このテーマでの『祖国と青年』誌への連載は、二十一年三月号で終了したが、私の「日本の誇り復活―その戦ひと精神」は死ぬまで終らない(死而後已(ししてのちやむ))ので、引き続き月刊のペースで、毎月十日前後に、私のブログで発表する事とする。
【ブログ連載】平成21年4月
「日本の誇り」復活―その戦ひと精神(四十二回)
大東亜戦争完遂に尽力し、戦後復興を担つた「大学」及び「学生」の大和魂
三月に開催された第41回全九州学生ゼミナールで私は、戦時下にあつて国策を担ひ、人材を生み出し、その結果戦後復興の原動力となつた戦前の大学及び専門学校の中の三校に関する講義を行つた。
日清戦争に勝利した後、わが国では中国問題を本格的に研究し、日中間の親善と事業に奔走する人材養成の声が高まり、明治34年(1900年)上海に「東亜(とうあ)同文(どうぶん)書院(しょいん)」が設立された。東亜同文書院は敗戦迄45年、約5千人の卒業生を世に送り出した。
初代校長を務めた根津(ねづ)一(はじめ)は、陸軍士官学校在学時から将来を嘱望されてゐたが、大陸問題に志を抱き、陸軍を辞して奔走した逸材で、陽明学を信奉し、日本の精神界救済の為、神儒仏の研鑽に余念無き人物だつた。その薫陶(くんとう)下、書院には「根津(ねづ)精神(せいしん)」が浸透して行つた。書院には全国から日中間の協力提携を志す有為の青年達が県の推薦などによつて集まつた。
第5期生からは、卒業年度の初め三箇月~半年を使ひ、卒論の為の「中国調査大旅行」が制度化された。学生達は数名から五・六名で構成する班毎に大陸の隅々まで踏破して中国の実態を把握してゐる。内蒙古や青海迄その足跡は記された。彼らは、書院で身につけた語学力(北京語・英語)を武器に、儒教的教養と日中親善の信念を支へに、日本の国威を示す「日の丸」の旗と中国官憲から得た「護(ご)照(しょう)(ビザの様なもの)」を頼りに各地を巡回した。辛亥革命以後の中国は中華人民共和成立迄、軍閥が割拠する内乱状態だつたが、その中を学生達は、衛生環境劣悪・食糧不足の中を、時には匪賊に身ぐるみを奪はれたりしながらも、貴重な体験を刻み込んで行つた。
彼らは、奥地に長年住み着いて伝道してゐる欧米人の姿やベトナムの仏人の日本警戒心などを体験しつつ、日中の真の提携に身を以て当る志を固めて行く。積み重ねられた調査研究は『支那(しな)経済全書』全12巻・『支那省(しなしょう)別(べつ)全誌(ぜんし)』全18巻として、当時世界で唯一の中国研究書として纏(まと)められた。彼らの中から、日中和平に尽力する人物や戦後、台湾や東南アジアとの交流、日中国交回復を担う人材が生まれた。
戦前の大学は「大学令(だいがくれい)」に「国家ニ須要(しゅよう)ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥(うんおう)ヲ攻究(こうきゅう)スル」「国家思想ノ涵養(かんよう)ニ留意ス」と記され、国家との繋(つな)がりは当然だつた。それ故、昭和12年以来の国家総力戦体制に対しては、大学も協力を惜しまなかつた。
昭和14年には支那事変に伴ふ医師増員の為、全国の帝国大学・医科大学校に臨時医学専門部が付設された。東京帝大では、14・5年に工学部の臨時増員、14年10月陸海軍の委託研究の為に工学部附属綜合試験所設置、昭和16年11月東洋文化研究所附置、17年4月第二工学部開設、17年12月南方占領地における農業開発指導者養成の為、農学部に熱帯農業員養成所設置、19年1月南方自然科学研究所附置、20年1月には電波兵器の開発を目指し、輻射線(ふくしゃせん)化学研究所を設置してゐる。
第二工学部の設置を決断したのは平賀(ひらが)譲(ゆずる)総長(元海軍造船中将)だつた。繰上(くりあ)げ卒業を要請する海軍に対して平賀総長は、未熟の技術者を世に送り出すよりも、工学部を増設し、倍の立派な技術者を養成する事こそが大学の使命であると主張した。東大第二工学部は千葉県の片田舎に新設された。教授陣不足は企業の優秀な研究者を招聘(しょうへい)して補われた(糸川英夫氏など)。
