先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第十五回(『祖国と青年』22年7月号掲載)
維新の風雲児 高杉晋作2
天は晋作を生き延びさせ、長州藩の尊攘魂を甦らせた
文久三年四月、萩に戻った晋作は、郊外の松本村で隠遁生活を始めた。だが、時代は風雲急を告げ、幕府が攘夷決行を約束した五月十日、長州藩は馬関海峡を行き交う外国船への砲撃を開始した。反撃も六月一日から始まり、米・仏軍艦の艦砲射撃に曝され、長州藩は為す術を失った。この危機に際し、藩主は晋作を呼び出して馬関防禦の責を委任した。晋作は直ちに下関に赴き、六月七日には豪商白石正一郎邸で「奇兵隊」結成綱領を草して山口の藩政府に提出した。長州藩では、安政五年以降、洋式兵制と武器を採用し、周布政之助等を中心に「藩民皆兵」の構想が生み出されていた。この年の三月には小銃局が設置され、壮年男子総てに大砲や小銃を用意する構想が打ち出され、四月には村々の「頭百姓」を呼び出して外圧について説明し、「危機の共有化」が計られていた。「奇兵隊」は三日後には六十人を超え、後に定員は三百名と定められる。郷土防衛に対する危機感が数多くの有為なる青年を奇兵隊に駆り立てたのである。
奇兵隊綱領の一番には次の様に記されている。
●奇兵隊の義は有志の者相集り候につき、藩士・陪臣・軽卒を撰ばず、同様に相交り、当分力量を蓄ひ、堅固の隊相調え申すべしと存じ奉り候。
有志の集まりであり、身分を超えて結束し、力量を重んじて堅固なる隊にしたいとの晋作の志が伺われる。他に、「藩主との意思疎通」「他の隊からの参加の許容」「日記に基づく速やかな論功行賞」「西洋流和流に拘らず、得意な技で戦う」などが記されている。
八月十八日、京都で政変が起こる。尊攘運動の高まりの中で、討幕を目指す七人の若手公卿(七卿)や長州藩・尊攘浪士達の動きに対し、孝明天皇は御憂慮を示され、それを受けて穏健派公卿と薩摩藩・会津藩がクーデターを決行して長州藩を御所から追放したのである。七卿を奉じて都落ちした長州藩では、朝廷に「長州藩主」の無実を訴える為に藩兵を率いて上京する「進発」論が高まっていく。晋作は反対し、藩主の命を受けて進発派の来嶋又兵衛の説得に赴くが、逆に罵倒される。憤激した晋作は京の事情に詳しい桂小五郎の意見を徴すべく無断で京都に向った。その行為が脱藩と見做され、晋作は野山獄に投獄されてしまう。
●拙者は御割拠も真の御割拠が得意なり、進発も真の進発が得意なり、ウハの割拠は不得意なり。「君のためつくす心は玉となしたく、(砕く)我が身は瓦なりけり」ウハの進発は聞くも腹が立つなり、前句の尽す心は玉となし、と申す意は、君公の御上京を留むるなり、即ち大割拠なり。砕くわが身と申すは拙者独立独行、甘んじて暴発致すわけなり、諸君よろしく読みたまえよ。
(私は、割拠も進発も本気で行う事は得意だが、上っ面だけの割拠は不得手である。更に、上っ面だけの進発論は聞くだけでも腹が立つ。この歌の「尽す心は玉となし」と言うのは、殿様の上京を留める事であり、「砕く我が身」と言うのは、私が独立独行し暴発する事を表したのだ。諸君心して読んでくれ。)
内面を鍛え真実の行動家たらしめた獄中の日々
元治元年三月二十九日、野山獄に投獄された晋作は、六月二十一日に親族預かりとして出獄する迄の間、自らの内面を見つめ詩作に集中する。入獄時に晋作は「先生を慕ふて漸く野山獄」と松陰先生への思いを認めた。獄中では、松陰の兄の依頼で松陰遺文の校訂も行っている。約三ヶ月の獄中生活は晋作を不動の行動家に磨き上げて行く。漢詩には陽明学の徒である晋作の透徹した心境が伺われる。
