「道の学問・心の学問」第二十回(令和2年10月2日)
熊澤蕃山に学ぶ⑤「小人」一
心、利害に落入て暗昧なり。世事に出入して何となくいそがはし。
(『集義和書』巻第四)
「君子」八カ条の次に、蕃山は「小人」十一カ条を記している。「小人」とは自分の事しか考えない利己主義者の事である。君子を目指しつつも、つい「小人」の弊に陥りやすいのが凡人の常である。それ故、蕃山は具体的な陥穽を記して日々の戒めとした。
一、心、利害に落入(おちいり)て暗昧(あんまい)なり。世事に出入して何となくいそがはし。
『論語』に「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」とある様に、小人はつい己の利益のみに目が行きがちになる。それは、心が利害に惑わされ、愚かで道理に暗くなっているからなのだ。それ故、心が落ち着かずに世事に出入りして何となくせわしい時を過ごしている。人間は当然、己が果たすべき義務は誠実に果たさねばならない。だが小利を求めて、関与せずとも好い事につい首を突っ込んで、不必要な雑事に掛かずらわってしまうのだ。「何とはなく忙はし」と感じる様だったら、為している事を冷静に斟酌整理してみる事が必要だ。
一、心思、外に向(むかい)て人前を慎(つつしむ)のみ。或は頑空(がんくう)、或は妄慮(もうりょ)。
君子の心は己の内に向かう(自反慎独)が、小人の心は常に外に向かっている。人の眼があるから慎むのであり、誰も見ていないと思ったら、何を仕出かすか解らない。善悪の判断基準が他人にあるのだ。後漢の政治家楊震が賄賂を断った時の言葉「天知る、地知る、我れ知る、子(し・おまえ)知る」(楊震の四知)の感覚が欠如しているのである。内面の心は私欲に惑わされているので、心が発動しない場合でも真の空ではなく虚妄な空となり、心が発動した時の念慮は、真ではなくでたらめなものとなってしまうのである。
一、順を好み逆をいとひ、生を愛し死をにくみて、願のみ多し。
順は富貴悦楽の類なり、逆は貧賤患難の類なり。
一、愛しては生なんことを欲し、悪(にく)むでは死せんことを欲す。すべて命(めい)を知らず。
小人は富貴悦楽の順境のみを追い求め、貧賤患難の逆境を忌避する。生を愛し、死を憎んで願望ばかりが多い。人を愛しては長く生きる事を欲し、人を憎んでは死ぬ事を欲する。自分の生命が何故に存しているのか、その根本が解っていないから、世の毀誉褒貶や愛憎の情に迷うのである。人には天が「命(めい)」を与えているのだ。その命に応じて、その人の環境も備えられている。置かれた立場に応じて誠実に自らの命を果たす者こそが君子なのである。
熊澤蕃山に学ぶ⑤「小人」一
心、利害に落入て暗昧なり。世事に出入して何となくいそがはし。
(『集義和書』巻第四)
「君子」八カ条の次に、蕃山は「小人」十一カ条を記している。「小人」とは自分の事しか考えない利己主義者の事である。君子を目指しつつも、つい「小人」の弊に陥りやすいのが凡人の常である。それ故、蕃山は具体的な陥穽を記して日々の戒めとした。
一、心、利害に落入(おちいり)て暗昧(あんまい)なり。世事に出入して何となくいそがはし。
『論語』に「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」とある様に、小人はつい己の利益のみに目が行きがちになる。それは、心が利害に惑わされ、愚かで道理に暗くなっているからなのだ。それ故、心が落ち着かずに世事に出入りして何となくせわしい時を過ごしている。人間は当然、己が果たすべき義務は誠実に果たさねばならない。だが小利を求めて、関与せずとも好い事につい首を突っ込んで、不必要な雑事に掛かずらわってしまうのだ。「何とはなく忙はし」と感じる様だったら、為している事を冷静に斟酌整理してみる事が必要だ。
一、心思、外に向(むかい)て人前を慎(つつしむ)のみ。或は頑空(がんくう)、或は妄慮(もうりょ)。
君子の心は己の内に向かう(自反慎独)が、小人の心は常に外に向かっている。人の眼があるから慎むのであり、誰も見ていないと思ったら、何を仕出かすか解らない。善悪の判断基準が他人にあるのだ。後漢の政治家楊震が賄賂を断った時の言葉「天知る、地知る、我れ知る、子(し・おまえ)知る」(楊震の四知)の感覚が欠如しているのである。内面の心は私欲に惑わされているので、心が発動しない場合でも真の空ではなく虚妄な空となり、心が発動した時の念慮は、真ではなくでたらめなものとなってしまうのである。
一、順を好み逆をいとひ、生を愛し死をにくみて、願のみ多し。
順は富貴悦楽の類なり、逆は貧賤患難の類なり。
一、愛しては生なんことを欲し、悪(にく)むでは死せんことを欲す。すべて命(めい)を知らず。
小人は富貴悦楽の順境のみを追い求め、貧賤患難の逆境を忌避する。生を愛し、死を憎んで願望ばかりが多い。人を愛しては長く生きる事を欲し、人を憎んでは死ぬ事を欲する。自分の生命が何故に存しているのか、その根本が解っていないから、世の毀誉褒貶や愛憎の情に迷うのである。人には天が「命(めい)」を与えているのだ。その命に応じて、その人の環境も備えられている。置かれた立場に応じて誠実に自らの命を果たす者こそが君子なのである。
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