「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

河井継之助  独立特行を志した北越の英雄2  一忍以て百勇を支うべく、一静以て百動を制すべし

2011-04-06 17:55:56 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第十九回(『祖国と青年』22年11月号掲載)

河井継之助  独立特行を志した北越の英雄2

  一忍以て百勇を支うべく、一静以て百動を制すべし



 「郡奉行」として見事な手腕を発揮した河井継之助は、一年後の慶応二年十一月には、「町奉行」にも任命され、町政の改革に着手する。

更には「御奉行格」「御年寄役(中老)」「御家老本職」そして慶応四年閏四月には「御家老上席」へと異例の速度で昇進し、藩政全体の立て直しの任に当たって行く。この間、継之助が着手した「改革」は、安政六年から万延元年にかけて備中松山を訪れて学んだ山田方谷の改革に準じるものであったが、山田方谷の精神と手腕を見事に受け継ぎ、恩師以上の成果を挙げている。それが出来たのは、陽明学で鍛え上げた確乎たる信念に基づく行動の力である。

継之助の余りにも急進的な改革は、当然守旧派の反発を招き、身の安全が心配される程だったが、継之助は回りの者に次の様に語ったと言う。

●二度や三度は水溜りの中に抛りこまれる位の事はあるかも知れないが、俺を殺す程の気概のある奴は一人もいない

「気」に於いて万人の上に立って居る。継之助の恩師である山田方谷は、陽明学は『孟子』に由来するとして、『孟子養気章講義』(「公孫丑章句上」第二章)を著しており、その中で「人は浩然の気を養はねばならぬ。此が学問工夫の肝要なる所なり。」「天地間如何なる大功業も、時に遭ひ運に遭ひ、自然の道義より出づれば、出来ざることなし。」と述べている。継之助は正に「浩然の気」を養い、「自然の道義」に基づいて、非常の時に非常の事を為し遂げた。


  継之助の藩政改革

 山田方谷は『理財論』の中で、「経国の大法」として①人心を正す、②風俗を敦くする、③役人の汚職をなくす、④人民が倒れ死ぬ原因を調査する、⑤文教を振興する、⑥軍備を拡張する、の六点を挙げている。継之助は、その視点に立って、長岡藩の実情に合わせて「改革」の方策を考案し、即座に断行した。

「町奉行」に就任した継之助は「役人の汚職」をなくす為に、就任三日目には、豪富と権力で鳴らした町役人の首班三人を呼び出して役を取り上げ蟄居処分とする。その上で「人心を正し、風俗を敦くする」為に、身分不相応に驕奢を極めた町民・米蔵を追放に、領内の総庄屋五名を自宅に招き華美の風を戒める等、風紀粛清に着手した。更には、賭博の取り締まり、遊郭の廃止、蓄妾の解消を手がけた。継之助の他に追随を許さない点は、不正摘発に於て他人任せにせずに「遠山の金さん」の如く、自ら博徒や人夫に変装して現場を直接調査し、証拠を摑んで処断した所である。

しかし、継之助の目的は他者を処断する事にあるのでは無い。遊郭の廃止に当っては、予め人を放ち「遊里に浮かれる者は、寄場人夫に徴用されるそうだ」と噂を流し、自然客足の遠のくのを待って廃止を断行。資力の乏しい楼主には、転業資金を援助し、娼婦には旅費を与えて親許に帰らせ、行き先の無い娼婦には監督をつけて、その更正を見届ける様にした。実に行き届いた心配りの上に立った「改革」であった。

他に、経済的特権である「株」の制度を廃止し、自由競争の途を開き、河税の廃止・自由航行制にした。交通の流れを良くすればかえって城下が繁栄すると説いて反対者を説得した。継之助は万民の幸福を考えて一部の特権を廃止した。継之助は、従来の牢獄の他に「寄場」と称する徴役場を設けている。昼は労役させ夜は訓導し、改悛の情の見られる者から釈放した。その際にこれまでの労役の賃金を一括して渡した。逃走した者は斬罪に処すと言い渡し、最初の脱走者を斬ったので、以後脱走者が無くなった。厳しさと寛容さを併せ持つ施策だった。

更に継之助は、藩の財政再建・藩政改革に着手する。

時代は、慶応二年に第二次長州征討で幕府軍が敗退し、将軍家茂逝去・孝明天皇崩御と、徳川幕府の凋落は拭い切れず、継之助が藩政を任されて行く慶応三年には、新しい時代の動きが始まっていた。薩摩藩は幕府に代わる雄藩による政権運営を目論み、討幕を目指す薩長同盟が結ばれて行く。時代の切迫感の中で、継之助は、長岡藩の行く末を考え、藩政の改革に着手した。

