「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その17 「薩摩武士道」その1

2014-08-04 17:04:05 | 【連載】武士道の言葉
薩摩武士道 その一(『祖国と青年』平成25年11月号掲載)

鳥に二つの翼があるように、文武両道でなければならない。
やはらぐと怒るをいはば弓と筆鳥に二つの翼とを知れ
(島津日新公いろは歌)

 江戸時代は藩ごとに教育が行われ、その優劣が人材の有無につながり、幕末維新期のリーダー藩を生み出した。坂野潤治・大野健一『明治維新 1858‐1881』によると、維新を主導した薩摩・長州・土佐・肥前・越前を比較すれば、「柔構造」の面で薩摩が最も優れていたという。薩摩藩士の場合、京都で他藩と交渉に当る者には全権が委任され、独断専行が可能だった。その後藩論が変更になった場合でも、薩摩藩士は己の意見には執着せず、藩の方針を背負って交渉に当っていた、と言う。

その背景に「薩摩武士の同志的結合」があった。『西郷隆盛全集』を読むと、京都で活動していた西郷が、薩摩にいる大久保に頻繁に手紙を出している事に驚かされる。一日三通の日もある。情報は完全に共有されていた。

 この一体感あふれる薩摩藩の気風を生み出したものが、薩摩独特の教育システムであった。薩摩では、鎌倉幕府創業以来一貫して、三州(薩摩・大隅・日向)の守護として島津氏が君臨し続けて来た。島津の殿様を仰ぐ薩摩の士風は、歴史の中で積み重ねられ、家庭・社会・学問所一体の重厚なる伝統が生み出された。

 薩摩武士の家庭で、母親が子供の教訓として教え諭す教材としたものが、「島津日新公いろは歌」である。

島津日新公・忠良は島津分家の当主だったが、長子貴久が第十五代藩主となり、貴久は島津中興の名君となった。その子が十六代義久・十七代義弘である。これらの子や孫は日新公の薫陶を受けて育った。

日新公は、若い頃から儒学を学び、宗教心が篤く禅宗に帰依した。和歌の道にも優れ、天文十四年(一五四五)五十四歳の頃、解り易い和歌の形で人生訓を択び人々に示した。ここで紹介したのは、文武両道を「和らぎ」と「怒り」、弓と筆として、鳥の両翼に例えて示した歌である。




学んだことは必ず実践せねば本物とならない
いにしへの道を聞きても唱へてもわが行にせずばかひなし
(島津日新公いろは歌)

 日新公のいろは歌は、親から子供へと伝えられ、薩摩の青少年の大きな精神的支柱となっていった。少年達は日夜これらの歌を口誦して心を整えたのである。その中から幾つかを紹介しよう。

●いにしへの道を聞きても唱へてもわが行にせずばかひなし

 最初の歌である。学んだ事は実践せねば本物にはならないと、知行合一を説いている。西郷隆盛に代表されるような、自らの信念の下に断固行動していく薩摩人の雄々しさを育んだ歌である。

●仏神他にましまさず人よりもこころに恥ぢよ天地よく知る

 仏や神はわれわれの心の中に住んでいる。こころに恥ない生き方を求めよ。天地はよく見ていて下さる。

●盗人はよそより入ると思ふかや耳目の門に戸ざしよくせよ

 盗人はよそから入ってくると思うだろうが、それだけではない。耳や目から入って自分の良心を奪っていくものなのだ、心の入り口である耳や目にしっかり戸締りをしなければならない。

●善きあしき人の上にて身を磨け友はかがみとなるものぞかし

 三人いれば必ずわが師在り、というが、善きにつけ悪しきにつけ、友は自分の鏡となるものである。

●礼するは人にするかは人をまたさぐるは人を下ぐるものかは

 礼を行ったり、人をさげすむのは、他人に向かって為しているのではなく、実は自分に対して行っているのだ。

●昔より道ならずして驕る身の天のせめにしあはざるはなし

 道に外れて名声・財産を手に入れても、天罰に会わなかった試しが無い。

●無勢とて敵をあなどることなかれ多勢を見ても恐るべからず

 敵が少ないからといって侮ってはならないし、敵が多いからといって恐れてはならない。

●心こそ軍する身の命なれそろふれば生き揃はねば死す

戦をするに当っても、将兵の心が一致しなければ破れてしまう。心一つになることが勝利を生む。

人の生き方、心の持ちようについて、次々と教え諭される。この様な初等教育は現代人にも強く求められている。





郷中内では何事であっても心をこめて話し合う事が大切である。
咄相中何色によらず、入魂に申合せ候儀肝要たる事
(二才咄格式定目)