●独り国事を思ふて身を思はず 顛蹶して遂に幽室の人と為る 塵間の非と是に管せず 誠心黙々と明神に対す(私は、ただ国の事だけを思って我が身の事は考えずに生きて来た。だがつまずいて今や獄舎に幽閉される事となった。世の人が是非を批評する事には全くとらわれる事無く、ただ黙して、自らの誠心のままに神に対する日々である。)
●断腸は冤を恨むにあらず 涕涙は命を惜しむにあらず 外患は我君に迫るに 此の邦政を如何せん(腸が断ち切られる様な思いは、冤罪を恨むためでは無い。涙が淀みなく溢れてくるのは、生命を惜しむからでは無い。長州藩に外国や幕府の軍隊が迫って来ているのに、藩政を如何とも為す事が出来ない無念さと苦しみなのだ。)
●生を偸むも死を決するも時宜に任す 世人の是非を論ずるを患いず かつて先師の我に寄するの語あり 頭を回らして追思すれば涙空しく垂る(生き延びるも死を決意する事も時の必然に任せよう。世の人の論じる是非に煩わされる必要はない。かつて松陰先生が私に生死観について寄せてくれた言葉があるではないか。思い起こして先生を思えば涙が溢れてくる。)
●士の讒間の為に汚名を蒙るは 譬えば浮雲の月明を蔽うが如し 浮雲去り尽して天斉るるの日 応に名月ありて人心を照すべし(立派な武士が讒言によって汚名を着せられる事は、例えて言うなら空の雲が月明かりを覆っている様なものである。雲が全て去って天が晴れた時には名月の明かりが行き渡って、人々の心を正しく照らすであろう。)
七月十九日、京都で禁門の変が勃発、晋作の危惧が的中し、長州藩は一敗血にまみれ、久坂玄瑞など盟友の多くの命が失われた。幕府は長州藩による京都進発に「朝敵」との烙印を押し、「長州征討の軍」が組織される。更には、四カ国(英・仏・蘭・米)連合艦隊十七隻(砲288門・兵員5014名)による下関来襲が準備されていた。正に二重の外患に長州藩は見舞われる事となる。八月五日、英国を中心とする四カ国連合艦隊は砲撃を開始、下関の砲台を占拠・破壊する。上陸した陸戦隊と奇兵隊などの長州藩兵との戦いが起こる。
その直前(三日)に晋作は罪を許されて、軍務掛、更には政務掛に任じられ戦闘強化の指揮を執った。八日から講和談判となり、長州藩の使節として宍戸刑馬と称する高杉晋作がその任に当たった。下関海峡の安全通行や石炭・水等の必需品の売買などの要求は受諾したが、賠償金については、「攘夷決行は幕府の命に従ったもの」との原則を推し通して、幕府と交渉すべきと認めさせた。又、英国から彦島租借要求が出されたが晋作は日本国の由来を神話から語り断固拒否した、と言われている。
だが、対外的な危機を脱した長州藩に対し幕府は、西日本を中心に二十一藩約十五万人を動員して征討の軍を起し、十一月十八日を以て総攻撃予定日とした。長州藩では幕府恭順を主張する「俗論党」が権力を握り、晋作等「正義党(尊攘派)」に対する粛清が開始された。九月二十五日には周布政之助が自刃。十月二十五日、晋作は福岡に脱出し、野村望東尼の平尾山荘に匿れた。十一月十二日には禁門の変の責任を取って三人の家老が切腹、四人の参謀が斬首された。三家老の首は幕府に差し出された。福岡に逃れた晋作は九州諸藩の力で体制立て直しを計らんとするが巧く行かなかった。