多くの学生達は寮生活を行ひ、そこには独特の「二工(にこう)スピリット」なるものが培はれていく。それは、野生味溢れ開拓者精神旺盛でかつ親和的な気風だつた。現場を踏んだ教授陣が多く、技術開発は実践的なものだつた。大東亜戦争末期には「赤外線誘導爆弾(イ号爆弾)」「ロケット戦闘機(秋水(しゅうすい))」「高性能レーダー」開発を行つた。「イ号爆弾」は琵琶湖でのテスト段階迄進んだ。結果的には、これらの研究は実を結ばなかつたが、その高い技術開発力は戦後日本復活の原動力となつた。そして、戦後の日米経済戦争の際、この第二工学部で学んだ人材が日本企業のトップとして米国との技術戦争を戦ひ抜き勝利に導いたのである。
戦前の教育者養成機関は「師範(しはん)学校(がっこう)」だつた。全寮制の下で、厳しい自己修養を課し、教師としての「師道(しどう)」を磨いた。
大東亜戦争の渦中、昭和18年秋に「国防と教育とは鳥の両翼にも譬(たと)ふべく、国民教育者の養成は幹部軍人の養成と等しく国家最大の要務(ようむ)である。」との認識の下、熊本師範学校は県立から国立(官立)へと昇格し、11月16日にその開校記念式が盛大に催された。それを師範学校の生徒達は真剣に受け止めた。
式典の祝辞で、ドイツの文部大臣が師範大学開校を「将来を背負ふ意志の要塞」の構築と称した言葉が紹介され大きな感銘を与へた。二年生の宮本壊司君はその言葉を引用しつつ、「社会が教育に全幅の関心を持つときこそ最も発展的な将来性を予約されたときである。国が『最大最高の軍備は教育の塁(るい)である』といふことを実際に示現(じげん)するときこそもつとも躍進的な歴史の段階を辿(たど)りつゝある証拠である。(略)今こそ国民教育といふ地味な仕事が何ものにも換えがたき興亜(こうあ)の聖域として戦時下の脚光を浴びて来たのである」「幸福万感胸に迫り」と記した。
専攻科の永田たき子さんは、「武人は武をもつて国家を守り、教育者は確固不抜(かっこふばつ)の精神と健全なる思想とをもつて国を守るものでなければならぬ。一国を背負ふ中堅の国民は、先づ青少年にその力を培(つちか)ひ真に皇国臣民(こうこくしんみん)としての思想と日本精神の訓育補導(くんいくほどう)とに当る事は即ち我等のもつ学園に於て根となし茎となし、そうして花となし茲(ここ)に結実の旺盛(おうせい)なる国家目的の人材を育成することに外ならぬ。こう思ふ時、我等の任務の武人と何等変りのない事を痛感するのである。(略)今の時世に女子の男子に代つてその仕事を引き受ける時而(しか)して女子教育者の責務を感ずる。(略)我等は国民教育者としてのよりよき資質の錬磨(れんま)に精進(しょうじん)し以つてその使命の完遂(かんすい)に邁進(まいしん)すべきである事を痛感した。」と記した。
彼らの厳しい覚悟と自己練磨(じこれんま)が教育者としての魂を養成した。この「師範(しはん)魂(だましい)」が戦後日本の教育界を支へて行つたのだ。
【参考文献】
●『東亜同文書院大学史』藤田佳久『東亜同文書院中国大調査旅行の研究』滬友編集委員会『大陸大旅行秘話』・栗田尚弥『s上海東亜同文書院』大東塾出版部『復興アジアの志士群像』黒龍会編『東亜先覚志士紀伝』(上巻・下巻)東亜同文書院滬友同窓会『山洲根津先生伝』馮正宝『評伝 宗方小太郎』宗方丈夫『亡父宗方小太郎を偲びて』(宗方丈夫氏は多久善郎の父方の祖父(田邉寛忠)の弟で、東京帝大在学中に宗方小太郎氏にみそめられて娘さんと結婚し養子に入って宗方家を継いだ)
●今岡和彦『東京大学第二工学部』東京帝国大学『東京帝国大学学術大観1総説・文学部』東京大学『東京大学百年史 通史二』
