第7回(令和5年7月4日)
「知は行(こう)の始め、行は知の成れるなり。聖学は只だ一箇の功夫。知行は分ちて両事と作(な)すべからず。」 (『伝習録』上巻27)
陽明学と言えば「知行(ちこう)合一(ごういつ)」が有名だが、「言行一致」や「有言実行」と勘違いしている人も多い。王陽明は「知」と「行」は本来一つであるはずだと、世に警鐘を鳴らしたのである。
王陽明は、当時(明代)の学問の主流・朱子学派が「知」の集積を重視して「先知後行」を正当化する風潮に対して、断固として「NO」を突き付けた。知識だけが先行し、その内実が伴わない軽薄な風潮が我慢ならなかったのである。
王陽明は物事を一元論で捉えている。「知」と「行」は同じでなければならない。知識と行動が分化する事は、本来有り得てはならない。知る事は行う事の始めであり、行いは知る事が成就した姿である。王陽明が求める学問(=聖学=人間学)は、人間を最高の人格(「聖人」)へと高め上げて行く実践的な学問でなければならない。その為には、「知」と「行」は一つに貫かれていなければ意味を為さないのである。
現代では、知識の豊富さ、更には情報量の多寡で人物を判断する事が多いが、知識ばかりが増えても、それを使いこなす人間に、信念も気迫も哲学も無ければ全く意味を為さない。真に知るとは何か。行動に繋がらない知識はアクセサリーに他ならない。その様な飾りを幾ら持っていても、人生の真剣勝負の時には何の役にも立たない。「知」と「行」を一つのものとして、自らを磨き上げて行ける人間こそが、本物であり、他を惹き付ける力を有するのである。
「知は行(こう)の始め、行は知の成れるなり。聖学は只だ一箇の功夫。知行は分ちて両事と作(な)すべからず。」 (『伝習録』上巻27)
陽明学と言えば「知行(ちこう)合一(ごういつ)」が有名だが、「言行一致」や「有言実行」と勘違いしている人も多い。王陽明は「知」と「行」は本来一つであるはずだと、世に警鐘を鳴らしたのである。
王陽明は、当時(明代)の学問の主流・朱子学派が「知」の集積を重視して「先知後行」を正当化する風潮に対して、断固として「NO」を突き付けた。知識だけが先行し、その内実が伴わない軽薄な風潮が我慢ならなかったのである。
王陽明は物事を一元論で捉えている。「知」と「行」は同じでなければならない。知識と行動が分化する事は、本来有り得てはならない。知る事は行う事の始めであり、行いは知る事が成就した姿である。王陽明が求める学問(=聖学=人間学)は、人間を最高の人格(「聖人」)へと高め上げて行く実践的な学問でなければならない。その為には、「知」と「行」は一つに貫かれていなければ意味を為さないのである。
現代では、知識の豊富さ、更には情報量の多寡で人物を判断する事が多いが、知識ばかりが増えても、それを使いこなす人間に、信念も気迫も哲学も無ければ全く意味を為さない。真に知るとは何か。行動に繋がらない知識はアクセサリーに他ならない。その様な飾りを幾ら持っていても、人生の真剣勝負の時には何の役にも立たない。「知」と「行」を一つのものとして、自らを磨き上げて行ける人間こそが、本物であり、他を惹き付ける力を有するのである。
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