長州藩の危機を救い尊攘魂を蘇らせた功山寺蹶起
十一月二五日下関に戻った晋作は一世一代の賭けに出る。
● 焦心録に題す(元治元年晩秋)
内憂外患我が洲に迫る 正に是れ存亡危急の秋 唯邦君の為家国の為 焦心砕骨又何ぞ愁えん(藩内では俗論党が跋扈し、外には幕府軍が迫っている。今こそ危急存亡の時である。主君の為、国家の為に身を擲って断固行動せん。)
●弟も私情なき者にはこれなく候えども、国家大難胸中火の如く、小事を忘れ候(略)前文申し上げ候通り、赤間関の鬼と相成り討死致すの落着にござ候間、別書の通り碑を御建て下され候(略)弟事は死んでも恐れながら天満宮の如く相成り、赤間関の鎮主と相成り候志にござ候。(略)
表 故奇兵隊開闢総督高杉晋作、
則西海一狂生東行墓 遊撃将軍谷梅之助也
裏 毛利家恩古臣高杉某嫡子也
月 日 (元治元年十二月上旬 大庭伝七宛)
国家の大事に当り死を覚悟しての行動を決意した晋作は、自らの墓標を定めて赤間関の「守り神」にならんと書き送ったのである。表には「奇兵隊」草創総督としての誇りを記し、裏には毛利家の藩士であり、高杉家の嫡男としての自覚を示している。死を決した晋作は、奇兵隊などの諸隊を説得するが、藩政府との妥協を模索していた当時の奇兵隊総督・赤根武人の影響もあり、諸隊は動かず、晋作に同調したのは伊藤俊輔が率いる力士隊と石川小五郎が率いる遊撃隊の約八十名だった。
十二月十五日、晋作等は功山寺に閉居する五卿に訣別を告げ、「最早口舌の間にて成敗の論無用なれば、是より長州男児の腕前御目にかけ申す」と決意を披瀝して下関に向った。長州藩の交易の拠点であり、物流・経済の重要地である下関を押さえて、藩勢立て直しの拠点とする事を目論んだ。下関の新地会所を襲撃占拠した晋作は、二十名の決死隊を率いて三田尻に向い、海軍局を押さえ、三隻の軍艦を下関に回航した。緒戦に勝利を収めた晋作は「目下本国危急存亡の時にあたり、自ら軽閉居拱手黙止するに忍びんや、諸君、それこれを諒せよ」と諸隊に蹶起を呼びかけた。遂に諸隊も決起し、一月七日~十四日にかけて戦われた大田絵堂の戦いに勝利、俗論党の牛耳る萩へと進軍した。
その結果藩政に正義党が再び返り咲き、三月二十三日、幕府に対する「武備恭順」、一致団結しての軍事対決を決定した。遂に晋作の持論である「大割拠」実現の時が到来したのである。慶応元年三月五日の佐世八十郎宛書簡に晋作は「ともかく両国を五大洲中第一の強富国にすれば、随分勤 王も出来候様愚察し奉り候。」と記している。慶応元年七月十八日、晋作は「十八日吉田駅舎、奇兵隊の諸士と会す、山県素狂席上書画を作し国歌を詠む、予も亦小詩を賦しその上に題す」と記して漢詩を詠んだ。
●風流と節義と 兼ね得るは即ち英豪 今日花を描くの手 いつの時か快刀を提げん
又、現在の靖国神社に繋がる、下関の桜山招魂場を創建して安政の大獄以来国事に殉難した志士達の慰霊祭を行った。
● 八月六日、招魂場祭事、奇兵隊士とこれに謁す、此の日軍装行軍、出陣例の如し
猛烈の奇兵何の志す所ぞ 一死を将つて邦家に報いんと要す 欣ぶべし名遂げ功成るの後 共に招魂場上の花と作らん
弔むらわる人に入るべき身なりしに弔むらう人となるぞはつかし
● 白石資興、尊攘の為に忠死せし御魂を祭る、予も亦其席に加りて、斯く詠めり
後れても後れてもまた君たちに誓ひし言を吾忘れめや
● 御魂に供へし御酒を頂戴するとて
はつかしと思ふ心のいや増して直会御酒も酔得さるなり
