「道の学問・心の学問」第七十二回(令和3年9月21日)
石田梅岩に学ぶ⑬
「歿後宅に遺りし物、書三櫃。また平生人の問に答へ給ふ語の草稿、見台、硯、衣服、日用の器物のみ。」
(『石田先生事蹟』)
石田梅岩は延享元年(1744)9月23日より病み、翌24日の正午頃、自宅にて亡くなり、門人達の手により洛東鳥辺山に葬られた。享年60歳だった。生涯独身を貫き、倹約を実践した梅岩の家には、書籍が櫃三箱、門人の問に答える為に書かれた草稿、書見台、硯、衣服、日用の食器類のみが遺されていた。見事な言行一致の生涯である。
歿後に梅岩を偲ぶ為に門人達が精魂を傾けて記した『石田先生事蹟』の中から、今日の我々の範ともすべき事柄の幾つかを紹介して石田梅岩の項を終了したい。
・昼夜門人が来て忙しくされていたが、空いた時間には机に向かって書を繙かれていた。持病で眠りを催した時には、そのまま立って掃除などをして、眠りが覚めれば掃除を止めて又机に向かわれた。
・乞食(物貰い)に物を施す時には速やかに与え、用事に取り掛かり与える時間が無い時は、与えないと厳しく述べられた。それは、乞食に暫くも無益に立ち止まらせる事が無い様にと思われての事である。
・人から手紙が届けば、押し戴き、その後で手紙を読まれた。実際、その人に対面する様であった。古い弟子でも、学問への志を怠っている様なら、その者からの祝儀は受け取られなかった。人に頼んで物を買う際、売り手が代金を受け取らなければ、その物は使わずに返却された。
・先生曰く「無益の殺生を悲しみ、二十年この方、湯あみ、洗足、物を茹でた残り湯などを捨てる時には、熱いお湯には水を混ぜて流している。それは地中の虫が死なない様にと思うからだ。十の内七つは実践できている。些細な事だが、貪る心を止めたいと志しているので、自分で自炊し、欲心が出て来ない様にと常に心を尽している。この様にすれば、私の様な柔弱な者でも無欲になれば、少しは人の心を助ける事が出来るのではないかと思っている。」
・ある夏の日に、河内の国の黒杉政胤宅に招かれた時、籬の辺に流水の仕掛けがしてあったのを見て、農家に水が必要な時に、自分の為にわざわざ水を引いてくれているのではないかと危惧して問われた。又、途中の田の中に雑草が茂っていたので、自ら田に入って草を抜き、門人に示された。人々は、講釈を聞いてから愈々家業に励み、勉める様になった。講釈が終わり、政胤が祝儀を渡そうとしたが、先生は再三固辞して受け取られずに、「此度の行き来や滞在の諸費用を出して戴いているのに、更に祝儀などを受ける必要はありません」と終に受け取られなかった。
人は、言葉では無く、日常の姿に於てその思想信条を示しているのだと、梅岩の生涯が教えてくれている。
石田梅岩に学ぶ⑬
「歿後宅に遺りし物、書三櫃。また平生人の問に答へ給ふ語の草稿、見台、硯、衣服、日用の器物のみ。」
(『石田先生事蹟』)
石田梅岩は延享元年(1744)9月23日より病み、翌24日の正午頃、自宅にて亡くなり、門人達の手により洛東鳥辺山に葬られた。享年60歳だった。生涯独身を貫き、倹約を実践した梅岩の家には、書籍が櫃三箱、門人の問に答える為に書かれた草稿、書見台、硯、衣服、日用の食器類のみが遺されていた。見事な言行一致の生涯である。
歿後に梅岩を偲ぶ為に門人達が精魂を傾けて記した『石田先生事蹟』の中から、今日の我々の範ともすべき事柄の幾つかを紹介して石田梅岩の項を終了したい。
・昼夜門人が来て忙しくされていたが、空いた時間には机に向かって書を繙かれていた。持病で眠りを催した時には、そのまま立って掃除などをして、眠りが覚めれば掃除を止めて又机に向かわれた。
・乞食(物貰い)に物を施す時には速やかに与え、用事に取り掛かり与える時間が無い時は、与えないと厳しく述べられた。それは、乞食に暫くも無益に立ち止まらせる事が無い様にと思われての事である。
・人から手紙が届けば、押し戴き、その後で手紙を読まれた。実際、その人に対面する様であった。古い弟子でも、学問への志を怠っている様なら、その者からの祝儀は受け取られなかった。人に頼んで物を買う際、売り手が代金を受け取らなければ、その物は使わずに返却された。
・先生曰く「無益の殺生を悲しみ、二十年この方、湯あみ、洗足、物を茹でた残り湯などを捨てる時には、熱いお湯には水を混ぜて流している。それは地中の虫が死なない様にと思うからだ。十の内七つは実践できている。些細な事だが、貪る心を止めたいと志しているので、自分で自炊し、欲心が出て来ない様にと常に心を尽している。この様にすれば、私の様な柔弱な者でも無欲になれば、少しは人の心を助ける事が出来るのではないかと思っている。」
・ある夏の日に、河内の国の黒杉政胤宅に招かれた時、籬の辺に流水の仕掛けがしてあったのを見て、農家に水が必要な時に、自分の為にわざわざ水を引いてくれているのではないかと危惧して問われた。又、途中の田の中に雑草が茂っていたので、自ら田に入って草を抜き、門人に示された。人々は、講釈を聞いてから愈々家業に励み、勉める様になった。講釈が終わり、政胤が祝儀を渡そうとしたが、先生は再三固辞して受け取られずに、「此度の行き来や滞在の諸費用を出して戴いているのに、更に祝儀などを受ける必要はありません」と終に受け取られなかった。
人は、言葉では無く、日常の姿に於てその思想信条を示しているのだと、梅岩の生涯が教えてくれている。
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