「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武田信玄⑥「晴信孫子の旗四本を作る。其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山と云ふ語なり。」

2020-08-25 11:06:24 | 【連載】続『永遠の武士道』
「続『永遠の武士道』」第十四回(令和2年8月25日)

晴信孫子の旗四本を作る。其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山と云ふ語なり。   
                 (『定本 名将言行録』武田晴信)

 武田信玄の旗「風林火山」は有名である。この言葉はシナの兵書『孫子』軍争篇第七の三番目に記してある言葉である。読み下すと「其の疾(はや)きことは風の如く、其の徐(しずか)なることは林の如く、侵掠することは火の如く、動かざることは山の如く」である。更に『孫子』では、その後に「知り難き事は陰の如く、動く事は雷の震うが如く」と続いている。軍争篇は「敵の機先を制して利益を収めるために争うことを述べ(金谷治)」ており、敵の裏をかく変化の形の必要性を述べ、敵に先んじて有利な形を生み出す為の軍隊の姿を、「風」「林」「火」「山」に例えて論じているのである。

 信玄がこの旗を示した時、重臣の馬場信房が「風ははなはだ烈しく吹いていても徐々に弱くなるもので、朝の気は鋭く、暮れの気は帰る、というのにも合わないのではないか。」と疑問を呈した。信玄は、「その通りだ。しかし、この旗は先鋒隊に持たせるもので、先鋒は疾い事を善しとする。わしが率いる本体にその先鋒隊の風を引き継がせよう。」と述べた。そこで信房は「殿は思慮深く、二段構えにして敵を圧倒するという『二の身の勝』を会得された。」と述べたと云う。信玄にとっては、「風」「林」「火」「山」の全てが連環しかつ千変万化して勝機を生み出す姿として把握されている。その全てが大将の心から生まれるのである。

 前回紹介した文章で、信玄が日常的に不動心を涵養し、その為に丹田に気を留める事を推奨していた事を述べたが、その落ち着きが「静かなること林の如く」「動かざること山の如き」陣容を生み出しているのである。だが、静と不動だけでは、敵に打ち負かされてしまう。「勝機」を見出したら、疾風の様な素早さで動き、猛火の如き破壊力で敵を殲滅するのである。そして勝を制したなら、再び元の静けさと不動の姿に戻って行く。

 信玄は十六歳の初陣から五十三歳での陣没迄三十七年間に亘り、諏訪・南信濃・北信濃・川中島・関東・東海へとその戦いを続け領地を広げて行った。兵法の定石である情報収集を徹底して行い、予め勝利を計って出陣した。その上で、強敵には決して無理はせず引き分けも良しとした。信玄は領国拡大が私欲の為で無く唯領民を安楽ならしめんが為に行っている事を伝え、善政を敷いた。それ故、一度信玄の下に降った領民が背く事はなかったし、信玄の下で仕えたいという侍は居ても、甲斐から離れたいと望む者は居なかったと言う。「風林火山」は戦いの旗幟ではあるが、信玄の人間としての偉大さを見事に表現していると言えよう。


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