同志達に死に遅れたとの実感が晋作には常に去来していた。
この間、慶応二年一月四日には薩長盟約が結ばれ、薩摩の支援を得て、武備の充実が加速して行く。そして、六月七日四境戦争(大島口・芸州口・石州口・九州口)大島口での戦いが始まった。海軍総督となった晋作は丙寅丸を指揮して夜襲を敢行して幕府軍の度肝を抜いて勝利。続けて小倉口の戦いの指揮を執った。激戦が続く中、七月に晋作は肺結核で喀血する。それでも指揮を取り続けたが、十月二十日には前線を離れて療養する事となる。病床での詩歌には晋作らしい洒脱の妙が表されている。
人は人吾は吾なり山の奥に棲てこそしれ世の浮沈
面句(白)き事もなき世にをもしろく 些々生(晋作)
住なすものはこゝろなりけり 望東(野村望東尼)
● 余り病の烈しけれは
死たなら釈迦と孔子に追付て道の奥義を尋んとこそ思へ
太閤も天保弘化に生れなは何もへせずに死ぬへかりけり
●雪折れし松にとがこそなかりけり栽にし人の報とぞ知る
最期に詠んだ漢詩は、日々訪れ慰めてくれる鶯に対し真情を吐露している。行動家晋作の孤独と優しさが伺われる。
● 数日来鶯檐前に鳴きて去らず此を賦して鶯に贈る
一朝檐角残夢を破る 二朝窓前亦吟弄す 三朝四朝又朝朝 日日来って吾病痛を慰む 君は吾に於て旧親あるに非ず 又寸恩の君に及ぶなし 君何ぞ我に於て此の如く厚き 吾素人間人に容れられず 故人吾を責むるに詭智を以てす 同族我を目するに放恣を以てす 同族故人尚容れず 而して君吾を容る果して何の意ぞ 君去る勿れ老梅の枝 君憩ふべし荒渓の湄 寒香淡月は我が欲する所 君が為に鞭を執って生涯を了らん(鶯に鞭打つとは仙人の事を言う)
かくて、維新の風雲児高杉晋作は慶応三年四月十三日、二十七年八カ月の生涯を終えた。
維新の風雲児 高杉晋作2
天は晋作を生き延びさせ、長州藩の尊攘魂を甦らせた
文久三年四月、萩に戻った晋作は、郊外の松本村で隠遁生活を始めた。だが、時代は風雲急を告げ、幕府が攘夷決行を約束した五月十日、長州藩は馬関海峡を行き交う外国船への砲撃を開始した。反撃も六月一日から始まり、米・仏軍艦の艦砲射撃に曝され、長州藩は為す術を失った。この危機に際し、藩主は晋作を呼び出して馬関防禦の責を委任した。晋作は直ちに下関に赴き、六月七日には豪商白石正一郎邸で「奇兵隊」結成綱領を草して山口の藩政府に提出した。長州藩では、安政五年以降、洋式兵制と武器を採用し、周布政之助等を中心に「藩民皆兵」の構想が生み出されていた。この年の三月には小銃局が設置され、壮年男子総てに大砲や小銃を用意する構想が打ち出され、四月には村々の「頭百姓」を呼び出して外圧について説明し、「危機の共有化」が計られていた。「奇兵隊」は三日後には六十人を超え、後に定員は三百名と定められる。郷土防衛に対する危機感が数多くの有為なる青年を奇兵隊に駆り立てたのである。
奇兵隊綱領の一番には次の様に記されている。
●奇兵隊の義は有志の者相集り候につき、藩士・陪臣・軽卒を撰ばず、同様に相交り、当分力量を蓄ひ、堅固の隊相調え申すべしと存じ奉り候。
有志の集まりであり、身分を超えて結束し、力量を重んじて堅固なる隊にしたいとの晋作の志が伺われる。他に、「藩主との意思疎通」「他の隊からの参加の許容」「日記に基づく速やかな論功行賞」「西洋流和流に拘らず、得意な技で戦う」などが記されている。