●『熊本師範学校』『熊本師範学校史』『文部省思想局 思想調査資料集成第12巻』『熊本青年師範学校史』
【ブログ連載】平成21年4月
「日本の誇り」復活―その戦ひと精神(四十二回)
大東亜戦争完遂に尽力し、戦後復興を担つた「大学」及び「学生」の大和魂
三月に開催された第41回全九州学生ゼミナールで私は、戦時下にあつて国策を担ひ、人材を生み出し、その結果戦後復興の原動力となつた戦前の大学及び専門学校の中の三校に関する講義を行つた。
日清戦争に勝利した後、わが国では中国問題を本格的に研究し、日中間の親善と事業に奔走する人材養成の声が高まり、明治34年(1900年)上海に「東亜(とうあ)同文(どうぶん)書院(しょいん)」が設立された。東亜同文書院は敗戦迄45年、約5千人の卒業生を世に送り出した。
初代校長を務めた根津(ねづ)一(はじめ)は、陸軍士官学校在学時から将来を嘱望されてゐたが、大陸問題に志を抱き、陸軍を辞して奔走した逸材で、陽明学を信奉し、日本の精神界救済の為、神儒仏の研鑽に余念無き人物だつた。その薫陶(くんとう)下、書院には「根津(ねづ)精神(せいしん)」が浸透して行つた。書院には全国から日中間の協力提携を志す有為の青年達が県の推薦などによつて集まつた。
第5期生からは、卒業年度の初め三箇月~半年を使ひ、卒論の為の「中国調査大旅行」が制度化された。学生達は数名から五・六名で構成する班毎に大陸の隅々まで踏破して中国の実態を把握してゐる。内蒙古や青海迄その足跡は記された。彼らは、書院で身につけた語学力(北京語・英語)を武器に、儒教的教養と日中親善の信念を支へに、日本の国威を示す「日の丸」の旗と中国官憲から得た「護(ご)照(しょう)(ビザの様なもの)」を頼りに各地を巡回した。辛亥革命以後の中国は中華人民共和成立迄、軍閥が割拠する内乱状態だつたが、その中を学生達は、衛生環境劣悪・食糧不足の中を、時には匪賊に身ぐるみを奪はれたりしながらも、貴重な体験を刻み込んで行つた。
彼らは、奥地に長年住み着いて伝道してゐる欧米人の姿やベトナムの仏人の日本警戒心などを体験しつつ、日中の真の提携に身を以て当る志を固めて行く。積み重ねられた調査研究は『支那(しな)経済全書』全12巻・『支那省(しなしょう)別(べつ)全誌(ぜんし)』全18巻として、当時世界で唯一の中国研究書として纏(まと)められた。彼らの中から、日中和平に尽力する人物や戦後、台湾や東南アジアとの交流、日中国交回復を担う人材が生まれた。
戦前の大学は「大学令(だいがくれい)」に「国家ニ須要(しゅよう)ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥(うんおう)ヲ攻究(こうきゅう)スル」「国家思想ノ涵養(かんよう)ニ留意ス」と記され、国家との繋(つな)がりは当然だつた。それ故、昭和12年以来の国家総力戦体制に対しては、大学も協力を惜しまなかつた。
昭和14年には支那事変に伴ふ医師増員の為、全国の帝国大学・医科大学校に臨時医学専門部が付設された。東京帝大では、14・5年に工学部の臨時増員、14年10月陸海軍の委託研究の為に工学部附属綜合試験所設置、昭和16年11月東洋文化研究所附置、17年4月第二工学部開設、17年12月南方占領地における農業開発指導者養成の為、農学部に熱帯農業員養成所設置、19年1月南方自然科学研究所附置、20年1月には電波兵器の開発を目指し、輻射線(ふくしゃせん)化学研究所を設置してゐる。
第二工学部の設置を決断したのは平賀(ひらが)譲(ゆずる)総長(元海軍造船中将)だつた。繰上(くりあ)げ卒業を要請する海軍に対して平賀総長は、未熟の技術者を世に送り出すよりも、工学部を増設し、倍の立派な技術者を養成する事こそが大学の使命であると主張した。東大第二工学部は千葉県の片田舎に新設された。教授陣不足は企業の優秀な研究者を招聘(しょうへい)して補われた(糸川英夫氏など)。
