実践陽明学 第1回
先月、名古屋・神戸・福岡で日本の誇りセミナーを開講し、第1回「陽明学入門」を講義した。その際に参加者から出された質問についてその場で答えはしたが、改めて『伝習録』を播き、色々と示唆を受けたので、更に回答を試みて行きたい。
【質問】
「毎日、知行合一を実践しているつもりだが、あまり巧く行かずに挫折ばかりしている。どうしたら良いのか」
【アドバイス】
●王陽明の「知行合一」は、知識偏重の世の風潮に対して、その病を是正する為に、唱えられたものです。元来「知」と「行」とは同じものであるというのが王陽明の言いたかった事です。
●王陽明哲学の根本は「致良知」「良知を致す」です。吾々の日々の実践の工夫はこの一点に絞るべきでしょう。自らの中に存在する「良知」が光り輝く様に日々努力を積み重ねて行かなければなりません。その輝く様な「良知」に問いかける事が出来るならば、全ての行動は巧く行くはずなのです。「良知」が輝き出るためには、鏡を磨くが如く、心を磨く努力を積み重ねていくしかありません。日常坐臥に於いて「良知」を磨き出す工夫を重ねる事が求められます。
●それでは、如何にして「良知」を磨き出していくのか。王陽明は四箇教条(しこかじょう)立志・勤学・改過・責善(りっし・きんがく・かいか・せきぜん)を強調しています。
●先ずは「立志」、立派な日本人たらんと毎日毎日志を立て続ける事です。
●次に「勤学」、日々日々「立派に生きた先人」の姿を学んだり、先人の言葉を学び、魂に刻み付けていく事を、一日も欠かさず(ここが重要です。例え微小の時間でも必ず毎日その学びを継続する事)行っていく事。それが重要です。先人の生き方や言葉の学びは、「心の栄養素」なのです。
●王陽明が最も強調しているのは、次の「改過」です。人間は過ちを犯すものですから、過ちにとらわれてしまえば、人生は堕落して行きます。それ故、過ちを解ったら即座に「改める」事をすべきなのです。過ちと解る事が「良知」の働きなのですから、「改める」事が即「致良知」になるのです。大西郷遺訓にも「あやま過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、そのこと其事をば棄てて顧みず、直に一歩ふみだ踏出す可し。過を悔しく思ひ、とりつくら取繕はんと心配するは、たと譬へば茶碗を割り、その其か欠けを集め合せ見るも同じにて、せん詮もなきこと也。」とあります。
●改過を積み重ね習慣づけると共に、最後の「責善」の習慣をつけて行く事です。「善い事だ」と思ったら迷わずに行う、それを日々日々積み重ねて行くのです。過去の自分はもはや存在しません、現在に於て最高の「責善」を実行出来る自分に為して行く事です。
●この四個箇条の実践を積み重ねて行ったなら、必ず、あなたの「人徳」が輝き出して来ます。そうすれば、あなたの中の「良知」が輝き出し、為す事は必ず巧く行く様になります。
【質問】「私の様な私利私欲に覆われている人間には「人欲を去って天理を存する」という事は極めて難しいように思われますが、どうでしょうか。」
【アドバイス】
●王陽明は人間の持つ「欲望」そのものを全否定している訳ではありません。全ての欲望を否定してしまえば、死ぬしかないでしょう。王陽明が言って居るのは、「欲望の適正化」とでも言うべき事です。
●しかし、欲望は、それを制御しなければどんどん肥大化して行きます。その結果、人間は「欲望」の奴隷に堕してしまうのです。人間誰しも「欲望の奴隷」として生きたくは無いと思います。人間は「食うために生きる」のではなく「生きるために食う」訳です。「天理」にかなった「欲望」は、「人欲」とは言いません。「天理」にかなった「欲望」は決して人を否定せず、自己も他者も共に生かしていきます。
●だが、「欲望の適正化」は言う事は易しいですが、実際行うとなると、非常に難しいものがあります。要は、回りの物に自らの心が奪われずに、確り自分の本来の「良知」に足を踏みしめる事が出来ているかという事が問題なのです。周りに欲望を駆り立てる誘惑が渦巻いていても、その中でも「良知」が輝く自分であり続ける事が出来るかが問題なのです。
●欲望渦巻く中で、それに惑わされない自分を如何に磨き上げていくのか、そこに日々の自己修養の鍵がある訳です。
●王陽明は、先ずは「静座」を勧めました。日頃、回りの煩雑さに自己を失っている人間が多い為に、動きを止めて、ゆっくりと自己の本来の在り方を見つめ直し、自己の真に欲する事を見つめよというのです。
●その上で、「省察克己」の修養実践を説きます。「回りの誘惑に踊らされて湧き起こって来る欲望」を自らの意志で「押さえ込む」修業です。当初は苦しいかもしれませんが、10の欲望を9に押さえ、翌日は更に8に押さえ、次の日は7に、という様な努力を行って、欲望の「適正」をつかんで行くのです。それを「克己」「己に克つ」と呼びます。かつては、子供達に「克己心」を身につける事はどこの家でも親が躾けていました。更には、日々の自己の行動が「我が儘勝手になっていなかったか」と日々自己反省して行くことを「省察」と言います。これらを習慣化する事によって、他者と共存して行く「欲望の適正化」が身についていくのです。それを身につける事は、社会生活を成功させる大きなポイントなのです。
●人欲を去っていけば、自ずと天理に則った生き方が身についていきます。天理は「万物一体」のものですから、人々との共生が生まれ、あなたが行う事は即他者・周りの人々の為のものになるのです。そこに調和ある人生が現出します。
