空軍の件に関しては特に迅速に処置せられずば国防上甚だしき欠陥を来さん事を恐る
三、小官引率せし部下七名は小官の命に服従せしのみにて何等罪なき者なり、御考配を願ふ
四、別紙遺書 ( 同志に告ぐ)を東京衛壱成刑務所の同志に示され更に同志の再考を促され度し。尚ほ在監不自由の事故、特に武士的待遇を以て自決の為の余裕と資材を附与せられ度く伏して嘆願す
同志に告ぐる
全力を傾注せしも目的を達し得ざりし事を詫ぶ。尊皇憂国の同志心ならずも大命に抗せし逆徒と化す、何んぞ生きて公判廷に於て世論を喚起し得べき、若し世論喚起されなば却つて逆徒に加担するの輩となり不敬を来さん、既に逆徒となりし以上自決を以て罪を闕下に謝し奉り遺書に依りて世論を喚起するを最良なる尽忠報国の道とせん
寿、自決す、諸賢、再考せられよ
昭和十一年三月五日
於熱海衛戍病院分院 元航空兵大尉 河野 寿


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