「道の学問・心の学問」第五十六回(令和3年6月8日)
貝原益軒に学ぶ⑮
「内に敬齋するは、心を清くし、欲と怒をやむるを云。是内清浄也。外に敬齋するは、物いみし、沐浴しみそぎはらひして、物いみするなり。是外清浄なり。」(「神祇訓」)
『益軒十訓』(昭和3年刊)には掲載されていないが、益軒は「神祇訓」をもしている。しかし残念な事に、この「神祇訓」は途中迄しか現存せず、後ろが欠落している。執筆年代は「家道訓」を記した正徳元年(1711)の八十二歳の時と推定されている。
益軒は、日本人には神道こそが相応しいが、神道は「易簡の理」「不言の教」で、解り易く、日常的に行いやすいが、「道」に関する道理が文字で記されていない。それ故、シナに於る神の道を説いている四書五経に学ぶ事で、その道理を得る事が出来ると述べている。
益軒は言う、「秋津洲(日本国)は、神が治められる国であり、君は静かに(位に)居られ、その下で民は安らかに過ごしている。日本は神国なので、此の土地に生まれた人は、神の道を貴んで知らねばならない。神道を知ろうとするならば、神様の御心に通じなければならない。神の御心は、誠を主として清浄正直な事にあるので、昔から今に至るまで、君も是に随われ、民も上の人々の徳による感化に随い、まめやかに、すなおに、いさぎよい事を以て心と為すべきである。」と。江戸時代の儒学者はともすれば、シナ崇拝に陥りやすいが、益軒は日本人としての自負心を持ち、神道こそが日本の風土と人に相応しく、神に治められている日本人だから、平和で安らかに生活できているのだと、その幸せを実感していた。
「神道は、誠の心を本として、清く素直にある事を主眼とし、それ以外の事は少ない道であり、只、心に偽りがなく、誠を本として、穢れを祓い清める事を、主眼とする。」
「神道は誠を本とする。心にも言葉にも、只誠を専らにし主としなければならない。誠の道は人を感動させ、神をも感応させる。(略)神道を以て人を諭そうとするならば、先ず自分の心に偽りをなくして、誠の道を以て人に勧めねばならない。誠があれば、人は自ずと感服して従うであろう。」
「神道は、不言の教えを本として、黙ったままで心に知り、身に行う事を中心とせねばならない。多くを聞き、広く見ても行わなければ、虚妄(うそいつわり)であり、無用な学問である。内外斎戒(身を清め心を清める)するのは、神に交わる道である。常に内外に斎戒し、みそぎ祓いして、神明に対するがごとく、慎んで清くする、これが神道の要である。」
「内に向かって敬齋(慎んで斎戒する事)する事は、心を清くして、欲や怒りを止めることを言う。是が内面を清浄にする事である。外に表して敬齋する事は、物忌みをして酒食を慎み、沐浴しみそぎ祓いする事を言う。是が外身を清浄にする事である。」
「内清浄」と「外清浄」、心に誠を溢れさせ、身体にも常に清浄さを保つ事、美しい山河と自然の豊かな恵みの中で、「大和」の世界を築いて来た日本人は、常に心の浄化と、我が身の清浄と周囲の清掃に努めて来た。外清浄と内清浄は繋がっている故に、我が国の教育では清掃に重きが置かれ、家庭では入浴が重んじられた。「本是れ神洲清潔の民」(伴林光平)との自覚こそ、益軒をも貫く日本人の自負心であったのである。
貝原益軒に学ぶ⑮
「内に敬齋するは、心を清くし、欲と怒をやむるを云。是内清浄也。外に敬齋するは、物いみし、沐浴しみそぎはらひして、物いみするなり。是外清浄なり。」(「神祇訓」)
『益軒十訓』(昭和3年刊)には掲載されていないが、益軒は「神祇訓」をもしている。しかし残念な事に、この「神祇訓」は途中迄しか現存せず、後ろが欠落している。執筆年代は「家道訓」を記した正徳元年(1711)の八十二歳の時と推定されている。
益軒は、日本人には神道こそが相応しいが、神道は「易簡の理」「不言の教」で、解り易く、日常的に行いやすいが、「道」に関する道理が文字で記されていない。それ故、シナに於る神の道を説いている四書五経に学ぶ事で、その道理を得る事が出来ると述べている。
益軒は言う、「秋津洲(日本国)は、神が治められる国であり、君は静かに(位に)居られ、その下で民は安らかに過ごしている。日本は神国なので、此の土地に生まれた人は、神の道を貴んで知らねばならない。神道を知ろうとするならば、神様の御心に通じなければならない。神の御心は、誠を主として清浄正直な事にあるので、昔から今に至るまで、君も是に随われ、民も上の人々の徳による感化に随い、まめやかに、すなおに、いさぎよい事を以て心と為すべきである。」と。江戸時代の儒学者はともすれば、シナ崇拝に陥りやすいが、益軒は日本人としての自負心を持ち、神道こそが日本の風土と人に相応しく、神に治められている日本人だから、平和で安らかに生活できているのだと、その幸せを実感していた。
「神道は、誠の心を本として、清く素直にある事を主眼とし、それ以外の事は少ない道であり、只、心に偽りがなく、誠を本として、穢れを祓い清める事を、主眼とする。」
「神道は誠を本とする。心にも言葉にも、只誠を専らにし主としなければならない。誠の道は人を感動させ、神をも感応させる。(略)神道を以て人を諭そうとするならば、先ず自分の心に偽りをなくして、誠の道を以て人に勧めねばならない。誠があれば、人は自ずと感服して従うであろう。」
「神道は、不言の教えを本として、黙ったままで心に知り、身に行う事を中心とせねばならない。多くを聞き、広く見ても行わなければ、虚妄(うそいつわり)であり、無用な学問である。内外斎戒(身を清め心を清める)するのは、神に交わる道である。常に内外に斎戒し、みそぎ祓いして、神明に対するがごとく、慎んで清くする、これが神道の要である。」
「内に向かって敬齋(慎んで斎戒する事)する事は、心を清くして、欲や怒りを止めることを言う。是が内面を清浄にする事である。外に表して敬齋する事は、物忌みをして酒食を慎み、沐浴しみそぎ祓いする事を言う。是が外身を清浄にする事である。」
「内清浄」と「外清浄」、心に誠を溢れさせ、身体にも常に清浄さを保つ事、美しい山河と自然の豊かな恵みの中で、「大和」の世界を築いて来た日本人は、常に心の浄化と、我が身の清浄と周囲の清掃に努めて来た。外清浄と内清浄は繋がっている故に、我が国の教育では清掃に重きが置かれ、家庭では入浴が重んじられた。「本是れ神洲清潔の民」(伴林光平)との自覚こそ、益軒をも貫く日本人の自負心であったのである。
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