「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

中江藤樹⑫「心法図説」と「凡心図説」

2020-08-28 12:48:51 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第十五回(令和2年8月28日)

中江藤樹に学ぶ⑫

「心法図説」と「凡心図説」(『藤樹先生全集』第二巻)

 藤樹は君子(立派な有徳者)と凡人(私欲に惑わされている者)の姿について、「心法図説」と「凡心図説」という図を描いて示している。この図では、▢が「寂然不動の象」、◯が「流行活動の象」で、▢は理(あるべき姿)を描き、◯は気(移り変わる姿)を描いている。

 君子は、▢の内に大きく「中」が記されてある。この「中」は、中正・中立・中庸などで使われる「ほどよい・かたよらない」の意味である。天の法則に合致している心の状態の事である。その心の状態には形も色も声も臭いも無い。それ故「静虚」であり「無欲」の姿となり、「寂然不動にして」様々な物事を正しく「感じる」のが「中」の状態である。

 だが、人間は生きている訳であるから、▢は◯と自ずと交わって来る。その重なる部分に、神の如き明るい心の意味の「神明」を記し、それを現す為の最も必要な行である、「慎独」が置かれている。照り輝く「神明」は「遂には天下の故(事柄)に通ず」、全ての事柄を照らしてあるべき姿を現成する。それを「和」と呼び、◯の真ん中に記している。◯は日常生活の姿である。「和」は「動直無為」となる。▢の中の「静虚」が「動直」として現れ、「無欲」が「無為」として現れる。「無為」とは何もしないのではなく、自然のままで作為の無い事を言う。天理に応じる行いは無為となる。◯の下の部分に「視善・聴善・言善・行善」と記してあるのは、視聴言行という日常の行ないに於て善を為す事の大切さを示し、善を為す事で徳が積まれて行く。日々この様に生きる時には日常の全てで善とならないことは無い。

 「心法図説」に記された君子の心と行動の在り方を心に留めて、「凡心図説」を見ると、凡人たる吾々の陥っている姿が良く解る。凡心の図でも▢と◯が交差して、神明が記してある。人として生まれた以上、善悪を知る神明は備わっている。それは良知があるからである。ただ、君子は「慎独」を重んじるが「凡人」は「自欺(自らを欺く)」して「気随(きまま)」となる。凡人の□は真の「空」では無く、「頑空」で、念慮が動くと「妄念」になる。それ故、「意(かんぐり)必(無理を通す思い込み)固(がんこ)我(自分本位)」が生じ、「間思雑慮(くだらない雑念)」が起こってくる。凡心は「毀誉・利害・驕吝・勝心・高慢・便利」等に惑わされ、その甚だしい者は欲・悪に堕してしまう。

 藤樹先生の「心法図説」と「凡心図説」の画を眺めながら日々の心の修養に資して欲しい。


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