「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

貝原益軒に学ぶ⑬「楠公は本朝の忠良、而して振古の豪傑なり。」

2021-05-25 14:15:23 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第五十四回(令和3年5月25日)
貝原益軒に学ぶ⑬
「楠公は本朝の忠良、而して振古の豪傑なり。」(『自娯集』巻之三「楠公墓記」)

 私のブログで毎週火曜日に「道の学問・心の学問」と題する連載を始めたのが、昨年の5月22日だった。それから丁度一年が経過した。この間、中江藤樹、熊沢蕃山、伊藤仁斎、貝原益軒と、江戸時代前期の儒学者の言葉に学んで来た。今後も、石田梅岩、手島堵庵、細井平洲、佐藤一斎、二宮尊徳、春日潜庵、石川理紀之助、東沢瀉等の言葉に学び、更には、新渡戸稲造、田澤義鋪、安岡正篤、菅原兵治、諸橋轍次、岡田武彦等の明治から昭和の精神的指導者の言葉も紹介して行きたいと考えているので、あと何年かかるか解らない。私としては、「死而後已(死して後已む)」の覚悟で、これらの素晴らしき人格・品格の先人達の言葉に学び続ける「求道録」として、この小文を綴りたいと思っている。

 今日は、5月25日、建武3年(1336年)の今日、湊川の戦いが行われ、楠木正成公が弟正季公と共に自害された日である。それ故、神戸市の湊川神社を始め、久留米の水天宮の真木社等では「楠公祭」が執り行われている。幕末期、真木和泉守は「楠子論」を著すと共に、5月25日に必ず「楠公祭」を行っていた。

 江戸時代の初期、湊川の楠木正成公の墓は荒れ果てていた。貝原益軒は十一歳の時に『太平記』を読み、楠木正成公を強く尊敬する様になっていた。寛文4年(1664)京都遊学の帰路に益軒は湊川の楠木正成の墓に詣でた。35歳の時である。その時に、楠公の墓がこのままでは、荒れ果てて解らなくなるのではないかと憂えて、漢文で「楠公墓記」を著し、楠木正成公を次の様に高く評している。

「楠公はわが国の忠良(忠義の心厚く善良)であり、昔からの際立つ豪傑である。わが国の歴代の名士でその右に出る者は恐らくいない。其の忠義や勇智は外国の英傑に比べても劣る事は無い。主君を愛し世を憂える心は天地を動かし鬼神を感ぜしめ人心を貫いて古今に輝いている。楠公の風を聞けば時代を経ても感激し仰慕しない者は居ない。楠公の忠誠の篤さがこの様に感激を与えるのだ。楠公こそは真の大丈夫と言わざるを得ない。彼等兄弟父子がつまずき戦死して美しき志を遂げる事が出来なかったのは、苟に痛み惜しい事である。しかし、子や弟があって、その奮戦や戦功の跡は伝記に載せられて残り、枚挙に暇ない程である。惜しむべきは、世を挙げて楠公を良将と称するが、未だ賢哲と為す者を知らない。」

益軒は、楠公を「良将」としてだけではなく、「賢哲」として、その高潔なる品格を仰いでいるのである。

益軒は京都からの帰路、船が西風を受けて兵庫に停泊した為、陸行して湊川北の楠公のお墓にお参りした。ところが、「楠公のお墓は田んぼの中に在り、雑木や雑草に覆われ、土地が荒れ、墓に至る道も解らず、墓石も碑も無い。土墓の上に唯松と梅の二株が植えてあるだけである。悲しみの風が侘しく吹き抜け、ただ春の草のみが青々と茂っていた。私はただすすり泣いて歩き回り、立ち去る事が出来なかった。今、碑石も無くこの様な状態が続くなら、恐らく後世の人々が楠公の墓と認める事もなくなり、墓は耕され松や梅は薪にされてしまうかも知れない。そこで、兵庫館人の繪屋氏に託して土墓の上に小石碑を建てようと思った。」と記している。

しかし、自らの文学の才能が劣る事や他郷に石碑を建てる事は憚られる事を思い、計画を中止して書を兵庫館人に送っている。尚、『湊川神社史 景仰篇』によれば、当時の楠公のお墓には松梅と共に「五尺に足らぬ五輪供養塔」があった様である。益軒にとっては、それだけでは心もとなかったのであろう。

水戸光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建立したのは、益軒がお参りした約二十年後である。光圀が『大日本史』編纂の為に史官を太宰府に派遣した際、益軒も藩命で手伝っているので、益軒は楠公への思いを伝え、それも光圀公の建碑に繋がったのかも知れない。


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