 薩摩の人材を生み出した制度として「郷中教育」がある。会津の「什」の教育と似ているが、鹿児島の方が歴史は古い。そのシステムが生み出されたのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐の頃である。当時、薩摩で幾つかの事件が起こり、しっかりした家臣団を育成する為の教育改革の必要が生じた事と、薩摩の壮年が多数朝鮮半島に渡り不在と成る中で、青少年の年長者が責任を以て、その地域の年少者を育てて行く「郷中教育」のシステムが生み出されたという。

 郷中教育は、小団体の学習活動であり、 4~5町四方を単位とする「方限(郷)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を年齢よって四つのグループに編成、それぞれのグループで「頭」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。郷中のメンバーは「舎」に集まり武術や学問に励んだ。六歳から十歳を小稚児、十一歳から十四歳を長稚児、十四・五歳の元服後から二十四・五歳を二才と称した。妻帯した先輩は長老と呼ばれた。

西郷隆盛は下加治屋町郷の二才頭を務め、この郷からは大久保利通や大山巌等維新期の数多人材を輩出した。

 郷中教育では、青少年の人格形成の目標を具体的に示した。それは、素朴主義・鍛錬主義・価値主義の教育だった。

教育方針の中心となったのが、文禄五年(一五九六)に制定された「二才咄格式定目」である。

「まず、武道をたしなむこと。」に始まり、「武士はいかにあるべきかを常に考えていなさい。」「おしゃべりは慎め。」「うそをつくな。」「日頃は自分のことを大げさにいうな。ただ、咄嗟の時に遅れをとらないよう心がけよ。」「見かけより、中身を重んじろ。」等の具体的な生活の在り方を示すと共に、自らの郷に対する絶対なる帰属意識を養うべく「他の郷中のものと心を打ち解けてつきあうな。」「郷中内でしっかり話し合え」「他郷の人と会った際、判らないことがあつたら、郷中に帰って問題解決しろ。」と記してある。

薩摩の青少年は、幼い頃から、自らの郷と他の郷との弁別を学び、付き合い方を身に付けていた。その事が、維新期の他藩との付き合いの際、薩摩の団結力と、藩士に対する絶対信頼を生み出したのではなかろうか。





日頃から山や坂を歩き回って足腰を鍛えておけ
山坂の達者は心懸くべき事。(二才咄格式定目)

 更に、九番目に記してあるのがここに紹介する「山坂の達者は心懸くべき事。」である。薩摩の青少年は幼い頃から山や坂を歩き回って足腰を鍛え上げていた。「山坂達者」でなければ一人前の武士とは見なされなかった。西郷さんが、鹿児島に引き揚げた後も、常に山道を駆け回って猟をしていたのは、この様な教えが身に付いていたからであろう。

薩摩の剣術では示現流・薬丸自顕流が有名だが、この剣術は「肉を斬らせて骨を断つ」満身の気合を込めた一太刀で相手を制するものである。かつて鹿児島で歴史体験セミナーが開催された際、南洲神社で自顕流の稽古があっており、有志で少し体験させて戴いたが、後で、腿の筋肉が痛みで震えた覚えがある。足腰の恒常的な鍛錬がなければ示現流・自顕流は使えない。その稽古は生木を太刀の代わりに持って、横に組んだ木の束を気合の続く限り何度も打ち続けるものであった。この剣術を郷中教育では、各地の舍で毎日励んでいたのである。

郷中教育では、四書五経の素読を指導したり、真田三代記や太閤記、武王軍談・三国志・漢楚軍談等の会読会が行われていた。

更には、年中行事として、五月二十八日 曽我物語輪読会、六月二十三日 日新寺参詣(島津中興の忠良(日新公)・貴久父子敬慕・十里)、七月十八日 心岳寺参詣(島津歳久が豊臣秀吉に自刃させられた日)、九月十四日 妙円寺参詣(島津義弘の関が原苦戦回顧・四里半)、十二月十四日 赤穂義士伝輪読会、が行われた。これらの日には、それぞれのお寺に徒歩で参詣し、先君と祖先の偉業を偲ぶのだった。

 この様にして薩摩の青少年には、「質実剛健」の気風が養われて行った。しかし江戸時代といえども、天下泰平の中では華美を求める風潮が浸透し、薩摩も決して例外ではなかった。それ故薩摩藩では時代に応じて様々に教訓状や掟書・諭達書などを出して、教育の形骸化を防止している。

武士道の義を実践せよ・心身を鍛錬せよ・嘘を言うな・弱いものいじめをするな・質実剛健たれ、これらの価値観が決して揺らがなかった。その意味で、泰平の誘惑から毅然と薩摩士風を守り抜いた、藩指導部の信念が明治維新を生み出したと言って過言ではない。

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