八月十八日、京都で政変が起こる。尊攘運動の高まりの中で、討幕を目指す七人の若手公卿(七卿)や長州藩・尊攘浪士達の動きに対し、孝明天皇は御憂慮を示され、それを受けて穏健派公卿と薩摩藩・会津藩がクーデターを決行して長州藩を御所から追放したのである。七卿を奉じて都落ちした長州藩では、朝廷に「長州藩主」の無実を訴える為に藩兵を率いて上京する「進発」論が高まっていく。晋作は反対し、藩主の命を受けて進発派の来嶋又兵衛の説得に赴くが、逆に罵倒される。憤激した晋作は京の事情に詳しい桂小五郎の意見を徴すべく無断で京都に向った。その行為が脱藩と見做され、晋作は野山獄に投獄されてしまう。
●拙者は御割拠も真の御割拠が得意なり、進発も真の進発が得意なり、ウハの割拠は不得意なり。「君のためつくす心は玉となしたく、(砕く)我が身は瓦なりけり」ウハの進発は聞くも腹が立つなり、前句の尽す心は玉となし、と申す意は、君公の御上京を留むるなり、即ち大割拠なり。砕くわが身と申すは拙者独立独行、甘んじて暴発致すわけなり、諸君よろしく読みたまえよ。
(私は、割拠も進発も本気で行う事は得意だが、上っ面だけの割拠は不得手である。更に、上っ面だけの進発論は聞くだけでも腹が立つ。この歌の「尽す心は玉となし」と言うのは、殿様の上京を留める事であり、「砕く我が身」と言うのは、私が独立独行し暴発する事を表したのだ。諸君心して読んでくれ。)
内面を鍛え真実の行動家たらしめた獄中の日々
元治元年三月二十九日、野山獄に投獄された晋作は、六月二十一日に親族預かりとして出獄する迄の間、自らの内面を見つめ詩作に集中する。入獄時に晋作は「先生を慕ふて漸く野山獄」と松陰先生への思いを認めた。獄中では、松陰の兄の依頼で松陰遺文の校訂も行っている。約三ヶ月の獄中生活は晋作を不動の行動家に磨き上げて行く。漢詩には陽明学の徒である晋作の透徹した心境が伺われる。
●独り国事を思ふて身を思はず 顛蹶して遂に幽室の人と為る 塵間の非と是に管せず 誠心黙々と明神に対す(私は、ただ国の事だけを思って我が身の事は考えずに生きて来た。だがつまずいて今や獄舎に幽閉される事となった。世の人が是非を批評する事には全くとらわれる事無く、ただ黙して、自らの誠心のままに神に対する日々である。)
●断腸は冤を恨むにあらず 涕涙は命を惜しむにあらず 外患は我君に迫るに 此の邦政を如何せん(腸が断ち切られる様な思いは、冤罪を恨むためでは無い。涙が淀みなく溢れてくるのは、生命を惜しむからでは無い。長州藩に外国や幕府の軍隊が迫って来ているのに、藩政を如何とも為す事が出来ない無念さと苦しみなのだ。)
●生を偸むも死を決するも時宜に任す 世人の是非を論ずるを患いず かつて先師の我に寄するの語あり 頭を回らして追思すれば涙空しく垂る(生き延びるも死を決意する事も時の必然に任せよう。世の人の論じる是非に煩わされる必要はない。かつて松陰先生が私に生死観について寄せてくれた言葉があるではないか。思い起こして先生を思えば涙が溢れてくる。)
●士の讒間の為に汚名を蒙るは 譬えば浮雲の月明を蔽うが如し 浮雲去り尽して天斉るるの日 応に名月ありて人心を照すべし(立派な武士が讒言によって汚名を着せられる事は、例えて言うなら空の雲が月明かりを覆っている様なものである。雲が全て去って天が晴れた時には名月の明かりが行き渡って、人々の心を正しく照らすであろう。)