当時長岡藩は約十二万両の累積赤字を抱えていた。収入は二万一千両しか無いのに 支出は五万八千両に達していた。継之助は財政の実態を調査し、逼迫の原因を小役人の不正と藩費の濫出にあると判断した。徴税ルートを正しくする為に人事を刷新し、腹心の部下を要所に配置した。赤字解消の為、藩侯の什器を売却して範を示すと共に、財政の実態を領民に公表して信頼を取り戻し、従来の債権者の最大手の今井孫兵衛を自ら赴いて説得して三万両を棒引きにさせた上、上士に列して協力者に変えて更には新たな献金迄取り付けた。他の債権者も説得して回った。

更に、広く献金を求め、献金者一同には、藩侯の名をもって招待し酒肴を賜るなどして奨励した。一方、全藩士に対して当面、給米から必要人数の食糧分を残して全部借り上げた。それと並行して綱紀を正し、国老をしてこれらの政策に協力を誓わせた為、当面の財政は一挙に立ち直った。天もまた、継之助の誠意に感じてか、豊作を恵んだので次年度からは財用は足り、国庫は急速に充実した。

慶応三年三月、継之助は藩財政を公開し、藩財政の立ち直りを領民と共に確認した。慶応三年年末には九万九千百六十両の余剰金を算す、これを再び領民の前で発表した。

 更に継之助は、兵制改革に力を注いだ。如何なる事態にも対応出来る丈の実力を有する事によって、義を貫かんと志したのである。文久初年に洋式操練を学ばせた青年を中心に、身分に関係なく全藩士にフランス式の洋式調練を施した。十四歳~六十五歳迄の藩士総てを動員して通常の倍の千五百名の兵員を整えた。藩財政の余剰金を使って、親交があったプロシア人のスネル兄弟からミニエール銃を多量に購入し一戸に一挺ずつ払い下げた。スイスの時計商ブランドから速射砲「ガットリング・ゴン機関砲」二門を始め最新式砲銃や弾薬を多量に購入し、戊辰役を迎える頃には大砲など三十門に達した。藩主別邸を兵学所に改装、『歩兵操練書』『野外要務令書』『大砲操練書』などを大増刷して全藩士に配った。

兵制の改革に伴い、旧来の装備が不要になった為、藩士の俸給を平均して、百石以上を累進的に引き下げ、百石以下を累進的に引き上げ、貧富の格差を圧縮して、人心の一和、諸士の大同団結を図った。慶応四年三月一日、藩主忠訓帰城の日、藩士総登城、先君忠恭にも出御願い、禄高の改訂と兵制の改革を発表した。


   武装中立・独立特行の道

 慶応三年十月十四日、将軍慶喜は大政を奉還、この報が長岡に伝わるや、継之助はこの非常事態に拱手傍観する事、は徳川氏に対し義理を欠き、王臣としての道にも負くとの考えから、朝廷と幕府の間に立って斡旋する決意を固めた。

●もしも形勢を傍観して、首鼠両端を持し、強い方について割前にありつくことを藩是とするならば、天地の正義いづれにありや(もしも形勢を傍観し心を決めかねて、強い方について分配にありつく事を藩の方針とするなら、天地の正義はどこにも存在しなくなる)

慶応三年十一月二十五日、藩主牧野忠訓を擁し、江戸藩邸を後にして上阪。十二月二十日、継之助は藩主名代として参朝し、「太政官建白書」を提出した。その中で継之助は、関東と関西との戦が生じる事の非を述べ、幕府の疲弊は即日本の疲弊に繋がると、幕府を信任される様に訴えた。そして、建白に及んだ決死の真情を次の様に記した。

●天下万民の安危に係り候御儀、罪を懼れ、死を逃れ、黙止罷在り候も、皇国有生の道に背き申す可しと、及ばず乍ら決死極諫、無量の御高恩、万分の一をも報い候得ば、死もなお生に勝り候儀と、恐を顧みず申上げ奉り候。

だが、継之助の斡旋は功を奏さず、慶応四年一月三日には鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍は敗退して賊軍となり、江戸に向けて征討軍が下された。

 もはや、長岡に割拠して形勢を観察し、義を貫く道を見出すしかないと悟った継之助は、慶応四年三月三日 藩士全員百五十名余を連れて江戸藩邸を引き払い、用意の汽船で新潟へ向った。継之助は、書画什器及び藩邸も処分・数万両に換えて、最新式の各種銃砲や弾薬を購入。更に、途中、函館で米穀を高値で売却した。

三月二十八日、継之助は帰藩した。当時の長岡藩の状態は、隠居の先君・牧野忠恭を始め過半数が強烈な佐幕であり、意気軒昂であった。その一方、官軍からは北陸道先鋒総督(鎮撫使)が派遣され、北越十一藩の重臣が高田に集められ圧力をかけられていた。藩内では、社稷を守る為に絶対恭順を説く恭順派の活動も活発化して行った。