先月、名古屋・神戸・福岡で日本の誇りセミナーを開講し、第1回「陽明学入門」を講義した。その際に参加者から出された質問についてその場で答えはしたが、改めて『伝習録』を播き、色々と示唆を受けたので、更に回答を試みて行きたい。
【質問】
「毎日、知行合一を実践しているつもりだが、あまり巧く行かずに挫折ばかりしている。どうしたら良いのか」
【アドバイス】
●王陽明の「知行合一」は、知識偏重の世の風潮に対して、その病を是正する為に、唱えられたものです。元来「知」と「行」とは同じものであるというのが王陽明の言いたかった事です。
●王陽明哲学の根本は「致良知」「良知を致す」です。吾々の日々の実践の工夫はこの一点に絞るべきでしょう。自らの中に存在する「良知」が光り輝く様に日々努力を積み重ねて行かなければなりません。その輝く様な「良知」に問いかける事が出来るならば、全ての行動は巧く行くはずなのです。「良知」が輝き出るためには、鏡を磨くが如く、心を磨く努力を積み重ねていくしかありません。日常坐臥に於いて「良知」を磨き出す工夫を重ねる事が求められます。
●それでは、如何にして「良知」を磨き出していくのか。王陽明は四箇教条(しこかじょう)立志・勤学・改過・責善(りっし・きんがく・かいか・せきぜん)を強調しています。
●先ずは「立志」、立派な日本人たらんと毎日毎日志を立て続ける事です。
●次に「勤学」、日々日々「立派に生きた先人」の姿を学んだり、先人の言葉を学び、魂に刻み付けていく事を、一日も欠かさず(ここが重要です。例え微小の時間でも必ず毎日その学びを継続する事)行っていく事。それが重要です。先人の生き方や言葉の学びは、「心の栄養素」なのです。
●王陽明が最も強調しているのは、次の「改過」です。人間は過ちを犯すものですから、過ちにとらわれてしまえば、人生は堕落して行きます。それ故、過ちを解ったら即座に「改める」事をすべきなのです。過ちと解る事が「良知」の働きなのですから、「改める」事が即「致良知」になるのです。大西郷遺訓にも「あやま過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、そのこと其事をば棄てて顧みず、直に一歩ふみだ踏出す可し。過を悔しく思ひ、とりつくら取繕はんと心配するは、たと譬へば茶碗を割り、その其か欠けを集め合せ見るも同じにて、せん詮もなきこと也。」とあります。
●改過を積み重ね習慣づけると共に、最後の「責善」の習慣をつけて行く事です。「善い事だ」と思ったら迷わずに行う、それを日々日々積み重ねて行くのです。過去の自分はもはや存在しません、現在に於て最高の「責善」を実行出来る自分に為して行く事です。
●この四個箇条の実践を積み重ねて行ったなら、必ず、あなたの「人徳」が輝き出して来ます。そうすれば、あなたの中の「良知」が輝き出し、為す事は必ず巧く行く様になります。
【質問】「私の様な私利私欲に覆われている人間には「人欲を去って天理を存する」という事は極めて難しいように思われますが、どうでしょうか。」
【アドバイス】
●王陽明は人間の持つ「欲望」そのものを全否定している訳ではありません。全ての欲望を否定してしまえば、死ぬしかないでしょう。王陽明が言って居るのは、「欲望の適正化」とでも言うべき事です。
●しかし、欲望は、それを制御しなければどんどん肥大化して行きます。その結果、人間は「欲望」の奴隷に堕してしまうのです。人間誰しも「欲望の奴隷」として生きたくは無いと思います。人間は「食うために生きる」のではなく「生きるために食う」訳です。「天理」にかなった「欲望」は、「人欲」とは言いません。「天理」にかなった「欲望」は決して人を否定せず、自己も他者も共に生かしていきます。
●だが、「欲望の適正化」は言う事は易しいですが、実際行うとなると、非常に難しいものがあります。要は、回りの物に自らの心が奪われずに、確り自分の本来の「良知」に足を踏みしめる事が出来ているかという事が問題なのです。周りに欲望を駆り立てる誘惑が渦巻いていても、その中でも「良知」が輝く自分であり続ける事が出来るかが問題なのです。
●欲望渦巻く中で、それに惑わされない自分を如何に磨き上げていくのか、そこに日々の自己修養の鍵がある訳です。
●王陽明は、先ずは「静座」を勧めました。日頃、回りの煩雑さに自己を失っている人間が多い為に、動きを止めて、ゆっくりと自己の本来の在り方を見つめ直し、自己の真に欲する事を見つめよというのです。
●その上で、「省察克己」の修養実践を説きます。「回りの誘惑に踊らされて湧き起こって来る欲望」を自らの意志で「押さえ込む」修業です。当初は苦しいかもしれませんが、10の欲望を9に押さえ、翌日は更に8に押さえ、次の日は7に、という様な努力を行って、欲望の「適正」をつかんで行くのです。それを「克己」「己に克つ」と呼びます。かつては、子供達に「克己心」を身につける事はどこの家でも親が躾けていました。更には、日々の自己の行動が「我が儘勝手になっていなかったか」と日々自己反省して行くことを「省察」と言います。これらを習慣化する事によって、他者と共存して行く「欲望の適正化」が身についていくのです。それを身につける事は、社会生活を成功させる大きなポイントなのです。
●人欲を去っていけば、自ずと天理に則った生き方が身についていきます。天理は「万物一体」のものですから、人々との共生が生まれ、あなたが行う事は即他者・周りの人々の為のものになるのです。そこに調和ある人生が現出します。
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