七月十九日、京都で禁門の変が勃発、晋作の危惧が的中し、長州藩は一敗血にまみれ、久坂玄瑞など盟友の多くの命が失われた。幕府は長州藩による京都進発に「朝敵」との烙印を押し、「長州征討の軍」が組織される。更には、四カ国(英・仏・蘭・米)連合艦隊十七隻(砲288門・兵員5014名)による下関来襲が準備されていた。正に二重の外患に長州藩は見舞われる事となる。八月五日、英国を中心とする四カ国連合艦隊は砲撃を開始、下関の砲台を占拠・破壊する。上陸した陸戦隊と奇兵隊などの長州藩兵との戦いが起こる。
その直前(三日)に晋作は罪を許されて、軍務掛、更には政務掛に任じられ戦闘強化の指揮を執った。八日から講和談判となり、長州藩の使節として宍戸刑馬と称する高杉晋作がその任に当たった。下関海峡の安全通行や石炭・水等の必需品の売買などの要求は受諾したが、賠償金については、「攘夷決行は幕府の命に従ったもの」との原則を推し通して、幕府と交渉すべきと認めさせた。又、英国から彦島租借要求が出されたが晋作は日本国の由来を神話から語り断固拒否した、と言われている。
だが、対外的な危機を脱した長州藩に対し幕府は、西日本を中心に二十一藩約十五万人を動員して征討の軍を起し、十一月十八日を以て総攻撃予定日とした。長州藩では幕府恭順を主張する「俗論党」が権力を握り、晋作等「正義党(尊攘派)」に対する粛清が開始された。九月二十五日には周布政之助が自刃。十月二十五日、晋作は福岡に脱出し、野村望東尼の平尾山荘に匿れた。十一月十二日には禁門の変の責任を取って三人の家老が切腹、四人の参謀が斬首された。三家老の首は幕府に差し出された。福岡に逃れた晋作は九州諸藩の力で体制立て直しを計らんとするが巧く行かなかった。
長州藩の危機を救い尊攘魂を蘇らせた功山寺蹶起
十一月二五日下関に戻った晋作は一世一代の賭けに出る。
● 焦心録に題す(元治元年晩秋)
内憂外患我が洲に迫る 正に是れ存亡危急の秋 唯邦君の為家国の為 焦心砕骨又何ぞ愁えん(藩内では俗論党が跋扈し、外には幕府軍が迫っている。今こそ危急存亡の時である。主君の為、国家の為に身を擲って断固行動せん。)
●弟も私情なき者にはこれなく候えども、国家大難胸中火の如く、小事を忘れ候(略)前文申し上げ候通り、赤間関の鬼と相成り討死致すの落着にござ候間、別書の通り碑を御建て下され候(略)弟事は死んでも恐れながら天満宮の如く相成り、赤間関の鎮主と相成り候志にござ候。(略)
表 故奇兵隊開闢総督高杉晋作、
則西海一狂生東行墓 遊撃将軍谷梅之助也
裏 毛利家恩古臣高杉某嫡子也
月 日 (元治元年十二月上旬 大庭伝七宛)
国家の大事に当り死を覚悟しての行動を決意した晋作は、自らの墓標を定めて赤間関の「守り神」にならんと書き送ったのである。表には「奇兵隊」草創総督としての誇りを記し、裏には毛利家の藩士であり、高杉家の嫡男としての自覚を示している。死を決した晋作は、奇兵隊などの諸隊を説得するが、藩政府との妥協を模索していた当時の奇兵隊総督・赤根武人の影響もあり、諸隊は動かず、晋作に同調したのは伊藤俊輔が率いる力士隊と石川小五郎が率いる遊撃隊の約八十名だった。
十二月十五日、晋作等は功山寺に閉居する五卿に訣別を告げ、「最早口舌の間にて成敗の論無用なれば、是より長州男児の腕前御目にかけ申す」と決意を披瀝して下関に向った。長州藩の交易の拠点であり、物流・経済の重要地である下関を押さえて、藩勢立て直しの拠点とする事を目論んだ。下関の新地会所を襲撃占拠した晋作は、二十名の決死隊を率いて三田尻に向い、海軍局を押さえ、三隻の軍艦を下関に回航した。緒戦に勝利を収めた晋作は「目下本国危急存亡の時にあたり、自ら軽閉居拱手黙止するに忍びんや、諸君、それこれを諒せよ」と諸隊に蹶起を呼びかけた。遂に諸隊も決起し、一月七日~十四日にかけて戦われた大田絵堂の戦いに勝利、俗論党の牛耳る萩へと進軍した。