多くの学生達は寮生活を行ひ、そこには独特の「二工(にこう)スピリット」なるものが培はれていく。それは、野生味溢れ開拓者精神旺盛でかつ親和的な気風だつた。現場を踏んだ教授陣が多く、技術開発は実践的なものだつた。大東亜戦争末期には「赤外線誘導爆弾(イ号爆弾)」「ロケット戦闘機(秋水(しゅうすい))」「高性能レーダー」開発を行つた。「イ号爆弾」は琵琶湖でのテスト段階迄進んだ。結果的には、これらの研究は実を結ばなかつたが、その高い技術開発力は戦後日本復活の原動力となつた。そして、戦後の日米経済戦争の際、この第二工学部で学んだ人材が日本企業のトップとして米国との技術戦争を戦ひ抜き勝利に導いたのである。
戦前の教育者養成機関は「師範(しはん)学校(がっこう)」だつた。全寮制の下で、厳しい自己修養を課し、教師としての「師道(しどう)」を磨いた。
大東亜戦争の渦中、昭和18年秋に「国防と教育とは鳥の両翼にも譬(たと)ふべく、国民教育者の養成は幹部軍人の養成と等しく国家最大の要務(ようむ)である。」との認識の下、熊本師範学校は県立から国立(官立)へと昇格し、11月16日にその開校記念式が盛大に催された。それを師範学校の生徒達は真剣に受け止めた。
式典の祝辞で、ドイツの文部大臣が師範大学開校を「将来を背負ふ意志の要塞」の構築と称した言葉が紹介され大きな感銘を与へた。二年生の宮本壊司君はその言葉を引用しつつ、「社会が教育に全幅の関心を持つときこそ最も発展的な将来性を予約されたときである。国が『最大最高の軍備は教育の塁(るい)である』といふことを実際に示現(じげん)するときこそもつとも躍進的な歴史の段階を辿(たど)りつゝある証拠である。(略)今こそ国民教育といふ地味な仕事が何ものにも換えがたき興亜(こうあ)の聖域として戦時下の脚光を浴びて来たのである」「幸福万感胸に迫り」と記した。
専攻科の永田たき子さんは、「武人は武をもつて国家を守り、教育者は確固不抜(かっこふばつ)の精神と健全なる思想とをもつて国を守るものでなければならぬ。一国を背負ふ中堅の国民は、先づ青少年にその力を培(つちか)ひ真に皇国臣民(こうこくしんみん)としての思想と日本精神の訓育補導(くんいくほどう)とに当る事は即ち我等のもつ学園に於て根となし茎となし、そうして花となし茲(ここ)に結実の旺盛(おうせい)なる国家目的の人材を育成することに外ならぬ。こう思ふ時、我等の任務の武人と何等変りのない事を痛感するのである。(略)今の時世に女子の男子に代つてその仕事を引き受ける時而(しか)して女子教育者の責務を感ずる。(略)我等は国民教育者としてのよりよき資質の錬磨(れんま)に精進(しょうじん)し以つてその使命の完遂(かんすい)に邁進(まいしん)すべきである事を痛感した。」と記した。
彼らの厳しい覚悟と自己練磨(じこれんま)が教育者としての魂を養成した。この「師範(しはん)魂(だましい)」が戦後日本の教育界を支へて行つたのだ。
【参考文献】
●『東亜同文書院大学史』藤田佳久『東亜同文書院中国大調査旅行の研究』滬友編集委員会『大陸大旅行秘話』・栗田尚弥『s上海東亜同文書院』大東塾出版部『復興アジアの志士群像』黒龍会編『東亜先覚志士紀伝』(上巻・下巻)東亜同文書院滬友同窓会『山洲根津先生伝』馮正宝『評伝 宗方小太郎』宗方丈夫『亡父宗方小太郎を偲びて』(宗方丈夫氏は多久善郎の父方の祖父(田邉寛忠)の弟で、東京帝大在学中に宗方小太郎氏にみそめられて娘さんと結婚し養子に入って宗方家を継いだ)
●今岡和彦『東京大学第二工学部』東京帝国大学『東京帝国大学学術大観1総説・文学部』東京大学『東京大学百年史 通史二』
●『熊本師範学校』『熊本師範学校史』『文部省思想局 思想調査資料集成第12巻』『熊本青年師範学校史』
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