四月十七日、継之助は諸士を城中に会し、忠恭公・忠訓公の出御を仰いで、次の様に告げて藩内の結束を訴えた。

●余、小藩と雖も、孤城に拠りて国中に独立(割拠)し、存亡ただ天に任せ、以て、三百年来の主恩(幕府の恩義)に酬い、且つ義藩(義を貫く藩)の嚆矢(先駆け)たらんと欲す。

恭順派は、継之助こそが主戦論の巨頭であるとして、罷免を求めたが、恭順派の先鋒安田鉚蔵と幾度も議論した後に、継之助はその本心を次の様に明かした。十七日に「必戦の覚悟」を述べたのは、藩内の人心を覚醒させる為であり、本当の秘策はこれからであるとして、長岡藩が官軍と会津藩との間に立って双方を説得して和解の道を探り、もしそれが敗れた場合はその双方を相手にする決意を述べた。

●我が強盛の勢威を挟んで、官(官軍)・会(会津)の間に立ち、会(会津)人を諭して、先ず兵を我が境内に入れしめず、然る後、徐々に官将に告げて、其の進軍を止めしめ、会津を討つの不可なるを説き、会津の事を以て、我が藩の手に委せしめ、余、行きて会津を説き、其の恭順を勧め、もって無事両者の間を全うせん。斯の如くにして、而して尚我が言う所に従わざる者あらば、官・会の別なく、我は先ず其の我が言に聴かざる者を討つとせん。是れ、名正しうして、時々順々、もって天下に呼号するに足る。是れ余が心秘なり。

五月二日、継之助は、軍目付の二見虎三郎と従僕二人のみを従えて官軍本営小千谷に赴き、軍監岩村精一郎に嘆願を行った。世にいう「小千谷会談」である。「嘆願書」には、継之助の世界を見つめ、祖国を思う真情が籠められていた。

●独り一領一国の為のみにて申上げ候にては之れ無く、日本国中、協和合力、世界へ恥ずる無きの強国に成され候はば、天下の幸これに過ぎず、事迫り、情切に、愚誠の程、御採用にも相成り候はば、有り難く存じ奉り候。(私は、一領土や一国の為に申し上げているのでは無い。今は、日本国中が相協力して、世界に恥じない様な強国にして行く事が天下の為にも必要であり、事態は切迫していますので、私の誠から述べるこの意見を御採用戴く様お願いします。)

だが、弱冠二十三歳の軍監岩村精一郎には、四十二歳の継之助の深謀遠慮を理解する至誠が欠如していた。官軍は継之助の嘆願に対して聴く耳を持たず、継之助は空しく帰藩せざるを得なかった。この時の官軍の代表が継之助と同年の西郷南洲であったなら、後の長岡戦争も更には会津戦争さえ回避できたかも知れない。そう思うと、悲しくてならないし、官軍側の人材の欠如が残念でならない。

 帰路、継之助は覚悟を定めた。長岡藩の面目を保つ為には、長岡の平和を破る者達と戦い抜き、相手の目を醒まさせるしかなかった。

継之助は「このうえは君国のために一藩をあげて奸を防ぐほかみちなし。」「我が藩境をおかし、農事をさまたげるものは真の官軍にあらず。」と、戦いを決意した。

五月十日、長岡軍は進撃し、十一日には南方要地(榎峠・朝日山)を奪い返した。十九日、長岡城は一旦落城する。だが、六月二日には今町口の戦いで勝利し、七月二十五日には、湿地帯である八丁沖から長岡に突入・長岡城を回復した。決戦に先立ち継之助は、自ら「御書付」「口上書(言文一致体)」を記して配り、戦いの大義を明らかにした。更には、実際の行動に関して「手配書」「心得書」を作り、全軍に徹底した。

長岡城の奪還は快挙だったが、戦いの中で継之助は負傷し、敵軍の追撃は不可能だった。そして、城を守り抜く事も難しく、二十九日、再び長岡城は落城した。八月十六日、会津へと逃れる途次の塩沢に於て、継之助はその四十二年の生涯を閉じた。

継之助は次の言葉を残している。

●人間というものは、棺桶の中へ入れられて、上から蓋をされ、釘を打たれ、土中へ埋められて、それからの心でなければ、何の役にも立たぬ。

長岡藩を劇的に改革し、その実力を以て、幕府と官軍の調停の任に当たらんと志した稀代の英傑河井継之助らしい極論である。

継之助の座右銘は、「一忍 以て 百勇を支うべく 一静 以て 百動を制すべし」であった。継之助の勇気と敢然たる行動とが、日常の中の忍耐と静けさの中で深く培われて行った事を示している。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