その結果藩政に正義党が再び返り咲き、三月二十三日、幕府に対する「武備恭順」、一致団結しての軍事対決を決定した。遂に晋作の持論である「大割拠」実現の時が到来したのである。慶応元年三月五日の佐世八十郎宛書簡に晋作は「ともかく両国を五大洲中第一の強富国にすれば、随分勤 王も出来候様愚察し奉り候。」と記している。慶応元年七月十八日、晋作は「十八日吉田駅舎、奇兵隊の諸士と会す、山県素狂席上書画を作し国歌を詠む、予も亦小詩を賦しその上に題す」と記して漢詩を詠んだ。
●風流と節義と 兼ね得るは即ち英豪 今日花を描くの手 いつの時か快刀を提げん
又、現在の靖国神社に繋がる、下関の桜山招魂場を創建して安政の大獄以来国事に殉難した志士達の慰霊祭を行った。
● 八月六日、招魂場祭事、奇兵隊士とこれに謁す、此の日軍装行軍、出陣例の如し
猛烈の奇兵何の志す所ぞ 一死を将つて邦家に報いんと要す 欣ぶべし名遂げ功成るの後 共に招魂場上の花と作らん
弔むらわる人に入るべき身なりしに弔むらう人となるぞはつかし
● 白石資興、尊攘の為に忠死せし御魂を祭る、予も亦其席に加りて、斯く詠めり
後れても後れてもまた君たちに誓ひし言を吾忘れめや
● 御魂に供へし御酒を頂戴するとて
はつかしと思ふ心のいや増して直会御酒も酔得さるなり
同志達に死に遅れたとの実感が晋作には常に去来していた。
この間、慶応二年一月四日には薩長盟約が結ばれ、薩摩の支援を得て、武備の充実が加速して行く。そして、六月七日四境戦争(大島口・芸州口・石州口・九州口)大島口での戦いが始まった。海軍総督となった晋作は丙寅丸を指揮して夜襲を敢行して幕府軍の度肝を抜いて勝利。続けて小倉口の戦いの指揮を執った。激戦が続く中、七月に晋作は肺結核で喀血する。それでも指揮を取り続けたが、十月二十日には前線を離れて療養する事となる。病床での詩歌には晋作らしい洒脱の妙が表されている。
人は人吾は吾なり山の奥に棲てこそしれ世の浮沈
面句(白)き事もなき世にをもしろく 些々生(晋作)
住なすものはこゝろなりけり 望東(野村望東尼)
● 余り病の烈しけれは
死たなら釈迦と孔子に追付て道の奥義を尋んとこそ思へ
太閤も天保弘化に生れなは何もへせずに死ぬへかりけり
●雪折れし松にとがこそなかりけり栽にし人の報とぞ知る
最期に詠んだ漢詩は、日々訪れ慰めてくれる鶯に対し真情を吐露している。行動家晋作の孤独と優しさが伺われる。
● 数日来鶯檐前に鳴きて去らず此を賦して鶯に贈る
一朝檐角残夢を破る 二朝窓前亦吟弄す 三朝四朝又朝朝 日日来って吾病痛を慰む 君は吾に於て旧親あるに非ず 又寸恩の君に及ぶなし 君何ぞ我に於て此の如く厚き 吾素人間人に容れられず 故人吾を責むるに詭智を以てす 同族我を目するに放恣を以てす 同族故人尚容れず 而して君吾を容る果して何の意ぞ 君去る勿れ老梅の枝 君憩ふべし荒渓の湄 寒香淡月は我が欲する所 君が為に鞭を執って生涯を了らん(鶯に鞭打つとは仙人の事を言う)
かくて、維新の風雲児高杉晋作は慶応三年四月十三日、二十七年八カ月の生涯を終えた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます